船影

@KIYOTAKASHINJI

 一 再会のセレモニー

【こーいち】



 こーいち:「今何してる?」21:05

 久我信之介:「ベランダで湯冷め」21:07

 こーいち:「何もしてないってことだね」21:09

 久我信之介:「まぁそうなるな」21:10

 こーいち:「暇なら駅前の居酒屋来てよ!」21:10

 久我信之介:「もう寝支度を終えてしまったんだが」21:12

 こーいち:「お願い! 来て! きっと面白いものが見られるよ?」21:13

 久我信之介:「わかった」21:15


『通話時間00:42』



 一 再会のセレモニー


 1.

 夕立の湿気を取り払い涼しさだけを残した風が吹く七月の夜、幼馴染の吉田光一よしだこういちから急な呼び出しの連絡が来た。

 やつとは幼稚園から中学まで同じ場所に通い、その後別々の高校へと進学し、今ではお互い大学生になった。小さい時から勉強も運動もなんでもやらせればある程度器用にこなすような人物で、それだけだったら頼れる友人足りうるのだが、どうも茶目っ気が強く剽軽者ひょうきんものじみたところがある。実際こうして静謐せいひつをむさぼっていたところに闖入ちんにゅうしてきた。ただ、意味のないことや度を越えた迷惑なことはしないのも確かで、おそらく何かしらの事態には遭遇するのだろう。面倒と思いつつも、退屈に支配されるのも受け入れ難く、重い腰は存外簡単に上がった。

 チャットの後に詳細を手短に伝える電話がかかってきた。呼び出されてのこのこと向かうのもバカらしいので、こちらはやつがいる駅まで、むこうは俺の家まで同じ道を使い途中地点で合流しようということになった。光一が店を出るのにもたつくと思い、少しだけのんびり準備をする。居酒屋に行くだけなので部屋着のスウェットパンツと黒いTシャツ姿から、ズボンだけリネンのパンツに履き替えた。スマホと財布だけポケットに突っ込み、キャスター付きの椅子に身体を預ける。だらだらと座面を回転させて時間を潰していたら、デスクの上の壁に打ちつけられている備え付け棚の上に置いてある一眼レフカメラが目に入った。

 それは三年くらい前にバイト代一カ月分を全てを費やし手に入れた、当時最新のエントリーモデルだ。コンパクトで便利だと思って買ったが、いざレンズやらを付けてみると意外に大きくてそこそこの重さがある。まめな性格ではないが定期的に掃除はしていたし、埃を被っているということはないが、久しぶりに手に取ってみる。

 スイッチを入れてレンズのカバーを外す。三つあるメモリの電池残量は二つ分残っていた。見慣れた自分の部屋をモニター越しに見回す。LEDに照らされた白い壁は実際より青みがかって見えた。ダイヤルを回して自動設定モードに変更してシャッターボタンを押す。「カシャ」と低い機会音が鳴り風景を切り取る。三角形のボタンを押してフォルダを開いてみると、最後に写真を撮ってから数ヶ月、時間が経っていたようだ。このまま棚に戻そうとしたが、せっかく買ったのにあまり使わないのはもったいないと思い、なんとなく一緒に持っておくことにした。光一の用意したイベントがあまり面白くなかったら、カメラ片手に散歩でもして帰ろう。

 ストラップを首にかけサンダルを履き、玄関の姿見で一応見た目を確認する。特に変なところはないと思うが、相変わらずこれと言って特徴のない見た目をしている。最後に髪を切ってから一ヶ月程経ったせいで、前髪が少し伸びてきて目にかかりそうだ。耳の少し後ろのあたりではねてる毛束がある。これは直していくべきか......いや自然なカールということにしておこう。

 ドアノブを回し外に出る。やはり今日は過ごしやすい気温だった。何度か地面を叩きサンダルを足にフィットさせて歩き始める。


 駅まで約十五分の道のりを半分ほど歩き、輸送トラックが多く走る街道沿いに出た。片側一車線だがかなり広く、歩道にも大分ゆとりがある。まだ緑色を茂らせている銀杏いちょうや、もう花を落としたつつじが植えられていて、大型トラックが過ぎる風に揺らされている。この道は光一と何度か使っている。なにか決まった用事があれば現地なり駅なりに向かうのだが、今夜みたいにとりあえず集まろうという時には合流がしやすくて便利なのだ。前回はやつがただラーメンを食べたいという理由で使った覚えがある。閉業中の郵便局や二四時間営業のコンビニの横を通り過ぎる頃、向かい側から歩いて来た光一の姿が目に映った。

 俺より背が頭半分ほど高くて目鼻立ちがよく、キリッとした好青年の見た目をしたそいつは、俺を見つけると悪びれない様子で

「よく来てくれた! 連れ出す手間が省けたよ!」

 と言った。

 やはり危惧した通り無視していたら家まで来るつもりだったらしい。少し煙と油っぽい匂いを連れて俺の隣に立つ。

「まぁ本当に何もしていなかったわけだしな」

 調子を合わせて仕方なく下手に出ると

「相変わらず頼まれたことは断れない度胸のない男だね」

 とわざとらしく頭の後ろで手を組んで言った。呼び出しておいてひどい言いようだ。

「そういうわけじゃない。ただお前を言いくるめることの方が難しいと思っただけだ」

「人聞きの悪いことを言ってくれるじゃないか。相変わらず偏屈と怠慢の権化のような性分だね」

 そっちこそ出会い頭に人聞きの悪いことを言ってくれるじゃないか。

「それで? どういった用件なんだ?」

「それは店に着いてからのお楽しみとしとこうよ」

「あっそ」

 二人並んで街道沿いの広い歩道を歩く。車通りはあまり多くはないが幾トンもの重量を積載しているトラックが真横を走るとさすがにうるさい。

「そういえば――」

 光一の声を遮るようにすぐ近くを轟音が通り過ぎる。

「なんだって?」

「そういえば久しぶりに会ったよね?」

「先月も会っただろ」

「そうだったかな? じゃあその時がかなり久しぶりだったんだろうね」

「その前の月も会った」

「ああ、そういえばそうだったかな」

 相変わらずざっくばらんというか諤々がくがくとしている。


 こいつには小学生くらいの頃からずっとこんな調子で揶揄からかわれている。こちらもなにか仕返しができないかと、画策するが奏効そうこうした試しはない。なにか付け入る隙でもあればいいのに、それすら利点に変えてしまいそうな気がする。あるいはすでにそうしているのか?

 進行方向の信号が赤に変わると同時に交差点に差し掛かった。対岸の歩道にキャップとウエストポーチを身につけたランニング中のおじさんが上下に揺らし、車道には乗用車とトラックが数台列を作って信号が変わるのを待っている。世間は夏休みだということもあり夜はまだ浅く、みんなまだ活動的だ。このまま歩いても駅に着くことはできるが、先みたいに何度も会話を遮られては面倒なので、違う道を使うことにした。横断歩道を渡らずに左折して、少し先の交差点を右折して商店街に入る。特に提案はしなかったが、光一も同じように思ったんだろう、黙って後をついてくる。

 四角柱に装飾された屋根がのせられたような形の街灯が、ブロックで埋め尽された道路のわきにぼんやりと白く光り連なっている。この商店街は全長一キロメートルほどで、肉屋や八百屋など色々な店が並んでいるのだが、そのほとんどがすでに店じまいをすませていた。駅前には大型スーパーがあるため、俺はあまりここで買い物をしたことはない。今は少し寂れた見慣れない店先を眺めながら、ここ数ヶ月の近況やくだらない話をする。

 漫然まんぜんと歩いていたら商店街の終わりまで来ていた。踏切を渡り線路沿いを行けば駅はもうすぐだ。

「なにあの不気味な光景……」

 光一が線路を挟んで向こう側のフェンス越しにある駐輪場に目を向けて言った。そこには綺麗に整列されたり、点々と置かれたりと数十台の自転車があった。

「不気味? なにがだ?」

「なんでみんなして赤い札なんてものをつけてるのかな?」

「赤い札?」

「ほらあれだよ。ハンドルにくくりつけてるじゃないか」

 光一が入り口の管理事務所付近に整列された数十台を指して言った。確かにそこには輪止めに寿司詰めにされた自転車があり、その全てのハンドルに赤い札のようなものがついていた。

「いつからこの街はこんなに治安が悪くなったんだろうな」

「治安? ゴミでもつけて悪戯いたずらされてるってこと?」

「悪戯にわざわざあんな手の込んだことするかよ」

「じゃあなんで治安が悪いなんてことになるんだ?」

 どうしてわからないのか疑問だったが、そうかこの駅は光一の最寄駅ではないのか。だったら知らなくても当然だ。使ってない人が知りようもないし、そもそも本来は気にも留めないだろう。

