2-3「何かが始まる予感」

 妙な浮遊感が肩の辺りにあって、意識が元の形を取り戻し始めたころ、自分が肩を揺すられているのだと気づいた。隣を見るとかごめの姿があって、「おはよう」、そう言った彼女の弾むような笑顔に同じ言葉を返す。


 ちゃんと一時間で起こしてくれたことに安堵した。


 最初にかごめを寝かしたとき、僕は一時間ぴったりで起こした。もっと寝かせるべきだとも思ったが、そうするとかごめはきっと、自分の番のときに起こすのを躊躇う可能性がある。


 かごめの性格を考えると、彼女の休息を確保するためにはこうしてしっかりルールを敷いておくほうが懸命だった。


「あと十分で乗り換えだね」


 いつの間にか僕たちは九州を抜けていたようだ。これは逃げ切れたと言っていいのではないだろうか。頭にそんな考えが浮かんで、慌ててかき消した。まだ、油断してはならない。


 次に降りるのは下関駅で、そこから乗り換えまで三十分ほどの猶予がある。目的地の広島駅までは四時間半、乗り換えは一回。ここからは比較的、楽に移動できるはずだ。


 問題は、広島駅に着いたあと二十四時間営業のファミレスを見つけられるか、という部分だった。見つけられなければ、もちろん野宿をすることになる。


 あの家で食事を与えられなかったとはいえ、家の出入りを禁止されたわけではない。野宿の経験はないし、それはかごめだって同じことだろう。


 乗り換えの際にコンビニで軽食を買い、また待ち時間の間に消費した。かごめは相変わらず僕より食べているものの、疲れが限界に近づいているのか、昼間のように会話が生まれることはなかった。


 思考は重たくなっていて、食事より、休養を取ることを身体が求めている。食べ物を口に運ぶその動作でさえ、重たい。入線のアナウンスが流れ、立ち上がろうとしたとき、身体が思ったように動かなくて焦った。


「あと、少し」

「そうだね。とりあえず広島に着いたら空いてる店を探そう」


 逃げ切れた、と思ってはいけない。自分に強く言い聞かせる。少しでも気を緩めれば身体が動かなくなってしまう予感があった。まだ、気を張っていなければならない。


 電車に乗ると、間もなくかごめは眠りに就いた。横顔を見て、姉に似ている、と思う。特に目元が。


 姉はほとんど看病されず、そのまま死んだ。よく考えるとおかしい。


 元々違和感はあった。でも、そういった矛盾を適当に流して生きてきたから、深く考えたことはなかった。


 姉の上に子がいた話など聞いたことないし、仮に死んだとしても、事実上長女になった姉が見捨てられるのはおかしい。


 でも、実際に姉のぶんの薬はなかった。母でさえ病院で看病を受けた。それなのに姉は自室に幽閉され、労働力である僕が最低限の世話をしただけだ。


 治らない病気だったのではないか。いや、姉はたしかに母と同じ流行病に倒れた。では、治らない段階まで進行していたというのはどうだろうか。これも違うだろう。


 あの病気の初期症状は発疹で、その段階なら薬が効くとされている。どれだけ仮説を立ててみても、納得いく答えは見つからない。


 電車の揺れで気づけば目を閉じてしまいそうになっていた。慌てて目を擦り、背筋をぴんと張る。このままでは乗り過ごしてしまう可能性もある。立ち上がろうとしたそのとき、電車が小さく揺れて、かごめの頭が僕の肩に乗っかるから困った。


 * * * * *


 どうして僕は出会って間もないかごめを助けようとしているのだろう。今まで自分は、合理的に判断を下してきたはずだ。


 彼女の寝顔を眺めていると、嫌でも意識させられる。僕はかごめに恋をしていた。


 それから、彼女をあの村から連れ出したとき、怒りや同情と同じ分量だけ、新たな何かが始まる予感あった。


 無事に東京まで行くことができれば、かごめはきっと夕作さんに面倒を見てもらえるだろう。親族だし、手紙が置いてあったようだから。じゃあ、僕は。


 僕が夕作さんの家に行ったところで、同じような待遇を受けるだろうか。同じ村の出身とはいえ、他人は他人だ。


 僕は、この先、自分がどうなると思って村を出たのだろう。


「広島駅って、すごく広いんだね。今まで通ったなかで、一番大きいんじゃない?」


 天井からぶら下がった案内板を見ながら、かごめがあっけからんとした顔で言った。ホームから階段を登った先には車が二台ほど並べそうな通路があり、それぞれのホームに通じているようだった。


