第15話

 午後七時五十分、閉店十分前に希未は『stella e principessa』を出た。

 出る際になんとか笑顔を作って澄川姫奈に会釈したものの、外へ出た途端に溜息をついた。寒空の下、白い息が霞んで消えた。

 希未はフラフラとした足取りで電車の駅へと歩きながら、鞄から携帯電話を取り出した。そして、ぼんやりとした頭で無意識に、成海志乃に電話をかけていた。

 一週間も避けていたことの申し訳無さも、自分勝手な擦り寄りも、頭には無かった。悲しい現実に打ちのめされた今――どうしてか、志乃が真っ先に浮かんでいたのだった。


『のんちゃん? どうしたの?』


 少しのコール音の後、携帯電話越しに志乃の声が聞こえた。今日も日中に仕事で接しているにも関わらず、希未は久々に聞いたような気がした。


「すいません……。今から会えませんか?」


 それだけを、ぽつりと漏らす。

 迷惑だとも思わなかった。泣き出しそうな声である自覚も無かった。


『え……。それじゃあ……丁度ご飯作ってるところだから、食べに来ない?』


 志乃は少しの間の後、明るい声で提案した。


「わかりました。三十分ぐらいで着くと思います」

『待ってるわね』


 希未は淡々と返事をし、電話を切った。

 ぼんやりとしたままの頭で電車に乗った。そして目的地の駅で降り、フラフラと歩く。

 訪問したのは一度だけだが――しかも酩酊状態だったが、不思議と道を覚えていた。マンションに着いた後も、部屋番号まで覚えていた。

 午後八時半、希未は志乃の部屋に到着した。


「さあ。のんちゃん、上がって」

「お邪魔します……」


 柄こそ違うがエプロン姿で髪を束ねている志乃を見て、昼間と同じだと思った。

 希未は志乃と、そしてルルに出迎えられた。ルルは鳴きこそしないものの、人懐っこい様子で希未の足元をウロウロした。

 リビングに上げられる。やはりどこか物寂しい部屋だと思ったが――今の希未にとっては志乃の存在があるだけで、なんだか温かかった。

 キッチンの方からは、コンソメの匂いが漂っていた。


「最近、露骨に避けられてたけど……それどころじゃないみたいね」


 志乃は苦笑しながら、ソファーを指さした。

 ダウンジャケットを脱ぎ、希未は座った。そういえば確かに避けていたと、ここでようやく思い出す。きっかけはこの部屋での出来事だが、最早どうでもよかった。

 足元からじっと見上げてくるルルに構っていると、志乃から温かいマグカップを手渡された。何かのハーブティーだろか――良い匂いとすっきりした味わいに、気分は少し落ち着いた。


