3分で涙の出る小説

古澤 

社会は敵が多すぎる。

「洋子ちゃん。きちんと勉強しなさい」と母がキッチンから私の部屋に向かって叫んでいる。また、別日には「ちゃんと部屋の掃除をしなさい」と。そのまた別日には「早くお風呂に入りなさい」と叫んでいる。めんどくさいから、半分ぐらいは聞き流してきた。だから、こうなった。


 昨日、44歳になった。女、実家暮らし、独身。何の努力もして来なかったつもりはない。必要最低限の勉強をして商業高校に進んで、必要最低限の資格を取って、必要最低限の仕事をこなしている。けれど、実際にフタを開けてみると、何も残っていないのだ。恋人がいたことはないし、趣味もない。休みの日は家でYouTubeを観る。サブスクでドラマを観る。何がいけないのだ。母も私に結婚の話をしなくなった。父は5年前に他界した。今は2人でこの狭い家に住んでいる。母は父が死んでから一気に弱っていった。最近では杖をついて生活をしている。だから、母は家の外へ出なくなった。どんどん腰が曲がってきて、髪が抜けていって、せこけていく。母が死んだら、私は1人になるだろう。1人になるのだ。この広い世界でたった1人。耐えられるだろうか。きっと、無理だろう。


 昔から容姿が悪かった。目はゴマ粒のように小さいくせに、鼻の穴はお尻の穴のように大きい。おまけに頭と性格も悪かった。学校で容姿をバカにされる私だったが、母はその顔を可愛いと言ってくれた。学校に行きたくなかった時期は毎晩のように抱きしめてくれた。でも、私は母に悪態あくたいをついていた。ブサイクな私を産んだくせに可愛いなんてお世辞せじを吐く母が許せなかった。苦しかった自分の痛みを全て優しい母にぶつけた。最低だ。知っている。だから、親孝行おやこうこうをしようと思った。小さい頃に父と母と3人でよく行ったレストランに食事をしに行くのだ。母は張り切って、押し入れにしまっておいた洋服をクリーニングに出していた。


洋子ようこちゃん。ありがとうね。お金は大丈夫?」


「うん。大丈夫だよ。週末が楽しみだね」


「ええ。本当にありがとう」


 母の涙がスーッと頬を伝ってダイニングテーブルの上に落ちた。久しぶりだった。母に喜んでもらったのは。


 昔、テストで100点を取ったことがあった。その時期は受験シーズンだったこともあり、一生懸命に勉学べんがくはげんでいた。その甲斐かいもあって、不登校ではあったが、公立高校に受かることができた。母はテストのときはもちろん、受験に受かったときも飛び跳ねて喜んでくれた。あのときの母は私よりもずっと喜んでいて、泣いていた。母は善人なのだ。人の言うことを素直に受け止める。そして、よく謝る人だった。そんなところを私は尊敬していた。


「洋子ちゃん、仕事は順調?」


レストランへ向かうバスで、母が私に尋ねてきた。


-仕事-


 私は昔から、よく物を無くした。問題があると、すぐにあせる癖があった。そんな私が仕事を上手くこなしているわけがなかった。


「うん。いつも通り、順調じゅんちょうだよ」


「そう。よかった。遅くまで残業も頑張っているものね。頑張り屋さんだ」


 遅くまで残っているのは、私の仕事が遅いから。私が職場の人に迷惑をかけたから。そう言い返しそうになって、めておいた。もう、子どもじゃないのだ。今日は母に楽しんでもらいたい。そのために、プレゼントも買った。バラエティー番組で紹介されたガラス細工ざいくを母は欲しがっていた。玄関のインテリアにしたいらしい。だから、こっそりとカバンに忍ばしてある。驚くだろうな。喜んでくれるかな。私は心臓がドキドキとしていた。


 レストラン付近ふきんのバス停に着いた。私は定期券ていきけんで料金を支払うと、母の手を取りながら出口の段差をゆっくりと降りて、レストランに向かって歩き始めた。街の様子が変わっていると、母は悲しそうに言った。昔はよく、父とこの通りでデートをしていたらしい。父と初めて手を繋いだ雑貨屋ざっかやのある通り。仕事帰りに父とレイトショーを観た2丁目の映画館。そして、私と3人で一緒によく行った、あのレストラン。まるで、母が20代の乙女に戻ったみたいだった。最近見ることのなかった昔の笑顔をまた見た気がする。すると、浮き足だった母は道中に「最初にサラダを食べて、その次にパスタ。この店のクリームパスタが大好きだったなあ。あ、そうだ。最後にアイスクリームなんて食べちゃおうかしら」とソワソワしながら話していた。「そんなに食べられないでしょ」と私が言うと、今度はサラダとアイスクリームのどちらを食べようかと悩み始めた。シワを無くした少女のような明るい母が帰って来た。そして、有頂天うちょうてんな私たちはレストランに到着した。扉を開けて中に入ると、ウェイトレスが私たちの方にやって来たので、私はウキウキで「2人です」と人数を伝えた。


「ご予約はされていますか?」


予約。


 私は頭が真っ白になって、返事ができなかった。それを見かねた母が「すみません。出直しますね」と頭を下げてくれた。すると、同じ職場の人達がお会計をするために、ちょうどレジへ来た。職場の人達が全員いる。私を除いて。私は誘われていない。向こうも私に気づいたようで、その場の全員が下を向いた。耳が熱くなる。顔が熱くなる。目の奥からだんだんと何かが上がってくる。もう、いやだ。いやだ。私は母を連れて店を出た。帰り道の母と私は無言だった。すると、母は私に気を利かせるように雑貨屋あたりで話しかけてくれた。


「洋子ちゃん。大丈夫よ。また誘ってね。大丈夫だからね」


 その無神経な言葉が私の頭を通過して、善悪の判断をする前に、私はカバンを地面に叩きつけていた。パリンッと何かが砕ける音がする。ああ、終わったのだ。


「洋子ちゃん。ごめんね。私もうっかりしていたわ」


 そう言って、中でガラスの破片はへんが光るカバンを拾おうとした母を押しのけるように私はめた。すると、母は手首からグレーチングの上に落ちた。バチンッと鈍い音を鳴らしながら落ちていった。母は手首を押さえながら、地面にうずくまった。声帯が弱っているためか声が出せていない。母が怪我をした。骨が折れたのかもしれない。死ぬまでずっと折れているかもしれない。


 死ね。死ねや。死ねよ。私。


 膝から崩れ落ちる私と、うずくまる小さな母。決壊が崩れたダムのように私はボロボロと涙をこぼした。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。お願い死ね。私、今すぐ死ね。


「お母さん、ごめんなさい」


 震えながら言う私に、母はゆっくりと近づいて来てくれた。そして、あの日の晩のようにそっと抱きしめてくれた。細くなった木の枝のような腕に包まれて、私はまた泣いた。お母さん。ごめん。ごめんなさい。ごめんなさい...。



〜世界にてきは多いけれど、あなたの味方もちゃんといるはずです。今夜は母親に電話をかけてみたらいかがでしょうか〜




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