 電光掲示板には見慣れない地名ばかりが並んでいて、自分が村から離れているのだということを再認識させられる。


「たぶん、東京駅はもっと広いよ」

「迷子になっちゃいそう」

「あー、なるかも」


 家族で旅行をしたとき、東京の駅で迷子になったことを覚えている。あれは結局、どうやって親と合流したんだっけ。


 家族との思い出が記憶のなかで美化されるのはなぜなのだろう。その美しさに当てられるたび、もう二度と手にすることができないのだと思い知らされる。それだったら、最初から不要なものとして育てられたほうがよかった。


 人生に役割を与えないでほしかった。


「レストラン、あるかな」


 間もなく午後十時になるというのに、コンコースは人の姿で溢れかえっていた。新幹線の切符売り場にさえ若干の人が並んでいる。


「駅に停まる前、電車の窓から何軒か見えた。二十四時間営業かはわからないけど」

「無理だったら閉店時間までお世話になろう」


 出口を過ぎて振り返ると、駅の大きさがいっそう際立って見える。檜神村とは別世界だ。


「でもその前に、バスの場所、確認しないと」

「うん、そうだね」


 案内板に沿って歩いていると、バスの停留所は簡単に見つかった。目的地と時刻、乗り場を確認し、メモするものがないので記憶に叩き込む。それからチケット売り場を探そうと振り返ったとき、血の気が引いた。


 そこには、こちらに駆け寄る籠原の姿があった。


 咄嗟にかごめの手を掴み、地面を蹴る。「えっ、なに」、かごめの戸惑った声が聞こえてくるが、説明している余裕はない。


「走って!」


 正面を向いたまま叫んだとき、喉の奥が張り裂けたようになった。


「待て! 柚沙!」


 籠原は足が速かった。二人ともかなり疲弊しているし、このまま逃げ切るのは現実的ではない。でも、捕まるわけにはいかなかった。


 ロータリーを迂回するように逃げると正面には大通りがあり、ちょうど赤信号だった。車通りが多く、籠原を撒くためとはいえ渡るには危険すぎる。


 仕方なく大通りに沿って逃げることに決めたが、籠原との距離は縮まるばかりだ。


「待てっての! 俺は味方だ!」


 逃走劇は長くは続かなかった。かごめも普段から運動をするほうではないだろうし、何より僕の体力が限界を迎えていた。


 籠原に腕を掴まれ、がくんと減速する。


 籠原は深呼吸を繰り返したあと、「俺は敵じゃねえから、話を聞け」、思わず座り込んだ僕に視線を合わせて言った。かごめは激しい呼吸こそしていなかったものの、体力が尽きたみたいにうなだれていた。


「なんで、ここがわかったんだよ」

「警察だぞ、俺は。調べればすぐにわかる」

「職権乱用だ」


 自分で言ってから、この人にとっては今さらだな、と考え直した。実際彼には響かなかったようで、「とりあえず話せる場所に行こうぜ」、そう言いながら僕の腕を解放した。


 金を盗んだという情報は当然父から共有されているだろうから、僕たちが電車で逃げたことを予想するのは彼らにとって容易だっただろう。


「柚沙、どうする?」


 かごめが僕の耳元で言った。「信用はできないな」、僕も小声で返す。籠原は首を傾げて僕たちを見ていた。


「うん、そうだね。怪しい」

「隙を見て逃げよう」


 このまま逃げたとしても、どうせまた捕まる。とりあえずは彼に付いていき、話だけ聞いてみることにした。

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