「それで……何があったの?」


 志乃が隣に座り、希未に向き合う。

 突然押しかけたという自覚が、ようやく希未に湧いた。だが、志乃は嫌な表情ひとつ浮かべていなかった。いつもの、おっとりとした――穏やかで、落ち着いた様子だった。

 自分のような人間にここまで構ってくれることが、とても嬉しく、そしてとても申し訳なく感じる。

 志乃に対して瞳の奥が熱くなると同時、先ほどのカフェでの感情も蘇った。


「あたし……ゲストを誰も呼ばないことがやっぱり納得できなくて、天羽さんに訊いてきたんですよ」

「あら。それで、どうしてだったの?」

「死んだことにして、世界中を騙したからだって! 自分には祝福される資格が無いからだって!」


 希未はやはり泣けなかった。俯き、自らの太ももに何度も拳を振り下ろした。

 天羽晶の自業自得であると、一概には思えなかった。誰が悪いわけでもない。希未は悔しいが、憎しみの行き先が無かった。

 ふと、太ももに志乃の手が置かれる。希未の拳は、動きを止めた。


「悲しい理由だったのね……」

「そうですよ! こんなの、あんまりです!」


 このようなことを考えるのは良くないと、希未は理解はしている。それでも、いっそ同性婚への後ろめたさからゲストを呼ばない方が、まだ説得の余地はあったと思う。

 天羽晶は悟ったような様子だった。誰がどのような言葉を投げかけても説得は不可能だと、希未は察した。

 ウェディングプランナーとして、ふたりの意思に従うしかない。希未は奥歯を噛み締める。

 ふと、太ももに置かれた志乃の手に力が入り――希未は顔を上げた。

 志乃が悔しそうな表情で、涙を流していた。

 彼女の泣き顔を初めて見たことに、希未は気づかない。単純に驚いたことで、昂ぶっていた感情が落ち着いた。


「どうして……成海さんが泣いてるんですか?」


 失礼な質問だと、訊ねた後で思った。志乃も担当として関わっている以上、この事実に涙してもおかしくはない。


「のんちゃんが、悲しそうにしてるからよ……」


 しかし、志乃が口にした理由は、希未にとって思いもしないものだった。

 貰い泣きとは少し違うが、感情が伝染したのだと察した。

 希未は申し訳ないと思うよりも――泣けない自分の代わりに泣いてくれているように捉え、嬉しかった。


「我慢しなくても、いいから……」


 志乃にそっと抱きしめられる。柔らかく、そして温かい。

 希未は悔しさから泣けなかっただけではない。泣いてしまうと、ウェディングプランナーとして諦めることになると思っていたのだ。

 だが、どうにもならないと頭の隅では理解していた。


「成海さん――あたし!」


 だから、こうして許された今、希未は諦めた。爆ぜた感情と共に、瞳から涙が溢れる。

 志乃の腕の中で、ただ泣いた。幼い子供のように、ふたりで泣いた。感情なみだを共有した。


 どれぐらい泣いただろうか。ふたり共泣き止んだ頃、少なくとも希未はすっきりとした気持ちと共に、疲労感を抱えていた。

 志乃が鼻をすすりながら立ち上がり、キッチンに向かった。夕飯を温め直した。

 その後、希未は小さなダイニングテーブルで、志乃と向かい合って座った。

 キャベツ、にんじん、じゃがいも、玉ねぎ――たっぷりの野菜とウインナーのコンソメスープ、そして鶏むね肉とレタスのサラダがテーブルに置かれた。

 空腹感があるため、美味しそうな匂いに希未は腹がうずく。しかし、手をつける前に謝っておきたかった。


「最近、避けてたこと……すいませんでした」


 今さらかもしれないが、無かったことにして流すのは虫が良すぎると思った。きちんとケジメをつけておきたい。


「それなんだけど、どうしてだったの? 私、何かやらかした?」

「そうじゃないんです! なんていうか……あたしが恥ずかしかっただけで……」


 瞳を腫らして泣き疲れた女性同士で向き合い、なんとも奇妙な光景だと希未は思う。これ以上に恥ずかしいことなど、無いかもしれない。

 しかし、酔った志乃にドキドキしたとは正直に話せなかった。

 ぼんやりとした顔の志乃が、首を傾げる。


「さあ! 食べましょう!」


 客人である立場にも関わらず、希未は志乃より先にスープに手をつけた。


「美味しいです」


 煮込まれた具材の味が、スープとして疲れた身体に染み渡る。

 手作り料理でもあるからだろう。温かいだけではなく、優しい味に感じた。


「ありがとう。冷蔵庫の残り物を片付けただけなんだけどね」


 志乃が微笑んだ。

 おそらく、普段から自炊をしているのだろう。同じぐらい忙しいにも関わらず偉いと、希未は思った。外食や惣菜ばかりで済ましている自分とは、大違いだ。


「その、天羽さんの件なんですけど……よかったら、力を貸して貰えませんか?」


 食事中に仕事の話はどうかと思う。それでも、希未は戻した。

 ふたりで泣いて気分が軽くなっても、まだ解決には至っていない。


「せめて、式のお花で何か喜んで貰えたらなって思います。今すぐじゃなくていいんで……もしアイデアがあれば、教えてください」


 ゲストが居ない挙式での凝った演出が、希未にはやはり浮かばない。浮かんだところで提案しようにも、当事者ふたりはスタンダートな儀礼を望んでいる様子だった。

 だから、ブーケにこだわりを見せているふたりに、教会内の装花で何か提案を行いたい。祝福を拒まれても、他者の意思を介さない花でなら許されるはずだ。

 希未はもはや、ブーケのデザインを提案した志乃に頼らざるを得なかった。ふたりの幸せを一番に考え、頭を下げた。


「そう言われると、プレッシャーになるんだけど……のんちゃんのためだもん、考えてみるわね」

「無茶言って、すいません」


 花の打ち合わせは月末だ。まだ時間はある。

 希未には志乃に負担をかける申し訳無さがあるが、それでも志乃を信じるしかなかった。


「ゲストが居なくても、のんちゃんがここまで頑張ってくれるなら……あのふたりは、きっと幸せね」


 志乃がスープを飲みながら微笑む。


「そうですかね?」

「ええ。せめて私達は、心から祝福しましょう」


 両新婦を想うこの気持ちを、祝福と呼ぶならば――ゲストが居ない以上、希未は力を込めたい。

 今の時点で具体的な案が全く無くとも、不思議と不安ではなかった。


「はい!」


 志乃の存在が、とても心強いのだ。ふたりでならきっと上手くいくと思った。



(第05章『呼ばない理由』 完)


次回 第06章『たかがチョコレート』

希未は志乃とバレンタインを過ごす。

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