第3話 忘れられない笑顔



 俺には、忘れられない人がいる。


 忘れる事なんで、おそらくずっとできないだろう。


 それは誰か。


 とある人だ。


 その人は、綺麗な女性だ。


 通っている学校の、帰り道で見る。


 俺はいつも行きとは違う道を通って帰るから。


 だから帰り道だけでみるのだ。


 道路の工事時間の関係でそうなっている。






 友達と通る事もあれば、一人で通る事もある。


 考え事をしながら、傘を持たずに小雨の中は知りながら、落ち込んで通る時も。


 いつだって、俺の視線は吸い寄せられた。


 その、おれににって特別な、綺麗な人に。






 視線の先にあるのは、小さなお店。


 店のサイズには不釣り合いな、大きな看板を掲げた店で、あちこちはさび付いている。


 けれど並んだ花はどれも華やかで、種類が多く、色とりどり。


 そして。


 その花屋の中にいる女性は。


 いつも笑顔の花をさかせている。






 少し年上の、女の人。


 ひまわりのピン止めで髪をまとめている、長い黒髪のあの人。


 その人はそこにいるだけで、周りが明るくなるような、人だった。


 彼女が喋るたびに、周りの雰囲気がそっと色づいていくように見える。

 華がほころぶように微笑む笑顔は、人の視線をひきつけてやまない。


 けれど、笑顔だけじゃなくて、


 喜怒哀楽に応じて表情がくるくる変わって、いつも目が引き付けられる。






 その顔の一つ一つが、花の様に綺麗で美しい。


 一体俺は、何度見とれて立ち尽くしてしまっただろう。


 そんな様子の俺に、その女の人が俺に気づくのは必然だったのだろう。


 俺はその人に話しかけられた。


「あなたも花が好きなの?」

「俺は」


 とっさの事でうまく言葉が紡げなかった。

 けれど彼女はどもる俺の、次の言葉をじっとまってくれた。


「そっ、そうなんですっ」


 しどろもどろに話を合わせる俺を見て、その人は無邪気に信じたようだ。


 この世界に割く花をもしも一りんだけ残せるなら、俺はその人を選ぶだろう。





「花が好きなら、少しお話していかない。ちょうどお客さんがいない時間なの」


 俺と彼女はその日から、言葉を交わす中になった。


 彼女は、嬉しそうにしながら話を続けていく。


 俺はそんな彼女の唇が紡ぐ言葉を、決して一文字だって聞き逃すまいと、耳を傾けた。


 見つめているだけで十分だと思っていたのに、それでは到底満足できそうにない。


 言葉を交わした途端に、俺は自分でも驚くほど貪欲になってしまった。

 俺は、もっとその人と話がしたいと思った。

 もっとその人の記憶に残りたいと思った。


 そして、その人の人生の一部になりたいと。





「すみません、花について書かれている本はどこにありますか」

「植物についてお探しなんですね。こちらの方にありますよ」


 だから図書館に行くようになって、いろんな花の事を調べるようになった。


 


 そのおかげか、会話は増えていった。

 以前はためらっていたけれど、自然にその人に話しかけられるようになった。


 それは俺の人生の中で一番幸せな時間だった。


 しかし、そんな時間は長くは続かない。


 近くに大きなデパートが建って、その中にもっと立派な花屋ができる事になったからだ。


「もうすぐこのお店、閉店しちゃうんだ。今まで話し相手になってくれてありがとうね」


 彼女がいなくなることが、俺にはひどく耐えがたい言葉だった。


 手の届かなくなるところに行ってしまうように思えて、俺は苦しくなった。


 子どもの俺にできる事はない。

 大人になっていたって、他人の人生を変えるようなことはそうそうできない。


 だから、俺にできるのは、あきらめる事だけだった。


 その花はただ、愛でて、時々近づいて同じ時を思い出にするだけの観賞用の花だった。


 でも、忘れられなかった。






 数年後。


 俺の隣には、その人がいた。


 最愛の、大切の、大事な人として。


 家族の、妻として。


 会社に出勤する俺の隣には、あの彼女がいる。


 忘れられなかった、手の届かないと思った彼女が。


 玄関先。


 緩んでいたネクタイに手を伸ばす。


「このままじゃ、笑われちゃうよ」


 ネクタイをしめてくれた彼女は俺ににっこりと笑いかけた。


 あの時と、学生の時にみたものと、同じ笑顔で。


 彼女も支度をして、スーツを身に纏っている。


「はやくいかないとな。新商品のハーブティーやポプリの売れ行きを確かめないとね」


 彼女は俺が起こした会社で売る花を育ててくれていた。



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