30 ほんとうの名前
「それで……『確かめたいこと』というのは?」
リビングのテーブルに向かい合わせに座り、ジンさんが尋ねる。
私は膝の上に手を置き、心を落ち着かせながら言う。
「……魔法学の先生であるジンさんに、お願いしたいことがあります」
「あぁ、俺にできることがあるのなら言ってくれ」
「私に……"真の力"に目覚めるためのカウンセリングを、受けさせてください」
それは、ジンさんが一部の生徒におこなっている個別相談のことだ。
全体に向けたカリキュラムの中ではなかなか自身の心と向き合うことができない生徒が受ける、特別対応。
心の奥底にあるトラウマと今度こそ深く向き合うため、私もこの個別相談を受けたいと考えた。
しかし……いや、予想通りと言うべきか。ジンさんは表情に不安を滲ませ、私に聞き返す。
「それは構わないが……君はもう十分に自身の過去と向き合っているのではないか? だからこそ、『修復』という新たな力に目覚めたのだろう?」
「いいえ。あれは
「……かなり苦しい時間になるぞ? 本当に大丈夫か?」
「はい、お願いします。今なら、私の力の本質を……見出せる気がするんです」
身体が、震えている。
でも、覚悟を伝えたくて、私はジンさんを真っ直ぐに見つめる。
それを受け止め、ジンさんは……一度目を伏せてから、再び私を見つめ返し、
「……わかった。だが、危険だと判断したらすぐに中止させてもらう。君の精神状態を見ながら進めていくから、そのつもりでいてくれ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
私は頭を下げ、礼を述べる。
そして、顔を上げると同時に、
「――ではまず、君の名前と年齢、出身地から、あらためて答えてくれ」
教師の顔になったジンさんの質問が始まった。
――最初は、魔法と直接関係しない、基本的な問いかけから始まる。
家族構成や、友人関係。
得意なこと、不得意なこと。
幼少期に好きだったもの、嫌いだったもの。
どんな時に喜びを感じ、どんな時に怒りや悲しみを覚えるか。
それは、他でもない自分自身が、"自分"について再認識するための問い。
そうして、核心に迫る問いへと少しずつ誘導される。
「――人生をやり直せるとしたら、何年前に戻りたい? あるいは……絶対に戻りたくない過去はあるか?」
私の返答をメモしながら、ジンさんが質問を投げかける。
私は、ジンさんが動かすペンをぼんやり見つめながら、頭で考えるのではなく、極力"心"で答えるよう努める。
「絶対に戻りたくないのは……七年前。母さんが、病気になった時です」
「それは、どんな病気だった?」
「全身の骨が徐々に溶ける奇病で……常に激痛に見舞われる、救いようのない病気です」
「母親の病気を目の当たりにし、君はどう思った?」
「可哀想だと……この痛みから解放してあげたいと、そう思いました」
ドク、ドク、と。
鼓動が、強く、速く、脈を打ち始める。
「その時の、
「……『どうして?』、という思いが強かったです」
「それは……何に対する疑問だろうか?」
「神様とか、運命とか、そういうものに対して……『どうして母さんを変えてしまったの?』と……そう思っていました」
「『変えた』というのは、病気になったことを指すのか……あるいは、他の変化があったのか?」
そう聞かれ、呼吸が一気に苦しくなる。
嗚呼、やっぱりここなんだ。
私の中で、一番向き合うべき記憶は。
「……母は、変わりました。四六時中激痛にさらされ、立つことも、食事を摂ることもままならなくなり……どんどん痩せ細っていきました」
「……メル、手を」
ジンさんが、テーブルの上に左手を乗せる。
震えていることに気付き、手を差し伸べてくれたらしい。
私は、いつの間にか爪が食い込む程に握っていた手を開き、おずおずと彼の手に重ねる。
優しく包むように握られた手は、温かで、大きくて……呼吸をするのが少し楽になる。
そして、
「母親の……君に対する態度には、変化があったか?」
ジンさんが、最も慎重な口調で、そう質問した。
きっと彼は、この問いこそが核心に繋がるのだと、わかっているのだろう。
私は……「はぁ」と、一度大きく息を吐き出し、
「……ありました。私がお見舞いに行くと、母は……笑うんです」