「あれはこの駐輪場の違反切符なんだ。そしてここは決められた場所に月極めで契約して駐輪代を払うか、そうでなければロック付きの輪止めに入れて、出る時に精算機に一日分の料金を払うシステムなんだ」

 この時間は本数が少なく、立ち止まって話をしていても電車は来ない。

「こんな大量の中からどうやって契約車を把握するの? まさかそれぞれの防犯登録の番号から照会なんてしないよね」

「この駐輪場には専用のステッカーがあるんだ。毎月更新すると張り替えるようになってる」

「なるほどね。それで契約してない人が停めてたり、ロックされないよう輪止めから離して停めてる小狡こずるい人の自転車が管理されたってわけだ」

「おそらくそんなところだろうな。しかし数年前に俺もこの駐輪場を使っていたが、その時はこんなに違反自転車が溢れていた覚えはないんだが」

「それはほら、やっぱり夏が来たからじゃないかな?」

 光一が胸を反り両腕を上げて、上半身を伸ばしながら歩きだす。

「関係あるか?」

「あるに決まってるよ! 開放的で刺激的な季節! 夏! 遊び盛りな人たちでも持て余してしまうくらいの出来事が満ち満ちているんだ! ちょっとくらい悪さをするやつがいたっておかしくないだろう?」

 なぜか誇らしげに笑っている。そういえばこいつは夏が好きだった。俺と違って。

「どうせホリデーライダーかなにかだろう。いちいち絡ませてくるな暑苦しい」

「はは、うまいこと言うな。それも無関係ではないだろうけど、実際に信之介もこうして珍しく夜遊びに出てるじゃないか」

「言い訳が思いつかなかっただけだ」

「そうだったね」

 踏切に差し掛かると、カンカンと音が鳴り遮断機が下りて足を止める。乾いた笑いが強い光に照らされて、電車が過ぎて行く。上り方面の車内は閑散としているのに、昼間と変わらず十両編成。遮断機が上がって線路の上を踏むとまだ振動が伝わってくる気がする。轟音が遠のき、どこからか聞こえてくる虫の声。まだ夏は始まったばかりみたいだ。

 

 2.


 祝日を絡めた連休初日ということもあり、駅前は多くの人で賑わっていた。俺たちが住む福野ふくの市は観光地になりえることはないが、近隣の市町村を跨いでもあまりあるほど広大な米軍基地を抱えているという特徴がある。そのせいかやたら外国人が多かったり、異国風の飲食店が軒を連ねる『アカセン』と呼ばれる、もはや誰がどこの国の人なのかわからないほどにごった返しているような場所もある。特に魅力は感じられないかもしれないが、俺はこの街を結構気に入っている。電車を使えば一時間程で都心に行くことができ、生活には困らないほどの開発具合の中でほどほどに田舎の自然も味わうことができるからだ。

 いくつかの喧騒を通り過ぎ光一が案内する店に着いた。『焼き鳥 火の鳥』と燕脂色えんじいろなのか汚れているだけなのか、少し暗い赤色の地に、筆で殴り書きしたような力強い文字の看板が掲げられていた。中に入ると両腕の広さほどのテーブル席が六つほどと、奥に調理が見えるような形で厨房を囲んだカウンター席がずらりと並んでいた。店には三人の店員の他にカウンターに腰掛けた二人組と、入ってすぐのテーブルを四人で囲んでいる客がいた。光一はその奥に一人でテーブル席の壁側に座っている女性の方に歩いて行った。

 その女性は長い黒髪を左耳にかけてまとめ、白いブラウスに主張の控えた細いシルバーのネックレスが映える大人びた印象だった。テーブルで下の格好までは見えなかった。光一がその女子の向かいに座り、隣の座面が赤いクッションの丸椅子をポンポンと叩いて

「こっちこっち」

 と催促してくる。

 導かれるまま席に着くとテーブルの上には中途半端に残った野菜をのせた皿と円を描いて溜まっている水滴があった。

「連れてきたよ。あぁ、まずは説明しないとか」

 光一が間延びした空気を取り払うように言った。

「私がするよ。ありがとう」

 斜め向かいに座る女子が机の上で腕組みをしながら言った。

「久しぶり。急に呼び出してもらって悪かったね」

 久しぶり? 俺はこの女性とどこかで会ったことがあるのか。見覚えがあるような、ないような。まだそれほど物忘れはひどくないはずだが……。

「ごめん。君が誰かわかっていないんだ。どこかで会ったか?」

 俺は失礼のないように細心の注意を払いながら悪びれて言った。

「なに言ってんだよ。長谷川美里はせがわみさとさんだよ。中学の頃一緒だったろう?」

 光一が呆れたように肩をすくめた。言われてはっとする。中学の頃から大人びた印象だったから見た目の違いこそあまりないが、光一と二人でいるようなことはないと思っていたため、言われるまで記憶と現状が結びつかなかった。

「久しぶりだな。すぐ思い出せず悪かった」

 中学時代はメガネをかけていたが、今はかけていない。コンタクトに変えたのだろうか。

「どういうわけで二人が飲んでいたんだ?」

 まだ残る疑問をそのままぶつけた。

「僕ら大学が一緒なんだよ。さっきまで他の友達も何人かいたんだけど、みんな明日朝早くから忙しいみたいで一旦はお開きになったんだ。そして家が近くてまだ飲み足りなかった僕ら二人が残ったってわけ」

 テーブルの水跡が二人だけのものではないうえに、さっきの街道で会った時に普段吸わないはずの光一からタバコの匂いがしていたが、グラスと灰皿が先に片付けられたのはそういうわけか。

「光一と信之介が今でもよく一緒にいるってのを聞いて中学時代の話でもしようかと思って」

 長谷川さんが付け加えて言った。

「そういうことだったのか。中学卒業以来だから……六年ぶりくらいか?」

「そんなに経つのか! いやあ、時間が過ぎるのが早いね!」

 これが光一の言っていた面白いことだったのか。確かに思いもしないことではあるが。

「信之介はどう? 最近、元気にしてる?」

「まぁぼちぼちかな」

「そんな何の答えにもならない言い方はするなよ」

 光一にため息混じりに肩を叩かれた。核心を突かれすぎて何も言えない。

「そうね。じゃあまずは乾杯でもしましょう」

 長谷川さんがメニューを勧めてきた。二人のグラスの残りも少なくなっていたのでそれぞれ注文をした。俺がレモンサワー、光一がカシスウーロン、長谷川さんがハイボールを頼んだ。俺は既に夕食を終えているし二人もさっきまで飲んでいて腹は空いてないみたいだったが、つまむものがなにもないのは寂しいので適当に卵焼きやきゅうりの漬物もお願いした。本当は馬刺しが気になるところだったが、こういうのはもっとちゃんとしたところで食べないと意味がない。

 飲み物はすぐに運ばれて来た。何も言わないと渡されるものが取り違えられると思ったのだろう、光一が店員から受け取りそれぞれに配った。女子が好みそうな酒をよく飲むからこういうことには慣れているみたいだ。

「では! 中学卒業ぶりの再会を祝して! 乾杯!」

 急な温度差についていけず控えめに長谷川さんがグラスを合わせた。

「乾杯」

 俺もそれに続けて手を伸ばした。

「乾杯」

 三つのガラスがぶつかり中の氷を揺らしてきれいなカランという綺麗な音を奏でる。


 懐古談かいこだんというのはやはり盛り上がるもので、制服が気に入らなかったとか、わけのわからない校内条例があったとか、美術室は三階だ、いや一階だとか話しているうちに、ぎこちなさや気まずい雰囲気はなくなった。二人が話しているところをあまり見たことがなかったが、長谷川さんはさておき、光一は誰とでも打ち解けられるようなたちなので存分に名司会な振る舞いを見せてくれた。

