第8話 開花した花嫁2
「キーシュさん」
まるで祈りを捧げるようにシュクラがキーシュの名を呼んだ。名を呼びながら素足に口づけるシュクラを緑眼がじっと見つめる。
シュクラの唇は、まるで神の像に口づけるようにうやうやしくキーシュの肌に触れていた。足の甲から始まったキスはすねを通り、膝頭には吸いつくように何度も唇を這わせる。それからゆっくりと太ももへと口づける場所を移した。
見ているうちにキーシュは段々と気恥ずかしくなってきた。心は満足しているのに頭は恥ずかしくて仕方がない。それにくすぐったいせいか足の付け根がソワソワする。だらかシュクラの頭に手を伸ばした。それなのに動きを止めることはできず、代わりに黒髪をくすぐるように指先を動かす。
すると黒目がちろっとキーシュを見上げた。熱っぽい眼差しに背筋がゾクッと震え、気がつけばじっと見つめ合っている。
先に動いたのはシュクラだった。髪をいじる右手を手に取り指先に口づける。人差し指、中指と口づけると次に唇を這わせたのは手の甲だった。そのまま手をひっくり返し、手のひらにもキスをする。
「ん……」
思わず漏れた声にシュクラが小さく笑った。そのまま手首にキスをし、まるで噛みつくように吸いついた。
「シュクラ、」
歯の感触にキーシュのうなじがぞわっと粟立った。噛むのはそこじゃない。牙を突き立てるのはここだとねだるようにうなじがジリジリと熱くなる。
「キーシュさんからすごくいい香りがする。この前の発情のときとは違う、いや、そもそもこんな濃い香りはしなかった。花の蜜のように甘くて目眩がするような……これが、俺のΩの香りというわけか」
恍惚としたシュクラの声に背中がゾクゾクした。
もっとシュクラを夢中にさせたい。自分だけを見てほしい。自分だけのαになってほしい。そう思った途端にキーシュの全身から何かがぶわっと噴き出す。
(あぁ……僕の香りが広がってる……)
なぜかそう思った。頭で理解しているというより本能がそう訴えていた。全身から噴き出しているのはΩの香りで間違いない。その香りがシュクラを包み込もうとしている。自分だけのαにするために、自分の香りを纏わせようとしているのだ。
(僕はいま、発情している)
発情していると認識したのも初めてだった。これまで発情しても気づかないことが多く、とくに香りに気づくことはほとんどなかった。そのせいで「やはり僕は不完全なΩなのだな」と何度思ったことだろう。
ところがいまは違う。自分にもちゃんと香りを出すことができたのだと誇らしくなった。
(僕はΩになったんだ)
もしかするとシュクラに求められたからΩになれたのかもしれない。「これが運命の番というものなんだろうか」と思った途端にうなじが燃えるように熱くなった。
この香りを嗅げば間違いなくシュクラは牙を生やすだろう。今度こそαの牙でうなじを噛んでもらわなくては。キーシュの昂ぶりに呼応するかのように甘い香りが部屋中に広がっていく。
「シュクラ」
肘の内側にキスをくり返すシュクラに声をかけた。自分でも驚くほど甘い声にキーシュが小さく笑う。
「ねぇシュクラ。僕を噛んで。もう一度噛んでほしい」
「キーシュさん」
「思い切りうなじを噛んでほしいんだ。そして僕をきみだけのものにしてほしい」
そして、きみも僕だけのものになって。誘うような声にシュクラが息を呑む。
「キーシュさん……っ」
荒々しく立ち上がったシュクラが、乱暴な動きでキーシュに覆い被さった。それに満足しながら、キーシュが身を捩るようにうつ伏せになる。
襟足が少し延びた金髪の隙間から真っ白なうなじが見えている。わずかにでこぼこした噛み痕はあるものの、Ωのうなじに残る噛み痕としては不完全なものだ。何よりもαに噛まれた証である牙の痕がない。
シュクラは黒目を細め、ぺろりと唇を舐めた。鼻先を近づけると濃厚な甘い香りが鼻孔どころか頭までいっぱいに広がる。まるでご馳走を前にした獣のようにクンと匂いを嗅いだシュクラは、たまらないと言わんばかりにペロリと肌を舐めた。
「ぁん……っ」
キーシュの口から悩ましい声が漏れた。途端に香りがますます強くなっていく。
キーシュはかつてないほど興奮していた。体中が熱くてたまらない。息をするのさえ苦しくて胸が潰れそうだ。鼓動は早鐘を打つように忙しくなり、こめかみとうなじがドクドクと脈打つような音を立てる。