「……笑う?」
心臓が、再び加速し始める。
身体が冷たくなり、嫌な汗が出てくる。
「すっかり痩せて、筋張った顔で……私を見て、笑うんです。『あぁ、メルフィーナ。やっと来てくれた』、って」
何かがつっかえるように、喉が締め付けられる。
眼球が忙しなく泳ぐが、私の目には、あの頃の情景しか浮かんでいない。
「『痛いの……とても痛いの……お願い、どうか……』」
――ここから先だ。
一番辛くて、苦しいのは。
いつもここで、思い出すのをやめてしまう。
あの時の気持ちに戻ったら……おかしくなってしまいそうだから。
でも今は、一人じゃない。
ジンさんがいてくれる。
私がおかしくなっても、きっとジンさんが引き戻してくれる。
だから、ちゃんと……あの時の苦しみに、向き合ってあげよう。
私は、ジンさんの手をきゅっと握り、
「…………どうか……」
一度、喉を鳴らし――
「『――どうか、お母さんを…………
震える声で、それを口にした。
「……どうして? って……娘の私に、母さんを殺すことなんてできるはずないのに……なんでそんな悲しいことを言うの? って、すごく……すごく、苦しかった……っ」
テーブルに、ぽたっと水滴が落ちる。
そこで初めて、自分が泣いていることに気が付く。
「わかってる……母さんは毎日痛くて、痛くて痛くて痛くて……その痛みから解放されるには、もう死ぬしかないんだって、そう思ってしまうくらいに辛くて……でも私は、何もしてあげられなくて……っ」
言葉が、堰を切ったように溢れる。
心の奥底で叫び続けていた、十一歳の私の感情が、一気に溢れ出す。
「母さんを、癒してあげたい……この痛みから、解放してあげたい……そうするには、もう殺すしかないの……? そんなこと、できっこない……っ」
そして。
私の中でずっと泣いていた、十一歳の私が。
座り込み、耳を塞ぎ、怯えるように縮こまっていた私が……こう呟いた。
「あぁ、もう……
…………ぜんぶ、なかったことにできたらいいのに。
母さんが病気になる前の、幸せだった頃に――時を、戻せたらいいのに」
――呟いた直後。
私は、ハッと目を見開く。
『これだ』と、気付いたから。
「わ、私…………時を戻すことを、望んでいた……?」
瞬きもしないまま、涙が溢れる。
そうだ。やっと理解できた。
私が、本当に望んでいたこと。それは……
幸せだったあの頃に、戻ること。
その途端、私は、心が一気に軽くなるのを感じる。
まるで、固く閉ざされていた扉が開け放たれ、心地よい春風が通り抜けるような感覚が、胸に押し寄せる。
心の奥でずっと泣いていた十一歳の私は、もう……泣くのをやめていた。
ジンさんは頷き、私の手を両手でそっと包み込む。
「見つけたのか。君の、本当の願望を。それこそが精霊に授かった
「私の……
「そう。自分の弱さと向き合うことのできる、真の強さを持つ者だけが至れる境地に、君は到達したんだ」
呆然とする私に、ジンさんは優しく微笑み、
「メル……よく頑張ったな。おめでとう」
そう、祝福してくれた。
私は、一気に安心感が押し寄せ、顔をくしゃっと歪めながら、ぽろぽろ泣いて、
「わ……私……怖かったっ……うわぁああん……っ」
彼の手を握ったまま、子供のように、しばらく泣いた。
――ジンさんは、何も言わずに私の手を握っていてくれた。
そうして、一頻り泣いた私は、深呼吸をして、
「……ありがとうございます。もう、大丈夫です」
と、手を握られていることに今さら恥ずかしくなり、そっと腕を引っ込めた。
ジンさんも手を膝に戻し、柔らかく笑う。
「そうか。落ち着いたのならよかった」
「あの……もう一つだけ、確かめたいことがありまして」
「うん、何だ? あまり無理はしないでもらいたいが」
私は立ち上がり、テーブルの端に置いていたお皿――『修復』の実践のためにジンさんから借りていた、欠けたお皿を手に取る。
「メル……その皿が、どうかしたか?」
突然立ち上がった私に、ジンさんが心配そうに尋ねるが、私は無言でお皿を見つめる。
私の本当の能力が、『時』に関係するものだというのなら……確かめなければならないことがある。
私は右手を掲げ、お皿に当てると……こう念じた。
(教えて……あなたは、何を見てきたの?)