「ところでそれはなんだい? 普段から持ち歩いていたっけ?」

 光一が少し離して置いておいたカメラを指差して言った。

「なんとなく持って来たんだ。特に何かを撮ろうと思ってたわけじゃない」

「写真好きなの?」

「学校の課題で使うと思って買ったんだ。それ以外にはあまり使ってないな」

「デザイン系の学科だったけ?」

「あぁ。ただまぁ最近はあまり行ってないが」

「へえ、信之介に芸術色があるなんて知らなかったよ」

 長谷川さんがみはるように言う。

「これといってやりたいことはなかったけど進路を決める時に担任から勧められたんだ」

「中学の時も絵なんて描いてる印象ないもんね」

「実際描いてなかったしな」

 少しの沈黙が流れた後、長谷川さんが口を開いた。

「ねぇ、ポスターの件、信之介にお願いするのはどうかな?」

「ん、ああ、そうだね……いいかもしれない!」

 光一が閃いたように頷く。

「ポスター? 何の話だ?」

 二人の間だけで話が進められていくのに、ついていけず口を挟んだ。

「今度、僕らの大学が主催する演劇の公演会があるんだ」

 光一がグラスを机に置き直し、上半身だけこちらに向けて言った。

「数十年続いているんだけど、昔から学生が主体となって演者から裏方までこなすことに重きを置いているイベントなんだ。ただまぁ適材適所が足りてないというか広告活動がてんでダメでね。できそうな人もいないんだ。外注してもいいんだけど、予算の都合もあるしなるべく学生間でどうにかしたくて。少しネームバリューのある公演会で学長やらお偉いさん、過去には芸能系の人間も来たことがあるらしいんだ。さらには後援会やスポンサーみたいなものもあるくらいだし、みっともないものはできなくて……」

 光一がきまりが悪そうに説明してくれた。

「二人は演者なのか?」

「私は劇中で少しだけ演奏する。光一は運営というか……」

「ほぼ雑用だよ」

 開き直ったように笑っている。

「お前はなんでまた面倒事に自ら首を突っ込むような真似をしているんだ」

「ことの成り行きさ。あとは好奇心かな」

 後者が主だった理由だろうな。こいつの物好きで飛び上がり者な性根はしばらく変わらないのだろう。

「そういえば長谷川さんは吹奏楽部だったか。中学の合唱コンクールの時とかも伴奏もしてたよな」

「うん。吹奏楽はもうやってないんだけど、ピアノは今でもたまに弾いていて」

 長谷川さんが手の甲を上にして指を広げるよう机についた。

 確かに俺は大学でデザイン系の学科を専攻しているし、ポスターの類はよく課題で作っていた。ただ仕事としてやったことはないし、なによりいくら友人とはいえ外部の人間が、そんな大きいイベントに関わるのは気後れする。

「少ないけど報酬も出せると思うし、なんらかのお礼はする。どうだろうお願いできないかな?」

 躊躇ためらいを悟られたのか、表情に出ていたのか長谷川さんが憂懼ゆうくそうに聞いてきた。

 俺はこういうお願いごとというか、頼まれごとことには弱いみたいだ。光一にも頼られたり、あるいは付け込まれたことが過去にも何度かあった気がする。自分の中ではできないかもしれないとわかっていても、困っている人を目の前にすると決断が歪む。なにかすべきことがあるのではないかと考えてしまう。ただ単に断る度胸も無視できる気力もないだけかもしれないが。

 さてどうしたものか。話は大分具体性を含んでいるうえに相手は気心の知れたといえる二人。曖昧な問題を曖昧なままにしてしまうことも不可能ではないが、今回に至っては難しいだろう。光一だけならともかく、長谷川さんの頼みをないがしろにするというのも、俺の本意とは違うものだ。二人の強い視線を感じながらわずかな間考え込む。まあこれもなにかの縁だな。

「わかった。できる限りのことはしてみる」

 沈黙を開けて控えめな語気で言った。

「ほんと?! ありがとう!」

 光一が用意していたように言った。俺が甘受かんじゅすることをわかっていたのだろう。

「ありがとう。もちろん私たちも協力するから」

 長谷川さんが右手で軽く胸を撫で下ろして言った。

「で具体的に何をすればいいんだ」

「お、いきなりやる気だね」

 光一が冷やかしてくるが無視する。

 長谷川さんにも呆れた視線を向けられた後、

「八月の半ばに合宿があるんだ。そこで色々決まると思うから、その後に資料を送るよ」

 少し大人しくなって言った。

「わかった」

「お客様ー。只今ラストオーダーでーす。どうしますか?」

 会話の切れ目に毛先だけ金髪のちゃらついた店員がやってきた。三人で目配せし、なんとなく察して。

「結構です。お会計お願いします」

 近かった俺が言った。二人の友人の分は光一が預かっていたので、俺は後から追加した分だけのお金を出した。少し前にテーブル席の四人組は帰っていたが、カウンターにはまだ二人組が座ったままだった。


 外に出ると陶然とうぜんとして少し火照ったせいか、冷気を帯びた風が気持ちいい。駅前の店はもうほとんど閉店作業をしていたが歩道を歩いていると、外からの階段を上がってしっぽりと営業しているバーや、くすんだネオンカラーの看板のスナックが散在しているのが目に入ってくる。

「ここすぐお店変わっちゃうよね〜。前にあったハンバーガー屋さんすっごい美味しかったのにな〜」

 光一が視線を色々な方向に泳がせながら言った。

「私は中学から引っ越して来たからそういうのあまり知らないな。なんだか羨ましい」

 長谷川さんとは中学二年の時にクラスが一緒になりよく話すようになった。小学校は一学年せいぜい百人もいなかったであろうが中学に上がるといくつかの学校から集まるようになるので当然人数も何倍かに増えた。

 友達百人できるかな、なんて歌がある。だができるわけない。俺は小学校の時から学年全員を把握なんてできてないし、学年の全員は俺を知らないだろう。それは中学に上がってからも変わらなかった。だから中学一年の時の彼女を知らない。おそらくそれは彼女も一緒だろう。

「僕と信之介なんて幼稚園からこの街で遊んでるから馴染みの場所ばっかりだよ」

「といっても同じような場所でしか遊んだことはなかっただろ?」

「そんなことないよ、公園はほぼ全部といっていいほど制覇したし、川泳ぎに行ったりもした。市営野球場に侵入したこともあったじゃないか!」

「全部お前に連れ回されただけだけどな」

「侵入って……注意されたりしなかったの?」

「フェンスで囲まれたところだったんだけど、壊れてできた抜け道を知っていたからね、余裕だったさ」

 長谷川さんの気がかりを吹き飛ばすような痛快さで言った。

「管理人のおじさんに追いかけられたけどな」

「怒声を飛ばすおじさんから逃げるなんてスリリングで楽しかっただろう?」

「勘弁してくれ」

 長谷川さんが俺たちの幼少時代の話を聞いてくすくすと笑っていた。

 三人で並んで交差点に差し掛かると光一が

「僕はこっちだけど二人は?」

 左の商店街の通りを指しながら言った。

「私はこっち」

 長谷川さんが右の住宅街を指して言った。

「なら信之介に送ってもらうといいよ、同じ方向だからね」

「そうだな。というか光一はここから歩いて帰るのか? 少し遠くないか?」

 俺の家から三十分はかかってしまう光一の家は福野市と隣町の境にある。

「まぁね、でも意外とぼーっと歩いていたらすぐさ」

 視線を足元に落として言った。

「また集まろうよ」

 長谷川さんが俺たち二人の方を向いて言った。

「いいね、楽しかった」

「そうだな」

「カメラ! せっかくいいものがあるんだし撮ろうよ!」

 光一が首から下げていたカメラを指差して言った。

「賛成。記念に撮ろうよ」

 長谷川さんもこっちに歩み寄り覗き込むように見上げて来た。そういうことに無頓着というか興味がないように思っていたが、意外と今どきというかミーハーじみてるんだな。

「わかった、ちょっと待ってくれ」

 カメラを構えてレンズのカバーを外す。二人を画角に収めたり店の看板に向けたりして、何度かシャッターを切る。夜の撮影は光源が少ないのに強烈で、調整が難しい。無理矢理にでも明るくするとどこか違和感が残る。

 絞りや感度を調節してどうにか仕上がるように設定した。手首を曲げ自分達三人が写るように構える。バリアングルのこいつはモニターを自分たちにも向けることができて便利だ。

「はい、チーズ」

 包み込むように持ったカメラを親指でシャッターボタンを押す。こういう時には定番の文句だと思っていたが、自分の口から発せられると聞き慣れない。

 撮れた写真を確認すると中々よく撮れていると思う。光一は慣れているのか、きれいに半円を結びうまく笑えている。長谷さんも少し上がった口角が大人びた顔によく似合っている。俺はというと……まぁぎこちないが気のせいだろう。

