今の自分

 10年前の私がやって来た。私が驚いていると、昔の私も驚いていた。10年前。小学生6年生だ。


「こんな大人になってるんだ...」


 落胆した様子で、彼女は言った。悪かったな。こんな大人になって。


「恋人はいるの?」


「いないよ」


「パパとママは元気?」


「1年ぐらい会ってないよ」


「みさきとあかねは?」


「5年ぐらいあってないよ」


「女優さんにはなれた?」


「私はね。あなたが思っているよりも不細工なのよ」


「寒いね。この部屋暖房は?」


「電気代がかかるからね。これでも着る?」


 私は羽織っていたダウンジャケットを彼女に着せた。

 

「仕事はなにやってるの?」


「決まってない。派遣だよ」


「はけん?」


「そう。言われたところに行って、言われた仕事をするの」


「あるばいとと何が違うの?」


「あまり違わないかな」


「女優さんにはならなかったの?」


「中学生になったら、あなたが諦めるのよ」


「なんで?」


「私はあなたが思っているよりも普通の人間で、特別なことなんて1つもないからだよ」


「ひどい」


「大丈夫。すぐ慣れるよ」


「そんなの、生きてて楽しい?」


「楽しくはないかな」


「じゃあ、何で生きているの?」


「死んだら他人に迷惑がかかるからだよ」


「ひどい」


「すぐ慣れるよ。そろそろ仕事だから、もう行くね」


「え!今日は日曜日でしょ?」


「そういう契約だからね。お留守番はできる?」


「うん」


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 行ってきます。なんて、いつぶりに言っただろうか。私は玄関の鍵を締めて、職場へ向かった。小学生の頃の私ってあんなに幼かったんだな。あの頃は楽しかったな。


石永いしながさん。黒インクの交換頼める?」


「わかりました」


 私は計算ソフトを閉じて、備品が整理されている箱からインクを取り出した。コピー機のふたを開けて、黒のインクを取り外して、新しい物と交換する。そして、私はまた自分の席に戻った。


 パソコンを開く。先ほどまでやっていた作業の保存を忘れていた。少し手前から、またやり直しだ。私は吐き出しそうになったため息をこらえて、作業を再開した。


「石永さん。至急で悪いんだけど、経理部の川西に会計の催促をしてくれない?」


「はい。分かりました」


 受話器を取って、経理部の川西さんへ電話をかける。すると、機嫌の悪そうな声で「もしもし?」と川西さんの声が聞こえてきた。


「お忙しいところ申し訳ございません。CS部の石永です。先日、田辺たなべがご相談させていただいた、資料の方なのですけど...」


「ああ。こちらも手が込んでまして。終了次第、こちらから連絡致しますので、少々お待ちください」


「わかりました」


 ブチッ。切れてしまった。田辺さんに何て言おうと考えながら、ふせんに先ほどの情報をオブラートに包んで書くと、彼のデスクに貼った。


 ようやく、私の仕事ができる。私は席に戻ると水筒に入った水道水を飲んで、軽く腕を伸ばした。


「ちょっと、石永さん全然進んでないじゃない!」


 正社員の三田みたさんの声が後ろから飛んできた。彼女は私よりも30歳も年上の大先輩だ。私は慌てて振り向くと「すみません」と言って深々と頭を下げた。


「派遣の人は良いわよね。言われた仕事をやって、ミスをしても何も響かないのだから」


「すみません」


「あーあ。私も派遣社員になってみたかったわぁ。どうやったらなれるのかしらねえー?」


「...すみません」


 満足がいったのか、彼女は席に戻って行った。私はもう一度水筒の水を飲んで、3秒だけ目をつむる。吐き出しそうになったため息をまたぐっとこらえ、資料の作成を再開した。目が痛いな。


 私は家に帰ると、靴を脱いでリビングに置いてあるクッションに飛び込もうとした。しかし、そこには教育アニメを眺める昔の私が座っていた。まさか、1日中テレビをつけていたのではないだろうな。


「おかえりなさい」


「ただいま」


「ご飯にする?それともお風呂が先?」


「え?」


 テーブルの上を見ると、豚肉とモヤシの野菜炒めがあり、お風呂もちょうど沸いてあるようだった。湯船ゆぶねなんて、実家以外で入るのはひさしぶりだ。


「どうしてやってくれたの?」


「私は将来、お金持ちのイケメンのお嫁さんになるから!今はその修行なの!」


 ああ、そんなバカを言っていた時期もあったっけ。でも、あなたがなるのは貧乏でブサイクな独り身だよ。と言い出しそうになって辞めておいた。私は彼女の作った手料理を食べるため、席に座って箸を持った。


「今の仕事はつらくない?」と若い頃の自分が正面の席に座って尋ねて来た。


「すぐ慣れるよ」


「恋人は欲しくないの?」


「お金がかかるからね」


「休みの日はなにしてるの?」


「昼まで寝て、ご飯食べて、YouTube見て、お風呂に入って寝る。起きたらまた仕事」


「辛くない?」


 辛い...か。そう見えるのかな。


「すぐ慣れるよ」


「今の仕事楽しいの?」


「すぐ慣れるよ」


「本当にすぐに慣れるものなの?」


「...そんなわけ、ないじゃない」


「じゃあ、何で嘘つくの?」


「私だって!私だって!」


 せてきた感情にガソリンをかれた。もう、爆発する。ダメなのに。私は大人になれたのに。


「私だって!まだ子どものままでいたい!歳をとるから大人になるんじゃないの。歳をとるから、大人にならなきゃいけないの!私だって、まだ誰かに甘えていたい!私だって、子どもが母親に言い返すように、上司に文句を言いたい。でも、周りの人達が言わないから!言っちゃいけないの!そうやって生きていくしかないの!辛いかって!?辛いに決まってんじゃん!それでも、頑張らないと大人になれないの!子どものままじゃダメなの!頭を下げて生きていくしかないの!」


 喉が痛い。叫んだ勢いで涙が落ちて来た。箸を茶碗の上に置いて、顔を手で覆い隠す。こんな小さな子の前で泣くだなんて。バカみたい。


「自分の手を見て」


 彼女に言われて、自分の手を見る。私の顔を覆う手が小さくなっていた。私も子どもに戻っていた。正面に座る私が小さな笑顔を作り、私の頭を撫でた。


「大丈夫だよ。あなただけじゃない。みんな子どもになりたいの。だから、たまには誰かに甘えてみようよ。頑張ってるんだもん。偉いよ。よく頑張ったね」


 優しい声と柔らかい手で私の頭を撫でてくれた。


 声に出して泣いた。声が枯れるまで泣いた。思いっきり泣いた。泣いてやった。ふざけるな、インクぐらい自分で交換しろよチビメガネ。自分が嫌われたくないからって人に仕事押し付けんなやデブハゲ。あのクソババアはいつか本気で殺してやる。くそ。くそ。くそおおおおおおお。


 一通り泣いて、我に帰った。私はもう、いなくなっていた。なんだか、スッキリした。明日もまた、頑張ってみようかな。


〜 今日も1日がお疲れ様でした! 〜

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