第05話
一月十六日、水曜日。
午後九時過ぎに仕事を終えた希未は、ホテルの大浴場へと向かった。シフトでは明日が休日のため、なるべく疲れを取って帰宅したい。
とはいえ、真っ先に誰も居ないサウナに入り、隅の定位置で腕を組んだ。
頭にあるのは、天羽晶の案件だった。
彼女の名前を伏せてホテルと牧師に訊ねたところ、どちらも同性婚を執り行うことは可能だった。そして、三月三十一日に式だけならば、午後四時の枠がある。
あとは、顧客シートに記入して貰った連絡先に伝えるだけだが――希未は躊躇していた。
合同ブライダルイベントから二日が過ぎた。もう他の式場に決定している可能性もある。しかし、希未に焦りは無かった。
無理をしてでも幸せを支える役目を買って出るのか、それとも売上を考えて切り離すのか――自分がどうしたいのか、答えはまだ出ていない。
それについてじっくりと悩もうとしたところ、サウナの扉が開いた。
「のんちゃん、やっぱりここに居た」
成海志乃が入ってきた。
希未は志乃もまた自分と同じく、仕事を上がる時間が不定期だと把握している。口振りから、わざわざ探してやって来たのだろうと察した。
サウナで志乃と会うのは彼女の配属前日以来、二度目だった。あの時の、騙されたかのような気持ちが蘇る。そして、今日も考え事を邪魔されたと、希未は内心で落胆した。
「お疲れさまです」
それでも仕事の関係を大切にしたいので、愛想笑いで会釈した。
「今日はちゃんと巻いてるのね」
「もうっ。いい加減、忘れてください」
あの一件以来、希未は身体にタオルを巻いてサウナに入るようになった。仕事の資料を持ち込むことも、やめた。
にこやかな志乃が、希未の隣に座った。
「のんちゃん最近、なんか元気無いみたいだったから……心配してたのよ」
希未は前方の虚空をぼんやりと眺めながら、志乃の声を聞いた。
仕事ではなるべく
「私でよかったら、聞くわ」
以前ここで偶然にも仕事の悩みを話してしまったが、志乃が周囲に言いふらした様子は無かった。口の硬さは信用できる。
悩みを話して、気分が少し楽になったこと。そして、志乃が本当に心配してここまで探してくれたこと。希未はそのふたつを考え、心が揺らいだ。
結果、志乃の親切に甘えることにした。
「まだ保留だから詳しくは言えませんけど……ある案件を引き受けるか、悩んでるんですよ」
いくら志乃が信用に足る人間だとしても、希未は天羽晶の名前を出せなかった。ホテルで現在知っているのは、希未とマネージャーの加藤絵里子だけだ。万が一の漏洩を考え、プライバシー保護にはかつてないほど敏感になっていた。
「あたしが昔、とってもお世話になった人です。それでも、もう縁が切れたと思ってましたから……あり得ないはずの再会に、めちゃくちゃ驚いてます」
とはいえ、この前提でなければ悩みは成立しない。希未は、言葉を選んだうえで情報を出した。
「よくわからないけど、とにかく複雑なのね。ちなみにだけど、他の誰かに振るってことは?」
このホテルのウェディングプランナーは、希未ひとりだけではない。同じことを、絵里子からも一度は提案された。
しかし、希未はその選択に迷いが無かった。
「それは絶対に嫌です。……わがままですよね」
どうしてか、誰にも譲りたくなかった。もしも扱うならば、自分以外にあり得ない。
実に理不尽な言い分だったが、絵里子からは笑って許された。
「ううん、わがままなんかじゃないわ。のんちゃんはその人のこと、まだ好きなのよ。本当にお世話になったから、ちゃんとお礼したいのね」
希未としても、自覚が無くとも薄々は気づいていた。わがままを言う理由は、それ以外に無い。
だが、自分の気持ちを認めるにしても――希未はまだ躊躇していた。少し考え、理由はすぐにわかった。
「お礼はしたいですけど、不安なんですよ。あたしなんかに務まるのかなって……」
陰に隠れた本心は、それだった。
他者の幸せに触れることが億劫になっている現在だからこそ、大切な人には尚更だった。
「笑顔で心からお祝いしたいです。でも、それが出来る自信がありません」
「――私はまだ、のんちゃんとの仕事が浅いから、きっと出来るだなんて無責任なこと言えないわ」
弱音を一度吐いてしまうと、どんどん溢れそうだった。しかし、志乃に遮られた。
「それでも、一緒にやってみましょうよ。私が、のんちゃんを助けるから」
その言葉に、希未は隣を見上げた。
大量の汗を流しながら、志乃がとても明るい笑みを浮かべていた。
日常生活において、他者の優しさを感じないわけではない。だが希未は、久々に誰かの優しさに触れた気がした。瞳の奥が熱くなり、俯いた。
「そうじゃないと……たぶん一生後悔するわよ?」
希未は合同ブライダルフェアで、十年振りに天羽晶と再会した。
学生時分は、人生全てを捧げても推そうとしていた人物だ。交わることがなくとも、彼女から画面越しに与えられた時間は、かけがえのないものだった。
現在の生半可な気持ちでは、確かに大切な思い出を汚してしまうかもしれない。
しかし、それ以上に――大切な思い出を裏切りたくなかった。あの過去があったからこそウェディングプランナーとなり、現在の自分が在る。
だから、ここで向き合わなければ一生後悔することを、希未もわかっていた。
それでも、自分ひとりでは前に進めない。誰かに背中を押して欲しかったのだ。
「大安の日曜日……
「うん。大丈夫」
「式だけですけど、二ヶ月ぐらいしか時間無いんですよ?」
「う、うん……。私、頑張る」
希未は俯いたまま、拗ねた態度で訊ねた。ふたつ目の志乃が戸惑った様子に、思わず笑った。
一緒に仕事をした実績がまだほとんど無いのは、希未も同じだった。志乃の実力を把握しきれていない現状では、計画のイメージが掴みにくい。
それでも、不思議と心強かった。安心感――志乃からの優しさに、瞳から涙が溢れた。全身から汗が滝のように流れている今、気づかれないだろうと希未は思い、俯いたまま少し泣いた。
「成海さんは……どうしてあたしなんかに、ここまでしてくれるんですか?」
素直に身を委ねようとして、ふとその疑問が浮かんだ。
こちらの事情を知っているとはいえ、わざわざサウナまで探しに来ることも、励まして背中を押すことも――とても親身に感じた。嬉しいことだが、まだ出会って間もないことを考えれば、なんだか違和感があった。
「のんちゃんが、真面目で良い人だからよ……。報われるべきだって思うわ」
志乃に悩む様子が無いことからも、希未には当たり障りのない答えに聞こえた。それが行動原理になるとも、ならないとも思う。
「お人好しなんですね」
「まあ……そうなのかも」
結局は志乃を理解できず、ひとまずそのように扱った。希未からしてみれば、時間相応だった。
「お人好しついでに、ひとつ頼まれ事を聞いてくれませんか? とっても大切なことなんです」
だから、志乃を信じて訊ねた。
志乃に背中を押され、希未はこの案件をようやく前向きに考えることが出来た。
だが、まだもう少し足りなかった。そして、ひとりで向き合うには、まだ怖かった。
「あら、何かしら?」
「あたしと一緒に、カフェに行ってくれませんか?」
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