「信之介固まりすぎだよ」

 光一に気にしているところを突っ込まれた。

「被写体は動かない方がいい」

「そうね。でもこれは緊張しすぎよ」

 長谷川さんも笑って言った。

 今日まで何度か思い出すことはあったかもしれない。押入れにしまってある卒業アルバムが目に入った時や、街でたまに見かける同じ制服を着た後輩諸君らを見かけた時とか。でも中学を卒業して疎遠になるどころか、二度と会わないであろう人間がたくさんいる中こうしてまた一緒にいることに、どこか現実味を帯びていない不安定な高揚感がずっと続いていた。それは違和感ともいえようもので、異質な存在にかどわかされている錯覚に陥りそうになる。

「じゃあ僕は行くよ。また連絡する」

「ああ。またな」

「またね」

 光一が手を振りながら歩き出した。背中をこちらに向けたのを見てから、茶化された仕返しのつもりでカメラを構えてシャッターを切った。夜空を眺めながら歩く光一の後ろ姿が映った。


 聞き慣れない足音に引き連られながら、片側一車線のガードレールで区切られた歩道を進む。長谷川さんとは何度か一緒に帰ったことがあったので家路のおおよその見当はついていたが、家の前までは行ったことはなかった。

「懐かしいけど変な感じがするね」

 長谷川さんがぎこちなさそうに言った。

「そうだな」

 横断歩道を渡ると狭くて暗い道に入った。街灯には羽虫が群がり頼りなくもアスファルトを照らす。数メートル進んで、後ろから来た車を大人しく一列になりやり過ごす。

「ん?」

「どうかしたの?」

「いや、うちの車かと思って」

「暗いのによく見えるね」

「形が少し特徴的なんだ」

「ふーん。そうなんだ」

 四角くてボンネットが長いような作りの軽自動車が、ゆっくりと遠くなる。ナンバーまでは確認できなかったが、もしかしたら父さんだったかもしれない。

「会えてよかったよ。今日がなかったらもう二度と会わなかったかもしれないし」

 二人少し速度を落として横に並ぶ。

「こんなことになるなんて家を出る時には思いもしなかったよ。本当にすごい偶然だな」

「偶然なんて信之介も女々しい言葉を使うようになったんだね」

 長谷川さんが軽く頭を傾けて言った。

「女々しいか? 誰でも使うだろ」

「女々しいよ。だってなんでもかんでも偶然だの、必然だの、はたまた運命だなんて、主観性に依存した仰々ぎょうぎょうしい名前をつけるなんてメルヘンチックだよ」

 思い出してきた。俺は長谷川さんのこういう自らを確立させたようなところを気に入っていたんだ。中学生ながら達観した論理を冗談のように披露するのが話していて退屈しなかった。もちろんこんな小難しい話ばかりではなかったが。

「なら別に俺は女々しくて構わないよ」

「拗ねないでよ」

 長谷川さんが揶揄うように笑って言う。拗ねているわけではない。

「しかし妙なことになったな」

「やっぱり面倒だったかな……ごめんね」

 そういう意味ではなかったが煩慮はんりょを含んだ横顔に言葉が出なかった。

「まあ成り行きとはいえ乗りかかった船だ、降りるまでは協力するよ」

「ありがとう。そう言ってもらえて、助かるよ」

 右左折をするたびにほんの少しだけ後ろを歩き、直進になると隣に並ぶ工程を何度か繰り返した。中学の同級生と大学生になってから一緒に帰るという状況に、完全に受け入れられてはいないが、そこまで緊張はなくむしろ高揚すら感じていた。狭い路地を歩いている途中、公園に差し掛かり長谷川さんの提案で中を通って行くことにした。木々に囲まれコンクリートが敷かれた遊歩道を進む。腰の高さほどの灯りが緩やかなカーブに沿って置かれ、周りに草が生い茂っていてる。公園というより林を整備して歩道を敷いたような場所だった。奥へ歩いて行くと深夜といえるほどの時間にしては珍しく、エプロン姿で右往左往しているおばさんがいた。

「前もこんな風に夜二人で歩いた気がする」

「クラスが一緒だった頃は何回かあったな」

「行事で遅くなる時とか部活で帰るタイミングが被る時とかかな」

「そうだったな。お互いもう酒が飲めるようになったなんて」

「妙なことになったね!」

 長谷川さんが上機嫌そうに言った。

「それにしても光一とつるんでいるのが意外だったよ」

「そう?」

「中学の記憶しかないから想像つかなかった」

「なにそれ。どんな記憶だったのよ」

「もっとこう毅然きぜんとしているというか、軽薄な男子なんかは見下しているのかと」

「そんなことしないよ、失礼ね。大体軽薄な男子って光一のこと?」

 長谷川さんが眉をひそめながらも朗らかさを含んだ声で言った。

「すまん、言いすぎた」

「そういう信之介だって呼び出されてすぐ来るような人とは思わなかったけどな〜。もっと面倒くさがりじゃなかった?」

「あまり活発なタイプではなかったのは認めるけどそこまで何事も面倒だと思ってたわけではない」

「そう? 前はもっと気怠げな顔をしてた気がする」

「ほっとけ」

 今度は俺が眉根を寄せ、ふてくれて言った。

「光一に呼び出されることはよくあるの?」

「今まで二、三回くらいしかなかったと思う」

「その時はどうしたの?」

執拗しつように来させようともされなかったから行かなかったかな。多分無理強いまでするつもりはないんだと思う」

「そうなんだ、幼馴染っていいね。お互い言わなくても通じているというか」

「どうだろうな。俺の場合光一が変わり者というか酔狂人というか。常にあいつが一枚上手みたいなところがあって着いて行くのが精一杯だな」

「はは、光一も同じようなことを言っていたよ」

 なぜだか嬉しそうな顔をしていたはずなのに、目元だけどこか物憂げに見えた気がした。

 ぐねぐねと曲がりくねる遊歩道を進み公園を出た。鈍い光を点滅させている古びた街灯が取り付けられた電柱の狭い路地。入り口からあまり離れてない。さっきまで歩いていた道がすぐそこだ。どうやらこの公園には道につながっている出入り口いくつかあり、通り抜けられるようになっているようだ。そしてこれは完全な寄り道だったらしい。

「ねえ! あなたたち! うちの猫を見なかった?!」

 帰路に戻るように長谷川さんの後ろに追いて行こうとすると、後方から焦燥に満ちた声に引き留められた。振り返ると肩を上下し、息を切らしたエプロン姿のおばさんがいる。

「全身が白で足に茶色の靴下を履かせたような毛色の子なんだけど! あとは……耳はピンと立ってて、低い声で鳴くの! すごく大人しい子なのに気づいたら外に出てたみたいで.......」

 人生で初めて、藁にもすがる思いという光景を目の当たりにした。肩くらいの長さの髪が風や汗で乱れている。

「猫ですか……見てないです。信之介は見た?」

 そんなことを考えていたら長谷川さんが答えた。

「いや、見てないな」

「そう、ですか……ありがとうございました……」

 なにも力になることができなかったのに、その女性は俺たちに深々と頭を下げた。ひどく落ち囲んだ様子だ。今にもこと切れそうな街灯に照らされた顔が、そこまでおばさんという年齢でもなかったことに気づいた。

「いなくなってからどのくらい経ちました?」

「三〇分くらいだと思います……」

「お宅はこの辺りなんですか?」

「少し離れた所ですが......」

 狭い道に横並びで話し込んでいると、道の奥の方からかなりの速度で自転車が迫って来た。こちらも近くに来てやっとそれが自転車だとわかったが、相手も同じようで俺たちを目前にして急停止した。あわや衝突事故になるところだった。いくら道に広がっていたからって、無灯火にあのスピードではそちら側にも過失がありそうだ。

 自転車にまたがっていたのは、俺より大分背の高い青年だった。くしゃっと無造作なパーマ頭の青年は、ぶつかりそうだった俺たちを見て面食らっている様子だ。スポーティーなロードバイクで、白黒を基調とした見た目をしている。チューブには防犯登録やステッカーが貼っていた。

「猫を見ませんでしたか?!」

 まだ驚きを処理できていないところに、女性が間髪容れずに聞いた。

「はあ?」

「白と茶色の子なんですけど!」

「そんなの見てねえよ」

「そうですか......」

 青年が自身の危険も顧みない女性にたじりろいでいる。

「あ、いやでも黒と白の猫なら見たな……」

 その場を立ち去ろうとハンドルを握り直した時、思い出したように言った。

「黒と白色......ならうちの子じゃなさそう……」

「おい、もう行くからどいてくれ」

「あ、はい。すみませんでした」

 ペダルを踏みチェーンが回転する音がして、瞬く間に彼方の夜に吸い込まれていく。あんな危険運転するやつはいつか痛い目にあってしまえ。

 もうすぐ日が変わる時間になる。このまま探し続けて見つかるというものでもないが、時間がてば見つかりにくくなるのも事実。ましてや今みたいに事故になる可能性だってあるんだから。

