第82話 その王子、本当にやらかしたんですか?
――そして物語は冒頭へと戻る。
「ここに来るのも今日で最後かもしれないのか」
エーリックは深いため息を吐いた。
グロラッハ侯爵家の庭園には赤い春薔薇が咲き誇っていた。もうじきエーリックも三年生に進級する。
今年度の成績は悪くなく、エーリックは三年目にしてやっとウェルシェと同じ特別クラスに編入された。
だが、念願叶ったはずのエーリックの顔は浮かない。何故なら、エーリックは今とても不本意な状況に置かれていた。
「だけど、僕とて王家の男だ。責任からは逃れられない」
白くなるほど固く握った拳が小刻みに震え、涙が滲む青い瞳には絶望の色が浮かんだ。
(このままだとウェルシェとの婚約が解消されちゃう!)
自分が王子である以上は王族としての責任がると頭で分かってはいても、それを心から受け入れられるわけではない。何せエーリックにとってウェルシェが全て。
(全てはバカ兄貴のせいだ!)
エーリックが珍しくギリッと歯を食いしばった。おっとりしたエーリックには珍しく顔に悔しさと怒りが滲んだ。
最愛の婚約者の元へ向かっているのに、エーリックの足はとても重い。
「エーリック様!」
そんな暗澹たる気持ちに沈んでいたエーリックの耳を鈴を転がすような声が打つ。一気に気持ちが晴れエーリックは声の主へと満面の笑顔を向けた。
「ウェルシェ!」
ウェルシェは居ても立っても居られなくなったのか、
「ウェルシェ、君にずっと会いたかったんだ」
「私もですエーリック様……」
二人は互いの温度を噛み締めるように確かめ合う。
しばし愛しの婚約者に包まれて陶酔していたが、ウェルシェはエーリックの胸に埋めていた顔を上げた。
「ですが、このところエーリック様はお忙しくしてらして、全然お会いできないんですもの」
「ごめんよウェルシェ……僕も寂しかったけど、城内がごたごたしていて時間が取れなかったんだ」
「ごたごた……ですの?」
「うん……」
エーリックは再び表情を昏くした。その翳りにウェルシェは小首を傾げる。その愛らしい仕草にいつもなら浮き足立つエーリックも今は沈んだまま。
そんなエーリックの暗い顔に、ウェルシェは首を傾げながら困ったような顔で頬に手を当てた。
「私はてっきりエーリック様に好きな方が他にできたのではないかと心配しましたわ」
「ないないないよ!」
煩悩の髄までウェルシェ一色に染まっているエーリックが浮気などありえない。
「絶対ないよ。信じて。僕が好きなのはウェルシェだけだから」
「ふふっ、冗談です」
ウェルシェは「分かっております」と悪戯っぽく笑う。落ち込んでいる自分を励まそうとしている。そんなウェルシェの可愛くも健気な優しさに、エーリックは何度も恋に落ちるのだ。
見つめ合う二人の瞳に湿りを帯びた熱が灯る。
「好きだよウェルシェ」
ふわりと穏やかな風が二人を包み、薔薇の花びらがひらりと舞った。
「私もエーリック様を誰よりもお慕い申しております」
翠緑の瞳と紺碧の瞳がしっとりと絡み合い、その距離はゆっくりと近づく。エーリックの鼻腔をくすぐったのは薔薇の香りかそれともウェルシェの香りか……
ウェルシェの熱い吐息を感じ、エーリックの理性は限界を迎え――
「こほん、こほん!」
「うわっ!?」
「カ、カミラ!?」
――咳払いで我に返った。
「殿下もお嬢様も弁えてください」
ウェルシェの専属侍女カミラにじっとりとした非難の目で見られているのに気がついて、二人は赤くなって慌てて離れた。
「お茶のご用意をしております。どうぞ
態度は恭うやうやしいのだが、無表情で声も無機質なカミラは美人なだけに少々怖い。エーリックは苦手とする侍女を不機嫌にさせまいと素直に従って四阿へと足を向けた。
「さあ、ウェルシェ、手を」
「ありがとうございます」
もちろん彼はウェルシェと並んで手を取るのは忘れないが。カミラは一瞥したが、さすがにエスコートにまでは抗議はしなかった。
ウェルシェと仲睦まじく会話をしながら席に着けば、カミラが綺麗な所作でお茶と菓子をエーリックとウェルシェの前に配置していく。
「ウォルリントの茶葉が手に入ったのです……エーリック様、お好きでしたわよね?」
「ああ、よく覚えていたね」
「エーリック様の事ですもの」
カミラに一言ありがとうと礼を述べたエーリックがティーカップを持ち上げれば、ふわりと花の香りが彼の鼻腔をくすぐった。
「ウォルリントは薔薇のような香りがして何だかほっとするね」
「薔薇の香りは気持ちをリラックスさせてくれるんですのよ」
しばし二人はお茶を楽しみながら他愛もない話題で談笑していたが、ウェルシェの方が「そう言えば」とエーリックが避けていた話題に触れた。
「先程なにやら城内がごたついていたと仰っておられましたが?」
「あ、ああ、ちょっと……ね」
元々エーリックはそれについて話し合いに来たのだが、やはり気が重くなかなか切り出せなかった。
だが、いつまでも避けては通れない。
「実は……兄上の廃嫡が決まったんだ」
「まあ!」
ウェルシェは口に手を当てて目を大きく見開いた。
「オーウェン殿下は昨年の文化祭で『雪薔薇の女王事件』解決の立役者として華々しい功績を残されたではありませんか」
「うん、色々喧伝して全部兄上とロオカ嬢達の手柄にしたよね」
ウェルシェもエーリックも事件の当事者で、本当に誰が解決したかは知っている。オーウェンとアイリスが全く役に立っていなかった事も含めて。だが、エーリックもウェルシェも国王王妃の座などノーサンキュー。オーウェン達が事件を解決した事に仕立て上げたのだ。
「せっかくみんなで口裏を合わせてパレードまでやったんだけど」
「まさか王妃殿下にその裏工作が露見してしまいましたの?」
「逆にアレで兄上は調子に乗ってしまったんだ」
エーリックの口から呆れとも落胆ともつかぬため息が漏れる。
「兄上は側近やロオカ嬢と結託してやらかしちゃったんだ」
「やらかした? 何をでございますの?」
不思議そうにウェルシェが小首を傾げると、エーリックは何とも言えない苦い顔になった。
「婚約破棄だよ」
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