第29話
三月十三日、水曜日。
休日の希未は午前九時に起床し、午前十時に自宅を出た。
三月も中旬に差し掛かり、近頃は少しずつ暖かくなっていた。今日は天気も良く、スプリングコートで充分だった。この調子でなら、月末には桜が開花することだろう。
ゆっくりと確実に、新しい季節へと向かっていく。しかし、希未はどこか浮かなかった。
駅から電車に乗り、携帯電話を取り出した。メッセージアプリで成海志乃との会話画面を開くも――何も文字を打てなかった。
事前に合わせたのだから、彼女も今日は休日のはずだ。会いたい気持ちが無いわけではないが、戸惑っていた。
志乃の『正体』を知ったからであった。彼女のことを知りたいと思っていた。しかし、理解するにはあまりに重い過去だった。
これにより、揺らいでいた志乃への気持ちがどちらかに傾くことは無かった。ただ、誕生日にプレゼントを贈って祝ったものの――今も彼女を不憫に感じていた。
希未は携帯電話を鞄に仕舞う。志乃は今頃何をしているのだろうと思いながら、電車に揺られた。
やがて電車を降りて向かった先は『stella e principessa』だった。
以前、午前中はまだ少し余裕があると、天羽晶と澄川姫奈から聞いたことがある。その情報を元に、午前十時四十分頃に訪れた。
「いらっしゃいませ」
店に入ると、レジの従業員から声をかけられた。
数えるほどしかこの店を訪れていないが、確かに日中にしてはまだ空いていた。希未の目から、席は六から七割ほどが埋まっているように見えた。
希未としては、せっかく訪れたのだからコーヒーの一杯でも飲むつもりだ。だが、先に用事を済ませたい。
レジから続くカウンター越しに、長身の黒いショートボブヘアの女性――澄川姫奈の姿が見えた。
「おはようございます、澄川様。お世話になっております」
「遠坂さん。いらっしゃいませ」
笑顔で互いに挨拶をした後、希未は鞄から封筒を取り出して見せた。
それを察した姫奈は、カウンターから店内に出てきた。そして店内を見渡した後、申し訳無さそうに苦笑し、テラス席へと案内した。
割と暖かく天気も良いが、テラス席は誰も居なかった。希未としては、ここでも不満が無かった。立ち話だとしても、人目の無い所が良い。
姫奈は晶を呼ぼうとしなかった。この時間は不在なのだろうか。
何にせよ、希未としては姫奈ひとりの方が都合は良かった。
「押しかけて、申し訳ありません。こちら、請求書になります。最終見積もりから変わっていません」
改めて鞄から封筒を取り出し、姫奈に手渡した。
先日の最終打ち合わせから、今日で八日目になる。昨日の時点で一週間が過ぎ、何か変更や追加等の要望は無かった。希未は締切り、確定した必要金額を請求額に移したのであった。
最終的な金額は、税込み百十二万百六十四円となった。結果的に、内覧の際に算出した見積もり額とさほど変わっていない。最終見積もりで両新婦から特に不満は無く、納得して貰えた数字だと希未は感じていた。
後は、期限である三月三十日までに振込みが完了すれば、ふたりは望み通りの式を挙げることが可能だ。
「わざわざ持ってきて頂いて、ありがとうございます」
姫奈は受け取り、封筒の内容を確認した。特に問題は無いようだ。
希未は普段、請求書をPDFファイルとして添付し、電子メールで送信することがほとんどだった――最終見積もりに納得して貰っている前提だが。今回のように、直接手渡すことは滅多に無い。
どうしてこのような真似をしたのか、希未自身わからなかった。最後まで徹底的に付き合うのいう姿勢の表れなのか――
「本当に、これでよろしいんですか?」
或いは、確かめておきたいのか。
今は姫奈がひとりであるため、こうして『あの件』に触れることが出来る。
「あたしはこれまで、お客様の後悔の声も聞いてきました。ああしておけばよかったと、わかるのは事後なんですよ。事前にわかっているなら、潰しておいた方が良いです。後悔と妥協は、違います」
ゲストを誰も呼ばないことは、志乃と共に割り切ったつもりだった。だが、やはりまだ心残りだった。