「心当たりとかはないですか? よく出かける所とか」

 自分の探しものでもないのに長谷川さんは協力する気なようだ。

「いえ、ないです……。本当にいつもは家でのんびりと寝ているような子なのに……」

 俺はペットを飼っていたことはないが、家族を失うという傷心は想像に容易い。このまま俺だけでは、さようならというわけにもいかないか。

「探していたのはこの辺りですか?」

「ええ。でも暗い所ばかりで全然見えなくて......」

 大都会ならともかく、ここは東京とは名ばかりの片田舎。駅前の市街地から少しでも離れてしまえば僅かな明りしかなく、なにかを隠すにはうってつけともいえよう。

「俺たちも手伝いますよ。力になれるかはわかりませんが」

「本当ですか?! ありがとうございます!」

 大袈裟に太ももの前で手を重ねて、勢いよくお辞儀する女性。近所迷惑かもしれないが、緊急時が故ご容赦してくれ。

「手分けして探しましょう。連絡先を教えてもらえますか?」

 長谷川さんが肩から下げていたショルダーバッグからスマホを手に取り聞いた。長谷川さんに手伝う了承をえなかったが彼女も放っておくつもりはないようだ。

「はい。あれ......」

 身に着けている衣服のあらゆるポケットを探るが。女性は何も出さなかった。

「あ、急いで家を飛び出したのでケータイを置いてきたみたいです......」

 無理もない。エプロンをつけたまま外出しているんだ。いないことに気づいてから文字通り飛び出したのだろう。

「じゃあ奥さ、失礼。お名前は?」

「岡田です」

「岡田さんと長谷川さんの二人と俺一人で別れましょう。そしてなにかあったら俺が長谷川さんに連絡すればいい」

 脚力を使ったりするとなるとなにかと一人の方が都合がいいだろうと思い提案した。 

「そうね。そうしましょう。はい」

 長谷川さんが身体をこちらに向き直し、スマホを差し出す。

「あ、そうか」

 自分で話を進めていたが、俺も長谷川さんの連絡先は知らなかった。ズボンのポケットからスマホを取り出し、チャットアプリの立ち上げて操作する。中学の頃は持っていなかったし、学外でやりとりすることもあまりなかったから、知らなくても困らなかったんだった。

「はい」

「来た」

『長谷川美里』とプロフィールが表示される。

「じゃあ私たちは向こうを探してみるね」

 先のロードバイクの青年が進んでいった方を指して言った。

「わかった。じゃあ俺はこっちを」

 二人が探す方と逆方向に行くことにする。

「うん。なにかあったら連絡ね」

「ああ」


 3.


 半月から少し満ちた中途半端な月が、小さくまばらな星空に浮かぶ。住宅街も閑静かんせいが過ぎると、怖気おぞけさすら帯びている。

 さて、どうしたものか。失くしものや落とし物には気を付ける性分だったため、あまり探し物をするという経験がない。しかも本件は不規則に移動する対象ときた。闇雲に動き回っても見つけられる気がしないが、じっとしていても目の前に急に現れるというわけもない。幾人ものベテラン刑事が口をそろえて言うことに習ってまずは足を使ってみるか。

 今まで野良猫を見てきた場所や住み着いていそうな場所を思い出しながら、周辺を見回しながら進む。アパートの室外機、駐車場、民家の庭、道端の茂み……。思いついては足を止め、注意深く目を凝らしてはまた歩く。足跡すら見つからないのでこの工程を何度も繰り返す。手を抜いているわけではないが、段々と探しているうちにこの作業ともいえよう行為にも慣れてしまい余裕が生まれて別のことを考えてしまう。そういえば、俺は猫アレルギーだったような気がする。猫は元来夜行性だったか。忙しい時に借りたいのは猫の手か孫の手か。まあ今借りられるのならどちらも借りたいところだが。

 しかしなぜ脱走なんてするんだろうか。ずっと家にいることができて食事と睡眠、たまに飼い主に愛嬌を振り撒くだけでいいなんて最高じゃないか。岡田さんのあの慌てっぷりを見るに相当可愛がられていることは想像に容易い。なのになぜなんだろうか。猫になりたいとぼやく人間も少なくないのに。光一は「そんな退屈そうな生活耐えられないね。仮に僕が猫になったなら本能の赴くまま、小さき大冒険に出るよ」なんてことを言いそうだが。

 二手に別れて探し始めてから三〇分ほど経過した。いびつな月は頭上まで上り静けさは以前変わらない。遅緩ちかんたる歩みであったが、思ったより移動していた。岡田さん達と別れた公園の出入り口からさらにわき道に入り、剥がれかかった道路表示のがたついたアスファルトの坂道を上がった。猫はおろか生物がいる気配すら感じられない。はなから自信があったわけではないが、見つけられないかもしれないという懸念が強くなる。

 このまま見つからなかったらどうなるんだろうか。探し物は時間が経てば経つほどに難易度が上がるだろう。他に協力者が増援されるとも思えない。ペットを探しているという旨のビラが町中に貼られていることがあるが、見つかったから剝がして回っている人は見たことがない。

 ズボンのポケットからスマホのバイブレーションが伝わってくる。画面を見ると長谷川さんからチャットが来ていた。



【長谷川美里】


 長谷川美里:「今、杉山パーキングって所から福野第三小学校の方に移動してる」23:41

 長谷川美里:「まだそれらしいものは見つけられていない。そっちはどう?」23:41

 久我信之介:「公園脇から入った坂道にいるが」23:42

 久我信之介:「同じく成果はない」23:42

 長谷川美里:「そっか」

 長谷川美里:「次はどこに向かってるの?」23:44

 久我信之介:「ナンカミ方面に向かって行くつもりだ」23:44



 やはり二人も同じように探がしているようだが、難航しているみたいだ。しかし長谷川さんがこうも人助けに積極的というか率先するタイプだとは知らなかったな。俺の知る彼女だったら「私は自分でどうにかするから、あなたも自分でどうにかしてね」なんて言いそうながあったが違ったみたいだ。まあたかが中学の、それも二年弱の付き合いしかなかったのだから意外な一面があるのも当然か。

 上の空で歩いていると瓦解がかいしてできた窪んだアスファルトにつまずいてつま先をぶつけた。鈍痛が足全体まで広がりその場に立ち止まる。こんなにでこぼこなら放置せずに改修してくれ。徒歩だったから少しよろけるだけで済んだものの、これが自転車とかバイクだったら勢いでそのまま一回転でもしてしまうところだったぞ。足元の小石に右足で八つ当たり蹴飛ばす。

 まずまずの力を加えたが二、三回弾んで坂道の傾斜に負けて少し転がって止まった。小石が飛んでいった先を不意に見つめると民家の玄関前に、猫一匹くらいの大きさをしたものがあった。今いる場所からは距離が遠くてよくわからない。

 音をたてないように抜き足差し足でゆっくりと近づき、しゃがみこんで庭の柵越しに目を凝らす。ついに見つけたかと思ったが、はっきりと視認できるようになったそれは......茶色い子犬の置物だった。まったくの別物。非常に精巧な作りで、今にも目の前に広がるきれいな芝生の庭を駆けだしそうなくらいは紛らわしい。気がつくと見るのに夢中で民家に近寄り過ぎていた。これでは自分が不審者と通報されかねないと急いでその場を離れる。でもあそこまで見に行かないとわからなかったからしかたがない。もし岡田さんだったら一目散に飛びつきそうだ。膝で地面を押し返して再び歩き出す。


 かくして俺が思いつく猫が寄りつきそうな目ぼしい所は、もうなくなってしまった。とうとう手詰まりだ。これ以上探してみても成果は見込めそうにない上に、弄する策すら尽きた。時間も体力も有限。ここらで一度切り上げて、後日仕切り直しという形をとった方が効率はよさそうだ。しかしこれは当事者ではない赤の他人の結論。仮に解散することになっても岡田さんはいつまで経っても気が気でないだろう。今更だがもっと彼女の話を聞いておくべきだった。正直なところ長谷川さんと話していた時の内容はあまり覚えていない。

 どんなことを言っていたか……。歩く速度落としながら記憶を辿ってみる。なだらかな坂道はまっすぐ続いていてるが、月明かりも頼りなく先まで見通しが悪い。

 最初に公園の中で見かけた時は遠くにいるだけでなにもなかったはず。話しかけられたのは公園から路地に出た時が初めてだ。猫を見ていないか聞かれ、公園内の状況と結びつき、この人は飼い猫がいなくなって探しているんだと認識したんだ。それまではただ外を歩いている人としか思ってなかった。

