2-5「絶望を受け入れて生きる」

 食事のあと、籠原が駅の近くでビジネスホテルを取っているというので、好意に甘えてそれに付いていくことにした。


 駅の付近はすでに人気がなく、さきほどまでタクシーが列を成していたロータリーにもほとんど車が停まっていなかった。ぼんやりと街灯に照らされたアスファルトを眺めながら、籠原に付いていくことの損得を、考える。


 その彼は今、より大きい部屋に変更できないか、電話で交渉している。元は一人で泊まる予定だったから、彼は小さい部屋で予約をしていたらしい。


 僕とかごめはロータリーのベンチに座りながら、彼の電話が終わるのを待った。


「柚沙、信じてもいいと思う?」

「いや、怪しい行動を取ったらすぐに逃げられるようにしておいたほうがいい」

「そう、だよね」


 かごめの視線が地面に落ち、それからゆっくりと籠原へ移動していく。彼女の迷いをかき消すみたいに、「うん」僕は力強く頷いた。


 籠原を疑うことに対して、彼女が抵抗を感じる理由がなんとなくわかる気がする。かごめは、どんな人間も根は善人であると信じ込んでいる節があった。


「だけど今は、好意に甘えよう。籠原さんが敵だって決まったわけじゃないしね」


「そうだね」、弾けるような笑顔で、それでいて安心したような表情でかごめが言った。


 ここまでの間に自分を殺した父について悪態を吐くことはなかったし、恨みを表面化させることもなかった。


 でも、この状況で人を信じる心を出せば命に関わる。だから、人を疑うのは、僕だけがやっていればいい。


 彼女は籠原を信じようとしているかもしれないが、彼が僕たちの手助けをする動機があまりにも漠然としすぎている。籠原が僕たちを助けたとしても、彼に明確な利益が発生することはない。


 だから、少しでも危険を感じたら、即座に逃げるつもりだった。


 籠原に案内されたのは、駅から歩いて十五分ほどのビジネスホテルだった。正直なところ寝る場所に困っていたので、こうして眠る場所どころか風呂やトイレまで付いているホテルという施設はかなりありがたかった。


 ホテルの横にはコンビニが建っていて、車が二台、泊まっていた。間もなく日付が変わるというのに、店内には数人の客の姿がある。


 対称的にホテルのロビーは閑散としていて、受付に女性が一人立っているだけだった。


 籠原がチェックインの手続きをしている間、僕たちは入口の近くでその様子を眺めて待った。気を引き締めよう、と思っても肉体に募った疲労の量はこれまでの人生のうち比べられる日がないほどで、いつの間にか警戒心が薄れていることに、すこし遅れて気づく。


 入口がひとつしかないホテルという建物で、数人に囲まれたら逃げることは難しい。よく考えればわかりそうなことなのに、睡眠すら足りていないこの脳では正常にものを考えることができないようだった。


 手続きを終えた籠原に従い、エレベーターで目的階へ移動する。電子音を立ててエレベーターが停止したのは五階だった。


 廊下は幾何学模様の描かれた絨毯になっていて、大した深さはないはずなのに、一歩を踏み出すたび身体が沈み込んだようになる。目を閉じたら今にでも眠ってしまいそうだった。


 籠原がドアノブにカードキーを翳すと、扉から解錠される音が聞こえた。間もなく彼は扉を開き、慣れた手つきでカードをホルダーにセットする。


 照明が点いたとき、あまりの眩しさに思わず目を細めてしまった。


「先、風呂もらうな。俺が入ってる間にいなくなるなんてことは勘弁してくれよ」


 籠原は荷物を置くなり早口でまくし立てると、そのまま風呂場に消えていった。ユニットバスだから催した場合は不便だが、ファミレスで済ませてきたので問題はなさそうだ。


「五階だから、窓から逃げるのは無理そうだね」


 四つ並んだベッドのうち、かごめは最も窓に近いものに腰を下ろした。その隣に座るのも違う気がして、僕は窓にもたれかかって「そうだね」と返事をする。


 ここに来るまでの間に非常階段の場所を確認しておいたが、部屋の前で待ち伏せされてしまったらどうしようもない。


「とりあえず今は身体を休めよう」

「そうだね、すっごい疲れた」


 へへ、とかごめが静かに笑う。たしかに今日は、人生で一番疲れた。できればもう歩きたくないし、明日は一日中眠っていたい。


 籠原は予約の内容を二泊三日に変更してくれているようだった。明日は身体を休めて、明後日の朝、新幹線で東京に向かう。


 彼が本当に好意で手助けをしてくれている場合、本当にホテル代から新幹線代まで甘えていいのかという思いもあるが、今は大人の力を借りて生きるしかない。


 もし村人と結託しているのだとしても、与えられるものはもらっておこう。


 籠原のあとはかごめに風呂を譲り、僕は最後にシャワーを使った。


 温水で身体を流すのなんていつぶりだろう。夏は川の水を使うことができたが、冬の凍えるような寒さではそうはいかない。濡れたタオルで身体を拭くので精一杯だ。


 そういった日々の積み重ねがあって、久しぶりにシャワーを使うこの瞬間が、奇跡のように思えてくる。


 風呂から上がるころにはかごめも籠原も眠りに就いていて、それぞれが端のベッドを陣取るから、僕はかごめ側か籠原側か、どちらのベッドを使うかの選択を迫られることになった。


 迷って、籠原側を使うことに決めた。


 電気を消すと、静かだった部屋の空気がより透き通ったように感じた。かごめはカーテンから漏れる月明かりに照らされ、薄く、光を反射している。


 じっと眺めている間、彼女はいっさい動かなかった。呼吸で胸が上下することはなく、その内側にある心臓もおそらく動いていない。改めて見ると、眠っているかごめは本当に死んでいるようにしか見えなかった。


 かごめは姉に似ている。それは人柄や性格によるものではなく、かといって雰囲気が近いというものでもなくて、もっと根本的な造形が似ているように思う。


 でも、こうして、ちゃんと見てみるとここにいるのは姉ではなくかごめだった。似ているけど、でも違う。見つめるほど、どこが似ているのかわからなくなってくる。


 かごめは見捨てられた僕に初めて優しくしてくれた人間だった。救われてほしいというのは本心だ。


 僕はずっと人生を諦めていた。それは希望を求めて奔走するより、絶望を受け入れたほうがエネルギーの消費が少なくて済むからだ。


 かごめが死ぬという絶望的な状況だったとしても、たしかな目的を持って信条に背いた自分を上手く思い出すことができない。


 たしかに彼女のことは好きだ。でも、ここまでする理由として納得するには決定力に欠ける。


 僕は姉を見捨てたことを後悔している。だから、境遇に重なる部分があり、少し顔が似ているかごめを自分の手で助けることで、許された気になりたいのかもしれなかった。


 それが今のところ、一番しっくりくるだった。


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