すると……
直後、私の脳裏に、ある情景が浮かんだ――
♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎
最初に見えたのは、上品な高齢女性。
白髪を綺麗に結い上げ、きちんとした身なりをしている。
その女性が、このお皿を手に取り、同じく年老いた男性に渡す。
男性はお皿を受け取り、じっと見下ろし、一つ頷く。
「……
そう言って、そのお皿を――ジンさんに手渡した。
「奥様がケーキを焼くのによく使われていた、お気に入りの品でした。きっと御守り代わりになるでしょう」
それに、ジンさんは静かに頷き、答える。
「ありがとう、ヤドヴィク。しかし……俺にはもう、御守りなど必要ないかもしれない」
「……本当に、『復讐』のために王都へ行かれるのですね?」
「あぁ。そのために俺は、今日まで生きてきた」
「……あの日、あなた様から全てを奪った賊の所業は、わたくしも決して許すことはできません。しかし同時に、わたくしは坊ちゃまに幸せに生きてほしいのです。暗く危険な道ではなく、日の当たる平和な道を歩いてほしいと……」
「ヤドヴィク、何度も話したはずだ。『復讐』を果たさない限り、俺に幸福は訪れない。これはもう、決めたことなんだ」
「……そうですね。大変失礼致しました。どうかお身体にだけはお気を付けて。先生のお仕事も、無理のないよう頑張ってください」
「あぁ。世話になったな、ヤドヴィク。それに、ヘレンも。時々手紙を出す。全てに片を付けたら……必ず帰って来るから」
そう言って、ジンさんはこのお皿を大切に包み、鞄へとしまった――
♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎
(……やっぱりそうだ)
情景が終わると同時に、私は瞼を開ける。
そして、ジンさんの方を向き、
「……ようやくわかりました。私の、本当の能力は――
"対象物の『時間』に干渉すること"です」
静かな声で、そう告げた。
損傷を『修復』するのではなく、時を戻し、元の状態に『回帰』させる。
それが、私の魔法の本質だったのだ。
ジンさんは目を見張り、納得したように頷く。
「なるほど……『直す』のではなく、時を『戻す』ことが、君の力の本質だったのだな」
「……それだけではありません」
私は、一度深呼吸をして……
意を決し、彼を見つめ、
「――アイロルディ家」
情景の中で見た、その名を口にする。
すると、ジンさんは……動揺をその目に滲ませ、聞き返す。
「……何故、その名を……?」
「やはり、あの記憶は本物なのですね」
「記憶……?」
「私……対象物の『時間』に干渉することで、その物が持つ記憶を見ることができるみたいなんです」
そう。先ほど『修復』を試みた古い本も、今しがた触れた欠けたお皿も、「知りたい」と念じることで、その物の過去を見ることができた。
つまり、私の脳裏に浮かんだ情景は……ジンさんの身に実際に起きた、過去の出来事。
「……ごめんなさい。私、見てしまいました。炎に焼き尽くされるお屋敷。暗闇に閉じ込められるジンさん。そして……あなたを『坊ちゃま』と呼ぶ人から、このお皿を渡された過去を」
私はぎゅっと、お皿を胸に抱いて、
「教えてください、ジンさん。あなたの過去に、一体何があったのですか? アイロルディ家って……あなたの本当の『復讐』って、何なのですか?」
そう、懇願するように投げかけた。
ジンさんは、呆然と口を閉ざし……
やがて、覚悟を決めたように息を吐いて、
「……そうだな。いずれ君には、全てを話すつもりでいた」
顔を上げ、私を見つめると、
「――俺の本当の名は、ジーンフリード・ウィル・アイロルディ。
十年前、例の組織に暗殺されたアイロルディ家の……唯一の生き残りだ」
そう、真っ直ぐに言った。
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