 白と茶色の猫を知らないか聞かれ、長谷川さんが見ていないと答えた。ん? いや、これはロードバイクの青年に言ったことか。ずっと立ち止まっていた俺たちにはより事細かに説明してくれた。探しているのは全身が白で足が茶色、耳が立ってて低い鳴き声。確かそう言っていたはず。姿は見えないし、普段は大人しいと言っていたから鳴き声は聞こえてはこなさそうだ。

 そして細い路地に三人並んで話していた所に、かなりのスピードのロードバイクが突っ込んできた。その時危なく事故になりかけていたが、そんなことにも躊躇せず岡田さんは声をかけた。そうだった。あの時は急いでいたから説明を端折ったんだ。まあそれでも伝わっていたのだからなにも問題はない。

 青年が一度は見てないと答え、その場から走り去ろうとして、思い出したように黒と白の猫なら見たと言った。それを聞いて岡田さんは落胆してしまい、青年はその場を離れた。猫を見た人物がいたが、それは別個体だから結局振り出しに戻って、そうして俺たちが協力するようになったんだ。

 なにか引っ掛かる気がする。どこがおかしいか明確にはわからないが、変なところがあるように思う。なんだ? 腑に落ちないというか違和感がある。ぼんやりとした疑念に囚われ、近くの電柱にもたれかかって考えてみる。

 猫はいた。だがそれは俺たちが探しているのとは別の個体。なぜなら色が違うから。これは間違いない。事実さっき似ているものを見つけたが色も違うし近づいてみたらもはや無生物だった。同じようなことを青年も体験したのだ。しかし、青年は一体どこでそれを見たのだろう。俺は暗闇の中で近しい形を見つけるだけでも精一杯だった。だが青年は「猫らしきもの見た」ではなく、はっきりと「黒と白の猫なら見た」と言った。よく正確に色まで言い切ったものだ。白ならともかく夜道にある黒いものなんて、塗り潰されたように見えて視認することなんてできないだろう。しかも青年は無灯火のロードバイクを使い高速で走行していた。だが彼は言った。聞かれて思い出してしまうほどの強烈な印象。やはり彼は確実にそして自分の目で黒と白の猫を見ているはずだ。さてそれはどこか。

 強い風が吹いてあたりの木々を揺らしている。ざあざあという音は不気味に響き怖気さは一層強まる。

 彼は視力がとてつもなく優れているのか、暗視の特技があるのか。やはり夜道から黒い猫を高速に移動する視点から見つけだすのは特異な視力でもない限り不可能だろう。歩いていても見落としてしまうことの方が大いにありうる。よって猫はその姿がはっきりとわかる程度の明るさのもとにいるはずだ。あのロードバイクには駅の駐輪場の許可証であるステッカーが貼っていた。おそらく彼は駅前を出発して俺たちとあの場所で鉢合わせた。どういうルートを辿ったかはおおよそ検討がつく。なぜなら俺と長谷川さんが歩いて来た、最短の道のりと同じである可能性が高いからだ。あんなにスピードを出していたのにわざわざ回り道をしていたとは考えにくい。その間に猫が視認できそうでなおかつ寄り付きそう場所は……。俺が見てきたコーポ山口、庭付きの住宅地、長谷川さん達がいた杉山パーキング、信号のある比較的大きな交差点、福野第三小学校。しかしアパートにも並んだ民家にも見当たらなかったし、パーキングも信号交差点も小学校に行く途中に通るはずなのに連絡が来ていないということはやはりそれらにはいなかったことになる。

 ではやはり見当違いだったのか。知らぬうちに関係のないところを通っていた可能性も排除しきれないし、俺たちに遭遇する前まではライトをつけていたかもしれない。たまたまスピードを落としていて通りかかった車にでも照らされて場所にたまたまその猫がいて見たとか。

 はあ、というか考えても仕方ないか。青年の見た猫と俺たちの探している猫は色が違うとはわかっているのだから。検証のしようもないのであらゆる可能性を排除することもできないしな。またここら一帯を探し回ることにするか。短く息を吐いて背中に力を入れて体勢を直し、もたれていた電柱から歩き出す。

 坂を上がった先には収穫を終えたとうもろこしが残された畑が広がり、平家が数軒並んだ開けた場所に出た。いつの間にか空にはわた雲が散りばめられていた。漫然と押し流される雲たちを眺める。今日は風が強いみたいだ。



【長谷川美里】


 長谷川美里:「岡田さんの案内で小学校の門の前まで来たけど、やっぱりいなかったよ」0:07

 久我信之介:「そうか」0:10

 久我信之介:「ナンカミもだめだ」0:10

 長谷川美里:「そう」0:12

 長谷川美里:「どうする? 一度合流する?」0:12

 久我信之介:「ああ、そうしよう」0:13

 長谷川美里:「ところでナンカミっていうのはどこあたりなの?」0:13

 久我信之介:「さっきいた所から少し南下したとろだ」0:14

 長谷川美里:「そこから戻れる?」0:15

 久我信之介:「二手に別れた場所か?」0:15

 長谷川美里:「うん」0:16

 久我信之介:「問題ない」0:16

 長谷川美里:「じゃあそこで」0:17




 ポケットのスマホを確認したら長谷川さんからチャットが来ていた。しばらく連絡がなかったので察しはついていたがやはり向こう方も見つからなかったみたいだ。夜はとっくに更け探し始めてから一時間程経過している。さすがにこのままではらちが明かないので、最初に会った公園の出入り口の小道に集まることにした。来た道を引き返すのと時間はあまり変わらないので、捜索範囲拡大のためにも畑を過ぎて迂回するように、岡田さんに初めて声をかけられた所まで戻る。

 先までの少し古びた平屋からうって変わり、新築が並ぶ開発されたばかりの区画に出た。建設途中の分譲住宅もちらほら建っていて、顧客を歓迎するような賑やかな看板が置かれている。ここも少し前までは畑だったはずだが跡形もない変貌にどこか寂しい気持ちになった。

 ここら一帯は南神田園みなみかみでんえんという地名でもちろん北神田園きたかみでんえんという所もある。西と東はない。田園とは名ばかりに実際は少しの畑と団地が建っていたりと米作が盛んというわけではない。ただ開発が進んでしまっているだけで過去には田んぼがあったようだ。その頃の面影が裏路地に敷かれている水路から感じられる。略称として地元民から『ナンカミ』と呼ばれているので中学から引っ越して来た長谷川さんならともかく、岡田さんならわかると思ったが情報を共有してないのか、そもそも知らないのか。いや、他に光一くらいしか呼んでいるのを聞いたことがないということは、やつが勝手にそう呼んでいるものを気づかぬ間に真似ていたのかもしれない。

 新しく歩道まで作られた新築地帯はまだ完成したわけではないようで、所々に空き地が残っていて未完のパズルのようだった。ここから駅までは二〇分くらいはかかってしまうから、もし住んだら通勤通学が面倒そうだ。少しボンネットが伸び角張った形をした乗用車がこちらに向かってきて、強いヘッドライトに照らされる。眩しい光に目を細めながら、道路脇に身を寄せてすれ違う。ランプをつけていなかったがそれは警察車両だった。パトロール中なのか警察署に戻るのかわからないが、よくわざわざこんな細い道を通るものだな。

 頭の中で地図を思い浮かべて今いる地点から目的地までルートを決める。距離はそこまで離れてはいない。一応まだ通っていない道のりを使い結果ぐるりと大回りをして、二人と別れた公園の出入り口まで戻ることにする。普段は自宅から駅くらいの道しか歩かないので知り尽くした街と思っていても、意外な発見があった。空き地だったところにコンビニが建っていたり、たい焼き屋がおにぎり屋に改装していたり、楽器屋がベトナム物産店に変わっていたりと非常にバラエティーに富んだ転変を見せてくれた。エスニック料理はそこまで得意ではないが、元楽器屋のベトナム物産店は少し気になる......。

 捜索もそこそこにこの街の代り映えに目移りしながら俺たちが最初に邂逅かいこうした公園出入り口まで戻ってきた。福野第三小学校と俺がさっきまでいた『ナンカミ』はここからほぼ同じ距離感のところにあるが、まだ長谷川さんたちはいなかった。意識してそうしてるわけではないが、俺は歩くのが早いらしい。二人が来るまで話を整理しておくか。