「早く、噛んで」
気がつけばそうねだっていた。みずから顎を少し引き、うなじがしっかり見えるようにする。さぁ噛むんだ、ここにαの牙を突き立てるんだ、そう促すようにもう一度「噛んで」と口にした。
「キーシュさん」
シュクラが薄い噛み痕に口づけた。それだけでキーシュの体がビクンと跳ねる。それを抑えつけるようにのし掛かったシュクラが口をくわっと開いた。
口の端に尖ったものが光っている。普段は見ることがないαの牙がキーシュのうなじに触れ、柔い肌をゆっくりと突き破った。
「あぅっ」
痛みは一瞬だった。鋭い何かに突き刺されたような痛みはすぐに痺れになり、あっという間に快感へと変わっていく。痛みに息が詰まったのも一瞬で、気がつけばキーシュの口からは「ぁ、ぁ、」と鳴き声のような細く甘い声が漏れていた。
(気持ち、いい)
それは目が回るような気持ちよさだった。初めて噛まれたときには感じなかった体の奥深くがジクジクと熱くなる。
「んぁぁ!」
ズブズブと肌を食い破る感触にキーシュは声を上げ歓喜した。自分を押さえつける牙の強さに全身が震え出す。「こうしてほしかった」という悦びに比例するかのようにキーシュの香りがますます強くなり、これでもかというほどシュクラを包み込んだ。
(あ、あ、すごい、気持ちいい! どこもかしこも気持ちよくて、気が変に、なってしまう!)
キーシュの目から悦びの涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。まるで絶頂に至るかのような感覚に、体が何度もビクンビクンと跳ねた。それを押さえつけるようにしながら、シュクラの牙がこれでもかとうなじに突き刺さる。
「……っ、はぁ、は、はぁ、キーシュさん、大丈夫、ですか?」
唇を離したシュクラが息を乱しながらキーシュの頬に触れた。キーシュのほうは興奮しすぎたのか全身から力が抜け、ベッドにくたりと横たわっている。
「すみません、加減ができませんでした」
「……ぃぃ、んだ」
想像以上の歓喜と快感だった。まるで酒精に飲み込まれたかのように頭がフワフワする。キーシュは自分の体がシュクラによって作り替えられたことを本能で感じ取っていた。それが嬉しくてたまらない。
同時にシュクラを自分の香りで覆い尽くせたことに満足していた。発情時の濃密なΩの香りは時間が経っても消えることはない。どんなに美しいΩがシュクラに色目を使ったとしても、自分の香りがあれば誰も近づくことはできないはずだ。
(それに、いつもこの香りを嗅いでいればシュクラが僕以外の香りを好ましく思うことはなくなる)
なぜかそう確信した。香りを好ましく思わなければ、ほかのΩを新たな番にすることはない。
(シュクラは僕だけのαだ。そして僕だけを求めるαになった)
不意に大輪宮で正妃が口にしたことを思い出した。
――Ωはαをかしずかせ愛を乞わせるものよ。
それがどういうことかようやく理解できた気がする。
(これから死ぬまで、いや死んでもシュクラが愛を乞うのは自分だけだ)
キーシュの背中をゾクゾクとしたものが這い上がった。もっと自分に縛り付けるために早く交わらなくてはと体の奥が熱くなる。
「ふふ、ふはは、やっとだ。やっと、きみは僕のαになった」
「キーシュさんも俺だけのΩですよ」
「うん。僕たちは互いに唯一になったんだ」
ゆっくりと仰向けになったキーシュが両手を伸ばす。そうして愛しいシュクラの首に腕を絡め、そのままどちらともなくキスをした。かすかに感じる鉄臭い匂いも、いまのキーシュには極上の美酒のように甘く感じられる。
「もう、絶対に離れようなんて思ったりしない」
キーシュの囁きにふわりと微笑んだシュクラは、仕立てた夜着の腰紐を丁寧に解いた。
その後キーシュとシュクラは丸二日間、飲食も睡眠も忘れたかのように肌を合わせた。生まれて初めての濃密な発情にキーシュは心身とも溺れ、シュクラもまたキーシュの香りに溺れ続けた。
こうして花開いたキーシュは、まさに大輪のように咲き誇ることになった。
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