1-2「巫女と怨霊」

 * * * * *


 視界の端に、何かの動く気配があった。


 歩く速度を緩め、不自然に見えないよう、ゆっくりと視線を移動させる。そこに佇む家屋には車のガレージがあり、そこに、十歳ほどとみられる少年が膝を抱えて座っていた。白いシャツはよれて、袖から覗く腕はほぼ皮と骨だけで構成されている。


 なんの前触れもなく、少年がこちらを見上げた。目が合ってしまった居心地の悪さを誤魔化すため、緩めていた歩行速度を戻す。


 檜神ひのかみ村はかつて上質なヒノキ材で栄えたらしい。林業従事者数が減った影響か、手の入らなくなったヒノキは自由にその数を増やし、落葉樹を蹂躙しそうになっている。


 林業で栄えた裕福な村は、今では見る影もない。だから捨てられた子どもというものが平気で存在する。


 村の外れにひっそりと立つ檜神神社は、地味な入口の割に敷地はかなり広い。色褪せた鳥居をくぐり、獣道のような参道をしばらく歩いた先には本殿らしき建物がある。本殿といっても作りは非常に簡素で、山小屋という呼び名のほうが似合っていた。


 紙垂や注連縄といった神社らしい装飾はあるものの、いつか村の外で見た大きな神社たちとは全く異なるつくりをしている。そもそもこの神社自体が廃墟のように見えるし、この村で最も力の強い安曇あずみ家が宮司を務めているとは思えなかった。


 それでも鎮魂祭のときは提灯で鮮やかに彩られ、今も信仰を受けていることをたしかに感じられるから不思議だ。


 神社の鳥居をくぐるころにはすでに日が沈み、ひぐらしは声の余韻すら発さなくなっていた。


 夜の神社にあるのは月明かりだけで、不気味さは残るものの、ここには人が全くいないという大きな利点がある。


 本殿の壁に背を預けるように座り、弁当の蓋を開く。箸を割ると、ぱきり、小気味よい音が虫の声に支配されている境内に優しく響いた。「いただきます」、誰に伝えるでもない言葉が虚空に舞う。


 人は生まれる家や土地を選べない。それから、兄弟の順番も。


 長男は誕生した瞬間から次期戸主として育てられ、長女はよその家に嫁ぐために指導を受ける。特に僕の家は車の整備などを生業にしており、こうした家業を持つ家では顕著にその傾向があった。


 そして、長男、長女以外は戸主および次期戸主の労働力としての役割に従事し、義務教育を終えた瞬間から自由がなくなる。


 古くから住み着く怨霊の呪いにより、檜神村は極度の不作に見舞われていた。地形の関係もあってか外部との関わりはほとんどなく、先の感染病の蔓延があってからは、ほとんどの家が経済的に困窮していた。


 そうして家族を養えない家は、まもなく次男次女以降の人間を切り捨てるようになった。それが、この村における慣習になっているからだ。うちもそれは例外ではなく、姉が病気で死に、続いて母が死んでから数年経ったとき、僕も切り捨ての対象になった。


 いつかこうなることは生まれたときから決まっていたし、物心がついたころから「兄のため、父のため」に生きてきた僕にとって、父に切り捨てられることは当然のことだと言えた。


 兄は兄で、伊柄いへい家を継ぐ存在としてプレッシャーを与えられ続けた。僕とは違った苦労があったに違いないが、可哀相だとは思わない。生まれが選べないのだから、与えられた役割を全うするのが人生というものだと思う。


 瞬間、ちりん、という透き通った鈴の音を聞いた気がした。それはリズムを乱した虫の音の一部だったかもしれないし、単に聞き違いだったようにも思える。


 しかし、その儚い音に、不自然なほど意識を奪われた。


 音は森の奥からだった。目を細めて暗闇を見る。中心を基準として、月に照らされた木々が真ん中に吸い込まれてフェードアウトしていく。


 耳を澄ましても、もう鈴の音は聞こえない。それでも、耳を澄ませる。ゆっくり、冷たい空気が背筋を降っていく。気づけば僕は立ち上がっていた。


 足を踏み込むたび、身体が、地面に沈んでいく気がした。


「そっち行っちゃダメだよ」


 背後から声がした。「え」、慌てて振り返る。そこには巫女装束の少女が立っていた。彼女を視界に収めた瞬間、懐中電灯の爆発的な光量のおかげもあってか、さきほどまでの緊張が嘘だったかのように霧散する。


 彼女は檜神神社の巫女だ。名前は安曇かごめ、だったと思う。同じ年齢ながら、彼女との交流は全くなかった。


 この村において、彼女は巫女として特別に扱われてきた。学校でも授業は別室だったし、巫女の業務で休むことも少なくなかった。だから、他学年すら距離が近い学校というコミュニティの中で、僕を含めほとんどの人間が彼女と交流することなく卒業を迎えた。


「そっち、かごめ様が祀られてるから」


 彼女はこの場の空気にそぐわない明るい声を発した。「かごめ様」、僕は彼女の言葉を繰り返す。


「うん、そう」


 肩につくあたりで切り揃えられた彼女の髪が、森の奥から吹いてきた風でふわりと膨らむ。その風が僕に到達し、その拍子に枯葉の欠片が入った目を擦ったとき、疑問が頭の中で重力を帯びた。


 その疑問よりも先に、彼女が口を開いた。


「ってか、よく一人でこんなところにいられるね。怖くないの?」


 今は彼女の懐中電灯があるものの、本来この場にある光源は細い月の光だけで、人とすれ違うことにさえ気を遣うほどの暗さだ。彼女の言いたいことはわかる。かごめ様でなくても、幽霊の一つくらいは平気で出てきそうだ。