 小道の先の横断歩道の向こうに二人の女性がいる。一時間前まで一緒にいたので背格好で長谷川さん達だとすぐにわかった。左右を確認して通りを渡って小道に入って来る。

「お待たせ。遅かった?」

「いや、気にするな」

 小走りに近づいて来た長谷川さんとありきたりなやりとりをする。

「それでどうだった?」

「だめだな。それらしいものも見当たらなかった」

「そっちは……」

 岡田さんの落胆ぶりを見るに結果は想像に容易い。おそらく成果はなかったのだろう。

「私たちは信之介と別れてからまずここら一帯を見回ったよ。岡田さんの家の方に戻ったり何回か連れ歩いたことがある場所にも向かった。そのあと他の公園とか団地とか猫が住み着いていそうな所手当たり次第に探してたけど見つけられなかった。途中、民家の間の駐車場で一匹だけ見たけど、白黒の毛色の猫だったから岡田さんちの子じゃなかった」

 しおらしい様子の岡田さんの隣で、長谷川さんが色んな方向を指差しながら説明を始めた。そういえば岡田さんの家の周辺を勝手に捜索範囲から排除していた。猫が自分で家に戻っていることや周辺をうろついてる可能性も十分にあるのに、時間的に遠くまで行ってしまっているのではないかと決めつけていたようだ。

「そうか。俺はアパートの駐車場や空地の開けた場所とか住宅地を見て回った。だがそれらしきものは……犬の置物しか見つけられなかったよ」

「犬の置物?」

「いや、なんでもない」

 少しおどけて場を和ませようと思ったが、そんな時ではなかった。

「お二人ともこんな遅くまで付き合わせてすみません。あとは私でなんとかするので、どうかお気をつけてお帰り下さい……」

 こんな状況でも丁寧な岡田さんの声には、やはりまだ不安な様子が強く含まれている。

 しかし気をつけて帰れと言われても『はい。さようなら』とはすぐにこの場を離れることはできなかった。途方にくれたこの人を置いていくのばつが悪いし、ここまで協力したのに少しの功績も挙げられなかったのは心残りだ。せめてヒントになることだけでも最後になにか手伝えることはないだろうか。

 俺と長谷川さんたちは早々に二手に別れた上に、都度綿密に連絡を取り合っていたわけではないので、そちら側の情報は掴みきれない。だが、俺の知っている長谷川さんは几帳面で慇懃いんぎんな性格をしているので、彼女が見ていないというのならばやはりそうなのだろう。

 こちら側はまず猫がいそうな所に見当をつけて、そこまでの道のりも含めてくまなく探すという方法をとった。そしてさっき話した通り駐車場や空き地といった所を目指しながら、途中の住宅地にも気を配って歩き回っていた。俺が見たものといえば、アパートの室外機、民家の玄関先の置物、ランプの消えたパトカー。ペットの失踪を探しているような印象はないんだが、こういう時警察はどのくらい協力的なのだろう。

「なあ、二人が見たの猫は白と黒の色をしていたんだよな?」

「うん。だから自転車の人が言ってた子かなって」

 なにか岡田さんに言い残せる情報はないと思われたが、頭の片隅でほんの少し気になっていたことに思考の全域を埋め尽くされていく。

「二人が見たその猫は一匹だったか?」

「そうだけど……。どういうこと?」

 疑念の濁流の中から座礁ざしょうしたように、気がかりだったことが明確化され、ある可能性に辿り着いた。これなら話の食い違いが起こるのも無理はない。

「長谷川さんの話を聞いた時、俺もその猫は青年が見ていた猫と同一だと思ったんだ。でも単に話し手の言い方の違いかもしれないが、確か彼は黒と白と言っていた」

「言われてみてればそうだったかも……」

「そして長谷川さんはさっき自分で見た猫を白黒の毛並みと言ったんだ」

「うん……。でもそれがなんなの?」

 まだ確証のあるわけではないけど、彼女は俺の話を真剣に聞いている。

「感覚の違いやその時々によって変わるかもしれないが、俺は昔の写真やパトカー、横断歩道なんかは『シロクロ』と説明する。まあ人によっては『クロシロ』とも言うかもしれない。だがロードバイクの彼はどこかで見た猫を『クロとシロ』と言ったんだ」

 なんだかよくわからないといった様子の岡田さんの横で、長谷川さんはおもふけるように少し俯いている。

「なあ、あの発言はこうとも捉えられるんじゃないか? 彼が見たのはツートンカラーの一匹の猫ではなく、黒い毛並みと白い毛並みをした別の二匹の猫だと」

 計らずとも結論を先延ばしにし、迂遠うえんな言い回しになってしまったただの屁理屈を真摯しんし精察せいさつしている。

「確かに。そう言われてみるとありえないことはないかも……」

 長谷川さんは俯いていた頭をもう一段階軽く頷きこちらを見て言った。

「ああ、今思いついたんだが通らない筋じゃなさそうだろ」

「じゃあその白い猫が岡田さんの家の子だとして、ロードバイクの青年はどこで見たんだろう? それにずっと同じ場所にいるとも限らないんじゃ」

 目ぼしい所は手分けしてくまなく探したが、ついぞ俺たちは見つけることができなかった。それなのに、路上に並んでる人に気づかず事故寸前になるほどの高速で移動していた彼に見つけられる場所。もう思いつく所はあそこしかない。知らずのうちに決めつけていたんだから見落として当然だ。推測という思い込みは効率的に物事を進めることができながら、その実おそろしいもので、俺は彼がどこから来たのかわかっていたのに可能性を排除していた。

「心当たりは……ある」

「それは?」

 まじまじと俺の目を凝視してくる二組の瞳にたじろぎそうな身体を抑え、なんとか声を出す。

「彼の乗っていたロードバイクは覚えているか?」

「いや、あんまり……」

「彼の乗っていたロードバイクのハンドルには俺たちが飲んでいた駅前の駐輪場の違法駐輪を示す赤い札が付けられていた。札といっても切符をワイヤーでハンドルに括り付けただけのものだがな。よって使っていた駐輪場は駅前で間違いない。そしてこれは希望的予測だが俺たちが探していた所にいなかったとすると、彼は自転車で走行していた地点ではなく、乗る以前の場所で見ていたのだろう」

「でもうちの子は全身が白いわけじゃなくて足元だけ色が変わっています。やっぱり違う猫なんじゃ……?」

 岡田さんが動揺と高揚を入り交ぜたような声で聞いてきた。

「それも……行けばわかると思います」


 上手く説得する方法が思いつかなかったので、半ば強引に二人を連れ出した。田舎街の路地は細い歩道ばかりなので、三人横並びというわけにもいかず、俺が先導し後から二人がついてくる列を作り駅前まで向かう。夜風は凪ぎ三つの足音は不揃いに響いている。先までは一人だったのでなんとも思わなかったが、沈黙を引き連れながら歩くのは、単に気まずいというのもあるが居心地がいいとはいえなかった。

 これはの単なる悪あがきだ。岡田さんに誠意を見せるという儀礼的行動に基づくものかもしれない。自信も確証もない。ただ手持ちの情報で組み立てた推論で一番辻褄が合っているというだけだ。もし失敗に終わったとしても二人は責めることはしないだろうけど、上手くいかなかったら格好がつかないな。

 目的の場所に向かいながらも、一応途中の道のりにも気を配りながら歩いているとあっという間に駅前まで戻って来ていた。もう終電もなくなり人気ひとけもだいぶ少なくなっている。視線の先で数時間前に光一と話していた赤い札が付けられた自転車がずらりと並んでいた。あの時の会話にもこうして意味があったと思うと、釈然しゃくぜんとしないが少しながら感謝の念を送っておこう。

 駅前のロータリーを横目に通り過ぎ線路沿いの道を少し歩くと『福野駅西口駐輪場』と書かれた看板がフェンスにくくり付けられている所があって、そのすぐ横から中に入られるようになっていた。福野駅にはこの西口にしか駐輪場は設けられていなく、東口の大型スーパーに止めてしまう人も多くいるようだ。車社会というわけでもないので、もう少し駐輪できる場所を増やしてもいいのではないだらうかと思う。入ると屋根付きの輪止めが少し段差になったコンクリートの上に二〇メートルくらいの間に等間隔で並べられていて、いくつかの通路を挟み縦に六つ、横に三つ設置されていた。それぞれの屋根には蛍光灯がつけられていて、劣化具合なのか明かりの強弱はまちまちだが、自分の自転車がわかるほどには照らされていた。光一と見た時より台数は減ったように見えるが赤い札が付けられた違法駐輪車は依然として不気味に並べられている。入って数歩進んだ所に畳一畳ほどの物置のような少し手狭い管理事務所があるけれど、すでにシャッターは下ろされていた。窓から突き出たような形をしたカウンターの下に餌皿のようなものがあって、それを見て今更だが、以前事務所のおじさんが野良猫に餌をやっていた場面を思い出す。目下の場所に到着し注意深く辺りを見渡す。すると電柱から伸びた灯りに照らされた、そばの茂みの抜け目に並んで身を寄せ合っている二匹の猫がいた。

