閑話ネーヴェの雪⑤ 妾、雪薔薇の女王、いま城門の前にいるの
――王都マルセイル
マルトニア王国の中心である大きな都市で、歴史を感じさせる巨大で堅牢な城郭に囲まれている。四方にある郭門は巨人の出入り口かと思えるほど巨大で分厚い鉄扉が
四つの大門からは東西南北へ向けて街道が真っ直ぐ伸びている。そのうち東方の街道を進むと小高い丘陵になっており、ちょうど西側から一乗の馬車が姿を現した。
「おお、やっと見えてきたな」
「久しぶりのマルセイルだね」
御者台のマテウが嬉しそうな声を上げると、妻のミーシャが荷台から身を乗り出してきた。丘陵の上から高く聳える王都の城郭が小さく見える。まだまだ遠いが、やはり視認できると帰ってきたとの思いが湧くものらしい。
(このお人好し
故郷を視認して二人ともホッとした表情をしている。それを見たネーヴェの胸に嬉しさと共に寂しさが湧いてきた。そこには己は二度と故国に戻れぬ苦さがあった。
「あんたも見てみな。あれが花の都マルセイルさね」
「ふむ、かなり大きな街のようじゃな」
まだまだ距離があるにも関わらず、ネーヴェの目にもはっきりと王都が映っている。
「そりゃ五十万人以上も人が暮らしてるんだ。こんなに大きな都市はどこを探したってないぜ」
「五十万人!?」
信じられない規模の数字にネーヴェは目を大きく見開いた。
(全てが集まる世界の中心と謳われたロゼンヴァイスの王都も十万人ほど)
当時は一つの都市に五十万という人口が集まる事はあり得なかった。
(妾が眠っているうちに時はほんに移ろいでおったのじゃな)
「ははは、すげぇだろ?」
「ここならあんたが探している物も見つかるんじゃないかね」
「そう……じゃな」
今一度ネーヴェは目を凝らして大きな都市を見た。そちらの方角からネーヴェが欲する物の気配を感じる。
(やはり、あの都の中に『
それはネーヴェにとって色んな意味で重要な代物。ネーヴェは眼前に挙げた左手を見て目を細める。本来ならあの指輪はこの薬指にはまっていなければならないもの。
「だけどちぃとばっかし予定より時間がかかっちまったなぁ」
「お前さんが寄り道ばっかりするからだろ」
ルインズから王都まで馬車で一週間とかからない。ところが、マテウは真っ直ぐ王都へ向かわず、色々な場所を巡ったのである。そのせいで倍以上の時間がかかってしまった。
「済まないねぇ、このバカに付き合わせて」
「いや、見聞を広められて妾も楽しい刻を過ごせたのじゃ」
謝るミーシャにネーヴェはからりと笑った。
「だけど、ホント助かったぜ。あんたのお陰で商売繁盛だ!」
「妾は何もしておらぬが?」
身に覚えのない事でマテウに感謝され、ネーヴェは小首を傾げた。
「いやいや、お前さんが立ってくれていただけで客引きとしての効果抜群だったんだぜ!」
「この宿六みたいなバカな男が火に群がる羽虫みたいに
マテウ夫妻が商いをしているのを物珍しそうにネーヴェは眺めていただけだった。だが、異国の衣服を着た絶世の美貌のネーヴェは目立つ事この上なし。しかも、そんな美女が肩脱ぎの色っぽい姿をしていれば、通りがかった男達が軒並み足を止めて鼻の下を伸ばすのは必然。
すかさずマテウ達が声をかければ、色香に惑わされたのを誤魔化す為に男達が商品を買ってくれるという寸法である。
「良く分からぬが、お主らの役に立ったのなら重畳じゃ」
もっとも本人はまるで分かっていないようだ。
「ホントあんたが一緒でずいぶん華やいだぜ」
「花の無い太った中年女で悪うございましたね」
ミーシャの非難の目に晒されてマテウが大慌て。その後、マテウは必死に
(良い連れ合いじゃ)
この夫婦を見ているとネーヴェの胸が温かくなる。
(それに比べて妾は……)
だが、同時にちくりと胸を針で刺されたような痛みも覚えるのだった。その苦い痛みはかつて愛した男に裏切られた記憶の残り香。
黒い髪に黒い瞳。浅黒い顔は彫りが深く、甘い声で愛をいつも囁いてくれた彼。
(男を見る目が無かったのじゃな)
けっきょく男の愛は偽物で、ただロゼンヴァイスを滅ぼす為にネーヴェに近づいただけだった。けっきょく騙されたネーヴェが力を暴走させ男と彼が引き入れた軍はロゼンヴァイスともども滅びたのだが。
(恋に浮薄な妾のせいで多くの民を犠牲にしてしもうた)
悔悟してもしたりない。
(だというに、妾はまだあの男の面影を忘れられぬ)
だが、それ以上にネーヴェを打ちのめしたのは、彼女の中に残る男への想い。
(こんなにも悲しく、こんなにも苦しいというに妾はアホウじゃ)
「さて、王都に到着だ」
「このおっきな門を見上げると帰ってきたって実感が沸くねぇ」
二人の声にネーヴェはハッと我に返った。考え込んでいるうちに王都へ辿り着いたらしい。顔を上げればネーヴェの目にも巨大な門が映った。
ネーヴェを乗せた馬車がその立派な郭門を潜り抜けて行く。ついに雪薔薇の女王ネーヴェが王都マルセイルに到着したのだ。
そして、
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