閑話ネーヴェの雪① 女王が佇む灰色の世界
どこまでも灰色に広がる荒漠の世界。
何もかも、時さえも静寂が包み込む。
かつて繁栄を極め人で溢れた花の都も、氷に閉ざされ動くものは何も無い。
そこにポツンと一人、白い女が寂しく佇む。その女は微動だにせず、まるで美しい像のようだった。
髪は真っ白で長く、腰まで真っ直ぐに伸びている。
着ている服も真っ白で、形状は日本の着物のよう。
少し着崩した襟元から肌けた肩が白く艶めかしい。
その灰色の瞳には光を宿さず、それがますます女を作り物めいて見せていた。
ふわり……
だが、ゆらゆらと舞う白い粒が彼女の視界に入ると、それを拾おうとおもむろに腕が動いた。
――
真っ白な……穢れのない真っ白な……ふわりと舞う白き粒子は、彼女の手の平にハラハラと舞い降りては儚く消える。
――妾はいつまでここにおらねばならないのじゃろう?
見上げれば薄暗い空……曇天から延々と降り注ぐ無限の雪。
それは本当に白く……そして、静かに……美しくも冷たい白き妖精達。
――ずっとここにいたい
――早くここから出たい
相反する二つの想い。
――ここは静かで煩わしくはない
――ここは寒くて心まで凍りそう
人との交わりを忌避しながら、人の温もりを求めてしまう。
この閉ざされた世界でただ一人、尽きる事なき悔恨の念と、癒えることのない諦念を抱きながら永い永い……永遠とも思える時を
彼女の名は『雪薔薇の女王』ネーヴェ・ローゼリア――
遥か昔、隆盛を誇ったロゼンヴァイス王国の女王。彼女の胸に咲く赤き薔薇は、王国に温暖な気候と豊かな恵みをもたらす力を持っていた。しかし、伝え聞く赤い薔薇は見る影もなく、今は雪の造花の如く白い。
愛する王子に裏切られ傷ついた心が、氷の如く白く冷たい薔薇へと変えてしまった。それと同時にロゼンヴァイスも雪と氷に閉ざされ滅んだのである。
裏切り者のカルミアの王子と共に……
――今も尚ずっとそなたを愛している
――この憎しみの炎が消える事はない
漆黒の髪は神秘的で、黒い瞳はいつも甘くネーヴェを見つめていた。褐色の肌のエキゾチックな美青年を想い出す度に、ネーヴェの心は愛憎の狭間で悶え苦しむ。
――愛おしいの愛おしいのそなたのことが
――憎いの憎いの殺してやりたいくらいに
王子への愛は彼女の胸を温かな想い出で満たしてくれる。
あの男への憎悪は彼女の胸を冷え冷えとした過去で縛る。
愛さなければ憎しみの過去で自分を染め上げる事ができるのに、憎悪を捨て去れば愛に満ちた想い出で自分を彩れるのに。
彼女はどちらも手放せない。
だから、この氷と雪が支配する彼女の世界、何もかも時さえも凍る静寂の中で彼女は苦悩し続ける。
冷気に閉ざされし永遠の牢獄の中で……ずっと……ずっと……
曇天に蓋をされた無限の空間の中で……ずっと……ずっと……
苦しむ……はずだった……
「おい! こっちで本当に間違いないのか?」
――誰じゃ?
ここはネーヴェ・ローゼンの為に作られた牢獄。
ここには彼女以外に誰も存在しないはずの世界。
「早くしないと巡回の兵がやってくるぞ!」
「大丈夫だって、俺に任せておけってーの」
封じられし世界は同時にネーヴェ・ローゼンの心象風景が形となったもの。無限に続く灰色の空間には何も存在せず誰もいない。
ここにはネーヴェ以外に人はいないはずだった。
がんがん、どんがん……
遮る物の無い無限に広がる空間に激しく壁を叩く音が木霊する。
一枚の絵画の如き無動と無音の世界に異様に響く騒音は、まるで世界そのものの崩壊の音のよう。
どんがん、ガラガラ……
いや、現実に芸術的な空間のしじまを破り、灰色の世界が音を立てて崩れた。
メリメリ……バリンッ!……
何も無い空中の一画が窓ガラスでも割ったかのように壊れ、そこから光が差し込み色を塗り替えていく。
――やめるのじゃ!
ネーヴェの声にならない絶叫は崩れ行く世界の悲鳴。
「よっしゃ、貫通した!」
「急げ急げ、金目の物を探すんだ」
断裂はまるで空を真っ二つにするように大きく割れて、そこから巨大な目が覗き込む。
――妾の中に入ってくるな!
それはネーヴェの悲痛な祈り。
しかし、ネーヴェの願いも虚しく、空間の割れ目からヒビが広がっていく。それは灰色の大空を一瞬にして覆い尽くした。ヒビの侵食は止まらず、やがてガラスが粉々に砕け散るように空が、大地が、ネーヴェの周囲の世界が崩れ行く。
時の止まった世界が崩れ落ち、そしてネーヴェの時が動き出す――
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