 本件の捜索を開始して初めての猫。それも剥製ではない本物の動物。さすがの実物は艶然えんぜんとした毛並みをまといツンと伸びた髭にピン立った耳、呼吸で上下する腹部、円弧を結びながら地面に這う尻尾。いかなる巨匠だろうと、ここまでの代物しろものを作り上げるのが至難の業と悟るほどの、生き物としての底知れぬ繊細さを目の当たりにする。向かって左側に黒い猫、右側に白い猫がそれぞれ足を折り畳むように香箱座りをしていた。俺たちが近づくと足音に気づいてすぐにこちらを見てくる。さすが野生動物の警戒心だ。

「アンちゃん!」

 俺の少し後ろにいた岡田さんが興奮気味に駆け寄る。

「ごめんね! もうどこにも行かないでね!」

 特に逃げることも威嚇することもせずに目の前で膝をつきながら手を伸ばす岡田さんを、二匹の猫は毅然と眺めていた。呆気なくすんなりと持ち上げられたアンという白い猫は、そのまま腕に収まり抱きしめられている。一応どこかに逃げ出してしまうのではないかと身構えていたが、杞憂きゆうだった。

「見つかってよかったですね。君がアンちゃんか、可愛いね」

 長谷川さんが白猫の頬を軽く握った右手で擦りながら言った。

「はい! ありがとうございます!」

 岡田さんはこちらに向き直り深々と頭を下げている。

「いえ。なんとか力になれてこちらとしてもよかったです」

 確証がなかったのでしばらく平然としていられなかったが、目的を果たし向けられる賞賛と激励の眼差しにじんわりと達成感が湧き上げてきた。愛猫と再会しひたすらに抱きしめる岡田さんと、それを微笑ましそうに見ている長谷川さんのおかげで、張り詰めていた緊張が解け安堵し、肩の荷が降りるのを感じる。よかった。突然な思いつきで二人を連れ回したが、概ね大成といえる結果となったのでこれにてめでたしとさせてもらおう。

「あの……なにかお礼をさせて下さい」

 岡田さんがアンを抱えながらこちらに歩み寄り聞いてくる。

「いえ、結構ですよ。そんなに大したことはしてないので」

「そう言われましても……」

 本当に謝礼とか金品が欲しいわけではないのに遠慮していると思われてしまった。後腐れがないようにこの場で終わらせておきたいと思ったが、どうしたものか。

「いいの?」

 長谷川さんが後ろで手を組みながら覗き込むようにして聞いてきた。

「ああ」

「じゃあいいんじゃないですかね? 信之介もこう言っていることですし」

「そんな……」

 岡田さんはまだ割り切られていないみたいだ。

「それより早くアンちゃんを連れてお家に帰った方がいいんじゃないですか? またどこか行ってしまうかもしれませんし」

「そうですね。俺もそうして欲しいです」

 終わりが見えなさそうな気まずいやりとりを長谷川さんの出してくれた助け船によってなんとか脱出することができた。

「すみません。ではお言葉に甘えさせてもらいます」

 瞭然としない感じではあるが早々に帰宅した方がいいという提案に一里あると考えたのだろう。岡田さんはアンを抱えたまま俺たち二人に目を合わせてから深く頭を下げた。

「帰りましょう」

 俺たち二人の間を長谷川さんが追い抜いて駐輪場の外に向かう。

「ああ」

 それに連れられて、もう一度会釈をした岡田さん、俺の順番で歩き出す。かくして本件は無事に解決され帰路に就く二人にはもう不安そうな雰囲気はなく、足取りにも軽やかさすら感じた。

 通りに出る直前、不意に思い出したように後ろを振り返る。アンが取り上げられた場所に一匹残った、黄色い目が鋭く光る黒猫。そいつは俺の前を歩く岡田さんに持ち上げられた白猫をただ茫然と見ている。声も出さず、動きもせず、ただ見ているだけ。その姿が少々不気味ながらもどこか物悲しく思えた。すると俺の前方から闇夜に消え入りそうな声量で『ニャーン』と低く、長いアンの鳴き声が一度だけ響いた。か細くも確実に俺たちの耳に届いたその声に黒猫はほんの少しだけ顔を上げてたが、答えることはなく離れて行くアンをただ見ているだけだった。


「本当にありがとうございました。本当に助かりました」

 大袈裟に何度も頭を下げて岡田さんが礼を言う。

 俺たちは三度この公園の出入り口の前まで来ていた。道中、岡田さんと長谷川さんがアンの話で盛り上がり、正直付いていけず二人が戯れているところを少し後ろから見ているだけだった。アンは話の通り大人しく、じっと岡田さんの腕に抱かれ、初対面の長谷川さんにも愛嬌を振り撒くように手に顔を擦り寄せたりしていた。

「もう、そんなに気になさらないで下さい」

 長谷川さんが胸の前に手を出し小刻みに左右に振りながら言った。

「こちらとしても力になれてよかったです」

 どうも鷹揚おうようとする気分になれなかったので、俺も続けて無策に謙遜をした。

「二人のおかげで無事にアンと帰ることができます。本当にありがとう」

「今度は気をつけて下さいね」

 長谷川さんが少し茶化すように言う。

「そうですね気をつけます」

 抱えたアンをぐっと顔の高さまで掲げて岡田さん言った。

「それでは私はこっちなので。本当にありがとうございました。お二人も気をつけて帰ってね。おやすみなさい」

 岡田さんは最後に俺たちに深々ときれいなお辞儀をして、点々と灯りが並んだ遊歩道に吸い込まれるように公園内に入っていった。

「はい、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 アンを抱き抱えたまま小さくなっていく岡田さんの後ろ姿を見送って俺たちも本来の帰路に戻る。


 曖昧に記憶していた長谷川さんの家への道のりは、それほど違っていなかったが、あったはずのパン屋とか書店がなくなったり、あるいは形が変わったりしていた。風が吹かない真夜中の夏は歩いていると少し暑く、先から一時間程歩き回っていたのもあり喉に渇きを感じる。

「なんとかなってよかったね」

 隣の長谷川さんがこちらに上半身を傾けて言った。

「そうだな」

「それにしてもよくわかったね」

「駅に来る途中にあの駐輪場を見ていたんだ。それでもしかしたらと思ったんだよ。それにあの猫が動かなかったのはただの幸運だ」

「それでもすごいよ」

「そうか。ありがとう」

 謙遜も過ぎると嫌味ぽくなるので、お世辞として受け取っておく。

「信之介が探し物が得意だなんて知らなかったよ。私もなにか困ったら助けてもらおうかな」

「勘弁してくれ」

 軽口を交わしながら二人並んで歩く。友人であったはずなのに、時間という莫大な力によって希薄化してしまった関係値を取り戻すように努め身が入っていたからか、彼女の家まではあっという間に過ぎていた。

「ここが私の家よ」

 長谷川さんの家はベージュのタイルが幾重にも重なって外壁と、温かみのあるオレンジの照明の全体的にシックな造りのきれいな二階建てのアパートだった。

「送ってくれてありがとうね」

 階段の下で足をそろえて立ち止まり言った。

「いや、迷子になっても困るしな」

「本当だね。でもたくさん話せてよかったよ」

 長谷川さんが緩んだ口元を手で隠しながら言う。

「ああ、そうだな」

「じゃあ俺はこれで」

 別れの挨拶を大事のように扱うのは好きではない。二度と会えなくなる気がしてしまうからだ。

「うん、ありがとう。またね」

 何度も感謝されることでもないと思い、返した踵を戻すことなく歩き始めた。

 光一に言われた通りの面白いものとは少し違った気がするが、奇妙な体験をした一晩はこうして終わり、一人夜道を進む。交差点に差し掛かり信号待ちをしていたら、蛍光色をアスファルトにぶちまけ、タイヤをハの字にしたなりをした、爆音のヒップホップを流す一台の改造車量が猛スピードで走り去ってい行った。それを見て、今年の夏はいつも通りにしていたら置いて行かれそうに過ぎていくかもしれないと、漠然な思いにふける。

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船影 @KIYOTAKASHINJI

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