2-6「変な夢を見た」
目を覚ましたとき、視界いっぱいに広がる見慣れない天井に、一瞬だけ戸惑った。
自分が村から逃げてビジネスホテルに泊まっているという記憶はすぐに戻ってきて、僕は瞼が落ちてしまいそうな目をさすりながら、かごめがいる方向へ視線を向ける。
彼女はまだ眠っていた。
起きた瞬間に現実の自分を見失うのは、夢の中で違う自分として過ごしていた名残だと思う。だからといって夢の内容を思い出せるわけではない。幸せな夢だったような気がするし、恐怖に足がすくみ、どうしようもない夢だったような気もする。
幸せな夢を見れば現実との落差に心が重たくなるし、不幸な夢を見れば夢のなかで抱いた憂鬱が色濃く心に残り続ける。どうせなら夢は見ないほうがいい。
部屋の時計は間もなく十二時を示そうとしていて、それを見た瞬間焦燥と安堵が同時に湧いた。今日がチェックアウトの日じゃなくてよかった。
隣に籠原の姿はなくて、部屋を見回したところ、「すぐに戻る」という乱暴な字の書き置きがあった。
部屋は清々しい昼の色をしていた。それにつられて、不思議と気分も晴れやかになる。窓のかたちに天井が照らされ、カーテンの重なった部分がムラのようになっていた。
よく見るとカーテンは二重に設置されていたようで、太陽光を完全に遮ってくれそうな厚手のものは端でまとめられ、閉まっているのは薄手のものだけだった。
人は、眠っている間も完全に動きを停止することはない。だから、もしかしたら死の雰囲気というのは、人のかたちをしたものが伴うはずの動の気配を拾えなかった脳が、それを感覚として与えるものなのではないかと思う。
尿意を催してベッドから起き上がったとき、あまりの身体の重さに崩れ落ちそうになった。睡眠を取ったとはいえ、まだ疲労が回復するほどではなかったらしい。
それでも尿意の限界値が変わるわけではないので、僕は何とか重たい身体を引きずってトイレを済ませた。
テレビ台の下には収納スペースがあり、下の段には冷蔵庫、その上の引き出しには粉末の緑茶と珈琲、それからスティックシュガーが入っていた。緑茶が三つ入っているのに対し、珈琲は二つだけだ。おそらく籠原が飲んだのだろう。ケトルに水が入っていたことから考えても間違いなさそうだった。
コンセントを差してスイッチを入れると、ケトルが微かなモーター音を発し、音は次第に大きくなっていった。かごめが起きないか心配になったが、籠原が使ったことに自分は気づかなかったため、彼女から距離を取るに留めておく。
足音を消して窓に近づき、そっと地上を見下ろしてみると、ホテルの前を歩く人の姿がよく見えた。さっと確認したところ知った顔はなかったので、それからは気持ちのいい空を眺めて時間を潰した。
しばらくぼうっとしているうちに湯が沸いたようで、珈琲と一緒に置いてあったマグカップに粉末を入れ、上から湯を注いだ。カップのなかで圧縮された湯気が顔に降りかかり、べったりと湿気を残して消える。
遅れてやってきた香ばしい匂いにより、腹の底で空腹の気配がうごめいた。
村を出てからまだ一日しか経っていないのに、少ない食糧で生きるために整えたこの身体は、すでに一日三食を求めるようになっていた。
布の擦れる音を聞いたので、後ろを振り返る。かごめが目を覚ましたようだった。
「おはよう」
起き上がった彼女は、スローモーションみたいに振り向きながら、「……あ、おはよう」、それに見合った速度で朝の挨拶を紡いだ。彼女もまだ疲れが残っているのか、眠たそうに目を擦っている。
「珈琲、飲む? お茶もあるけど」
「んじゃ、珈琲。ありがと」
「ん」
籠原が言ったとおり明日の朝にここを出るか、それとも今日のうちに姿を消すか。相談しようと思ったけど、かごめはまだ頭が働いていなさそうだったのでやめておいた。
彼から逃げて夜行バスに乗れば確実に東京へ行けるが、そこからの電車賃はほぼないに等しい状況だ。
東京駅から夕作さんの家まで、住所を聞いただけではどれほどの距離があるかわからない。最悪、また八時間近く歩くことになるだろう。
夕作さんの家で村人が張っていたときのことを考えると、逃げるための体力も金銭も温存しておきたかった。だから明日まで待ち、新幹線代をもらうという案は、楽観的かもしれないが、非常に魅力的なものだった。
「はい」
かごめの前にマグカップを差し出すと、少しの間が空いて、「ありがと」、彼女は両手で包み込むようにして受け取った。
「どうしたの?」
「ん。怖い夢、見た」
怖い、と僕は同じ言葉を繰り返す。かごめは考え込むように視線を右上へ移動させると、「うん」細い声で返事をした。
「どんな?」
「内容はよく覚えてない。でも、前にも見たことがあるような感じの夢」
疲れているときや病気のときは怖い夢を見やすい、と聞いたことがある。おそらく、しばらく休んでいれば問題はないだろう。かごめにそう伝えると、「うん、そうだね」彼女は柔らかい陽射しに照らされながら静かに微笑んだ。
「あと、寝てるとき、寒かった」
「今は?」
「ちょっと寒い。気温、低くない?」
「うーん。僕は暑いくらいだけど」
夜はともかく、今は陽射しの影響もあって室内はそれなりの温度になっている。これも彼女が死体になったことが原因なのだろうか。
彼女の前に手を差し出す。彼女が寒がっているなら、暑さを感じている僕の体温がちょうどよく感じるかもしれない。
かごめに手を握られてにやけてしまいそうなのは、その冷たさがもたらす心地よさが原因なのであって、彼女に触れていることは全くもって関係がない。ないはずだ。
「あったかい」
ふふ、とかごめが天使のように笑う。僕の表情は大丈夫だろうか。
「お、起きたか。メシにしようぜ」
その瞬間にがちゃりと音を立てて籠原が帰ってきたので、僕たちは慌てて握っていた手を離した。
食事を摂ってしばらく休憩したあと、かごめの提案で少し周辺を散歩することにした。最初は危ないからと反対していた籠原だったが、彼も一緒に行くこと、目の届く範囲から離れないことを条件に承諾をもらった。
「行こうか」
「うん」
三人でエレベーターを降り、籠原がフロントにカードキーを預けるのを待ってから、僕たちは目的もなくホテルを出た。
目の前に広がる片側二車線の道路は、今朝に比べてさらに交通量が増している。太陽は一日のなかで最も高い場所にあって、道路の向かいにある街路樹を鮮やかな緑に照らしていた。
その向こうには川が流れているようで、木々の隙間から、宝石のように輝く水面が見える。
「そういえばここら辺、映画館があるらしいの。籠原さん、私、映画見たい」
出発前、かごめが部屋の案内冊子を熱心に読んでいるのを見た。おそらく、ホテル周辺の施設に関するページを読んでいたのだろう。
籠原は一瞬だけ迷う素振りをしたあと、「まあいいけど」と軽い口調で言った。
「でも、お前らが思ってる以上にアイツらは深刻に考えてるからな。東京に行くって予想されてる以上、道中で待たれてる可能性もある。気をつけろよ」
信号に差しかかったとき、目の前を路面電車が横切っていった。線路は道路の中心を通っており、その両脇で車が列をなしている。
青に変わるのを待っている間、僕は、ほぼ道に同化した線路の行く先を目で追っていた。終わりを見つけるより早く線路はカーブを描き、建物の陰に隠れてしまった。
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