「慣れた、かな」


 そう言って顔を上げたとき、彼女が微かに震えていたことに気づいた。


「私は無理。お化けとか出そうで怖い。本殿に忘れ物なんてしなければ絶対に来なかったのに」


 巫女という目に見えないものを扱う職業に就いていても、幽霊は怖いものらしい。本当に怖ろしそうに周囲を見回す巫女は少し、可笑しかった。


「取って来い」と言ったらしい父への不満に口を尖らせている彼女を見たとき、先ほど頭に浮かんだ疑問が再び顔を出した。


 怨霊の名前はかごめ様、そういえば目の前の彼女もかごめだ。


 かごめ様は檜神村に棲みつく怨霊、というのはこの村で生活をしていれば飽きるほど聞かされる教えであり、年末年始は神社の境内で大規模な鎮魂祭が行われる。村人の全員が参加し、一年の村の安泰と豊穣を祈るのだ。


「かごめ様が祀られてるって言ってたけど、それ、自分が祀られてるの?」

「ううん。名前が同じなだけ。昔から、巫女にかごめ様と同じ名前を付けることがあるんだよ」

「同じ名前? 何のために?」


「生贄にするためだよ」、秘密を共有するみたいに、いたずらな顔でかごめは言った。


 少し遅れて僕は「生贄」と繰り返した。彼女があまりにあっけからんとした口調をしていたので、それ以上の返事に困る。困って、なにも言えなかった。


 落とした視線を上げて彼女を見つめる。かごめはやっぱりあどけない表情を浮かべていた。その顔を僕は見たことがある。クラスメイトとか隣人とか、そういう遠い関係ではなく、もっと心の内側で見たことがある表情だ。


 そう感じているのにはちゃんとした理由があった。彼女は死んだ姉によく似た顔立ちをしている。


「そっちにかごめ様がいるの?」

「そうだよ。会いたい?」


 かごめが口の端をつり上げて言った。挑発のようにも受け取れる。断ればその口からは「意気地なし」という言葉が飛び出すだろう。でも、「別にいい」、正直に答える。


 彼女は顔を上げると、両手で自分を抱くようにしながら、意外にも「わかる。私も会いたくない」と言った。なんなんだ、と嘆きたくなる。


「何してたの? こんなところで」

「弁当、食べてた」


 よく考えれば彼女はこの神社の関係者だ。こんな時間に境内に侵入していることを咎められるかもしれない。怒られたら謝ろう。


「半分しか食べてないじゃん。足りるの?」


 彼女の視線が僕の手元に落ちる。彼女の言うとおり、弁当は半分しか減っていない。


 足りる、と言えば嘘になる。しかし、今後のことを考えると贅沢なことは言っていられない。


「待ってて」


 僕が返事をするよりも早く、彼女はこちらに背を向けた。参道の奥へ消えていく背中を見送ってからわずか数分、彼女はおにぎりの載った皿を持って戻ってきた。意図がわからず、とりあえず首を傾げておく。


「食べて」

「え、でも」


 彼女がその目の輝きの奥で何を考えているのか、全く想像が付かなかった。自分にどんな対価を求めているか、わからない。


「お金、持ってないけど」

「いいよ、そんなの」

「他に払える対価なんて持ってない」

「助けたいって思ったから、じゃ、ダメ?」


 純粋な善意で人に優しくできる人間なんて実在するのだろうか。それとも実質的にこの村を治める一族として、村人を救うための悟りのような境地に達しているのかもしれない。


 彼女は疑い続ける僕にしびれを切らしたのか、「じゃあ、こうしよう」、手を叩く仕草をした。実際は片手に皿を持っていたため、自由なほうの手でもう片方の甲を叩くに留まった。


「君、伊柄さんのとこの息子だよね」


「そうだけど」と答えてから、今もそうだと言えるのか、自信がなくなった。そんな僕の迷いなどお構いなしに、「じゃあ、代わりに村の外の話をしてよ」、彼女は陽気な声で続ける。


「私、村の外に出たことがないから」


 たしかに、僕には家族で村の外へ旅行していた過去がある。


「そんなことでいいなら」


 実際、彼女が持ってきた食糧は喉から手が出るほどほしかった。


「私のことはかごめでいいよ。君の名前は?」

「柚沙」

「柚沙ね。よろしく」


 彼女が他に何かを企んでいたとして、そのうちの最悪を想像してみる。不幸の終着点はなんだろう。最も大切なものの喪失、だろうか。典型的に大切にされる家族は縁が切れたも同然だし、恋人や友人もいない。


 そうなると自分の命ということになるが、それに関してはこの生活になってから諦めている。


 彼女に恩を感じているのは確かで、だから自分にできることはしたいという気持ちがあった。これは決して温かな感情から来るものではなく、どちらかといえば、一方的に利益を受け取る居心地の悪さ、のようなものに起因していた。


 素手でおにぎりを掴んで口に運ぶと、ちょうどいい塩気がじんわりと舌の上に広がった。最後の一口を飲み込むより早く、つい次の一つに手が伸びる。


「ところでさあ」


 かごめが視線を落として言う。口いっぱいに頬張っていた米を飲み込んでから、「なに?」返事をする。


「私も食べていい?」

「え?」

「えっ?」

「まあ、いいけど……」


 そもそも、彼女が持ってきたものなのだから、僕に止める権利はない。取りに行ってから戻るまでの時間から考えて、元々作り置きしていたものだったのだろう。かごめは「やったあ」と呟くと、僕から視線を逸らしながらおにぎりを手に取った。


「見てたらおなか空いちゃって」


 そう言うかごめは本当に空腹だったのか、実にいい食べっぷりだった。


 その日以降、僕は、怖がりで食い意地の強い巫女とたびたび話すようになった。

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