2-9「正しい自分の幻影に寄りかかっている」

 籠原の吐き出した煙が完全に見えなくなってから、この日は月が綺麗だったことに気づいた。


「なあ。お前、なんでかごめを助けようとしてんの」

「……見捨てた姉に似てるから」


 建前を使った。本心を言わなかったのは、そうするには見知らぬ人と裸で談笑するような居心地の悪さがあったからだ。姉には悪いが、ここは名前を使わせてもらうことにした。


 僕は自分の人生に役割を求めていたのだと思う。あの家族の元で兄のために生きることは、制限はあったが、嫌なことばかりではなかった。しばしば旅行に出かけることがあったし、そこには家族のために生きるという明確な生きる意味があった。


 だから、かごめを助けたのは似たような理由だ。


 今、彼女は僕にしか頼れない。自分だけの役割があり、それを欲した誰かから縋られたとき、相手を発端とする様々な要素を断片ごと受け入れられるような気がして、生きてる、と思う。


「姉? お前ん家、二人じゃなかったっけ」

「伊柄由。病気で死んだよ」

「ああ、そういうこと」


 彼の声を聞いてから、あれ、と思った。頭に姉と籠原が話す様子を思い浮かべようとして失敗したからだ。


 数秒の間があり、籠原の赴任が姉の死後だったからだと気づいた。彼が姉を知らないのも無理はない。


「だったら姉妹なんだから当たり前か」

「姉妹? 誰と誰が?」

「え? かごめと――」


 不意に籠原の表情が驚きのままぴったりと固まり、手から煙草がぽとりと落ちた。


 そんなわかりやすい戸惑い方をしなくてもいいじゃないか。彼のおかげで、僕の動揺は嘘だったみたいに落ち着いた。


「知らなかったんなら、悪い。なんでもない」

「言って」

「聞かなかったとこにしてくれ」

「無理だよ」


 籠原の溜息が静まり返った夜の空間に響く。足元の景色に、人の姿はほとんど見当たらない。彼は屈み込んで煙草を拾うと、地面にすりつけて火を消し、携帯灰皿にしまった。


「お前の姉ちゃん、安曇さんとお前の母親の子らしいよ」


 彼の言葉を聞いても、さほど驚きはなかった。


 籠原の話が正しければ姉は母の連れ子であり、かごめの異母姉妹に当たる。姉とかごめに似た部分があることはこれで説明が付く。兄と僕は、今の両親の間に生まれたのだろう。


 家の名前を次世代へ受け継ぐのは長男長女の役目であり、人口を抑えることを目的に、それ以外の子は結婚しないことが村では推奨されている。


 長女であるにも関わらず姉が無下に扱われたのは、うちの家の正統な血縁ではなかったからだろう。


「柚沙?」

「あ、いや、考えごとしてた」

「そうか。悪い」

「別に、謝られるようなことじゃない」


 家族を取り巻く疑問の数々は先ほどの言葉で見事に解決した。しかし、一方で、新たな疑問が生まれる。


「じゃあ、なんで由は『かごめ』って名前にならなかったんだろう」


 それどころか長男長女を重要視するのだから、あとに生まれたかごめが巫女の後継ぎとして育てられるのはおかしい。


 結果的には村の不況に対する生贄になったが、由が生まれた時点ではそんなこと、わからないはずだ。


「お前の母親は巫女を生む素質がなかったんだと」

「巫女?」

「詳しくはわからん。訊いても教えてくれないし。安曇さんも焦ってたんだろうよ。姉も妹もいないから、長男の自分が巫女を作らないといけないって」


 ポケットを大袈裟に探りながら籠原が言った。続いて白いパッケージから煙草を取り出し、口にくわえる。


 ライターの炎に照らされたその顔には、苦々しい表情が浮かんでいた。たぶん、僕も同じ顔をしていたと思う。


「たぶん巫女の素質っていうのは、生贄の素質のことだ」


 生贄の素質。それは、巫女の素質と表現するより説得力があった。かごめは、「巫女には死後、村を守る力が与えられる」と言っていた。


 姉は産み落とされてから生贄の素質がないと判断され、母とともに安曇家を追われた。そして新たな妻を迎えた安曇清之進は、その女との間にかごめを作った。


 巫女として、そして有事の際の生贄として育てるために。


「あーあ。なんであんな村に飛ばされちゃったんだろうなあ」


 籠原が目を閉じて言った。はは、と僕は笑いを返す。気づけば月は雲に隠れていた。


 地上は街灯に照らされているが、ここまで届く光は少量で、籠原の表情はよく見えない。どこも、濃密な夜の香りがしていた。


「飛ばされたの、勤務態度が悪かったからじゃないの」

「何それ」

「同級生の間で噂になってたよ」

「あー、アレだ。仕事サボって見舞いに行った話かもな。尾ひれ、付きすぎだろ」


 片手を額に当てて、籠原は思い出したように言う。「見舞い?」、訊き返す僕の声が裏返ったのを、籠原が気にした様子はなかった。


 彼は煙草を持ったまま、言葉を探すみたいに地上を見下ろす。煙草の先端に、長い灰がくっついていた。


「恋人が病気でさ。危篤ってなったときに、仕事休んで向かったのよ。そんなことばっかだったから、まあ仕方ねえなとは思うけど」


 彼が村の外の人間であることが、今、はっきりとわかった気がした。僕は勘違いをしていたようだった。彼にもちゃんと人生があって、大切な人のために行動している。生きるってこういうことなのかもしれない、と思った。


 何かを心の内側で大切にできるのは、誰かから大切にされ続けた人だけだ。


「ねえ、なんで警官なんてやってんの」

「『なんて』ってなんだよ」

「いや、籠原さんに合ってないなと思って」


 悪態を返されることを予想していたが、籠原は空を見上げたまましばらく黙っていた。視線を辿って、彼が見ているものを探してみる。


 村より明るい街の空は、村で見るよりずっと静まり返っているように感じた。二、三度往復してみても、彼が見ているものはわからなかった。


「正しい自分でいたいんだと思うな。人を助けて、認められて、そうすると自分が正しい位置にいるっていうのがよくわかる。それが自分を生かす指標みたいになるんだ。言ってみれば自分のためだな。失望したか?」


 別に、とだけ僕は答える。彼の言葉にひどく納得している自分がいた。生きていくためには、自分の存在を正しく認識し続ける必要がある。僕は一人で過ごし、何度も、自分が曖昧になっていくような気分を味わった。


 でも、今は違う。かごめがいて、僕と一緒でよかったとまで言ってもらえた。彼女と一緒に過ごすことで、息苦しさが軽減されていくような気がしている。


「ごめん。正直、籠原さんが村人と内通してるんじゃないかって、疑ってた」


 籠原と同様、建物の壁に寄りかかりながら、彼の目をじっと見る。籠原はすこし寂しそうに目を逸らしたあと、「だろうな」、独り言のように呟いた。


「でも、まあ。今は信じてみようと思うよ」

「あー、別に、信じなくてもいいよ」

「え?」

「大人なんて、信じないほうがいいんだよ。最後に信じられるのは自分だけだろ」


 じゃあ信じない。僕がそう言うと、籠原は「その意気だ」と笑った。


 それから籠原の一服に付き合ったあと、僕たちはかごめが眠っている部屋へ戻った。彼女がうなされている様子はなかったが、怖い夢を見ていたら席を外していたことが申し訳ないので、気持ちばかりかごめのほうに寄って目を閉じた。



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