顧客のためなのか、もしくは自分のためなのか、最早どちらで動いているのか分からない。ウェディングプランナーという立場でありながら、自分自身が納得できない部分は少なからず有る。姫奈の気持ちを汲むことを、言い訳にしているのかもしれない。
その可能性には目を反らし、姫奈をじっと見つめた。
姫奈は驚いた表情を見せた後、苦笑した。
「ええ、大丈夫です。心配してくださって、ありがとうございます」
希未には、姫奈が『あの件』だと理解するまで時間を要したように見えた。
所詮はその程度だと、捉えることができる。姫奈の言葉に説得力がある。
「本当ですか? 寂しくないんですか?」
だが、希未は食い下がらなかった。ここまでしつこいと、姫奈を不快にさせるかもしれない。売上金額を少しでも上げたい魂胆と捉えられても、仕方ないだろう。ウェディングプランナーとして悪手を打っている自覚があった。
この件に関して、姫奈が見せた不安げな表情だけでなく――志乃の過去も、希未を駆り立てていた。
志乃は周囲の反対を押し切ったにも関わらず、事実上は破局した。
これに因果があると、断定はできない。天羽晶と澄川姫奈は同性婚だが『望まれない結婚』ではないと、希未は理解している。
それでも、希未の中でふたつがぼんやりと重なっていた。連想からの不安が芽生えたに過ぎない。
「ゲストを誰も呼ばないことが、全く寂しいわけじゃありませんけど……大丈夫ですよ、本当に。あの時は『どっちかというと居た方が』ぐらいのニュアンスで言っちゃって、大事にさせちゃいましたね。ごめんなさい」
本来であれば姫奈が怒っても不思議ではないと、希未は思う。だが、姫奈から頭を下げられた。
「そんな……。頭を上げてください。あたしの勘違いだったようで……申し訳ありません」
謙虚な態度だけではなく、この状況で縋る様子が無いことからも、本当に『どうでもいい』のだと理解した。
希未はようやく我に返り、無礼を働いたことを反省した。
もしもここで姫奈が食いついていたならば、ある『アイデア』を提案するつもりだった。だが、口にすることも失礼だと思った。
「ということで、これ早めに振り込んでおきますね」
姫奈が、請求書の入った封筒を振る。
「もうここまでくると、緊張よりも……早く済ませたいって思っちゃいます。晶さんと一緒に、だいぶ身体絞りましたから」
姫奈の腹を擦る仕草に、ダイエットを努力したのだと希未は察した。
ウェディングドレスが決定した後は、体型の変化があってはならない――痩せるという意味でも。ドレスコーディネーターから、注意があったはずだ。
とはいえ、希未の目にはそれほど変わらないように見えた。おそらく、ドレスを選んだ時点から『維持』に努めているのだろう。一般的にはドレスの決定から挙式まで半年の間が開くが、姫奈と晶の場合は約五週間なので、まだ容易いはずだ。
「もう少しの辛抱ですよ、澄川様。ひとまずは来週の前撮り、頑張りましょう」
「はい!」
プロポーションにまで気をかけてウェディングドレスを着ようとするのは、ふたりの自己満足だけだろうか。こうして
「ちなみにですけど……写真は、誰かに見せるのですか?」
「はい。後で周りに見せようと、晶さんと決めてます。時期としても、ちょうどいいですしね」
前撮りと挙式の写真は、およそ一ヶ月後に届けられる。その頃には『落ち着いている』のだと、希未は察した。
そして、誰かの目に留まることに、少し安心した。
「良かったです。せっかくの綺麗な姿なんですから、皆さんに見て貰いましょう……写真だけでも」
花嫁姿を見られたくない女性など、おそらく存在しない。当事者以外の目も意識し、どの新婦も美容に心がけている。自己満足だけに収まらないのは、当たり前の行動原理だった。このふたりも例外ではないだろう。
「そうですね……」
少しの間を置き、姫奈が小さく頷いた。
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