第2話 熟した蕾の花嫁2

 朝一番にやって来た官吏の言葉に、キーシュは一瞬目の前が真っ暗になった気がした。思わず「いま、なんと?」と聞き返すと、表情一つ変えない官吏が再び同じことを口にする。


「あなたを迎えたいというαからの申し出がありました。すでに皇帝陛下の許可は下りていますので、事務手続きが滞りなく終われば半月後には蕾宮を出ることになります。そのお心構えでいるように」

「そう、ですか」


 必要なことだけ伝えた官吏が部屋を出て行った。Ω宮を管轄する官吏は感情を持たない人ばかりだと話していた侍女たちの言葉を思い出し、「なるほどな」と納得しながら官吏の背中を見送る。


「まさか、この年になって下賜されることになるなんてなぁ」


 思わず出てしまった言葉に、キーシュの口から小さなため息が漏れる。


(こんな年嵩の増したΩをほしがるなんて物好きなαだな)


 地位が高い人には変わり者が多いというのは祖国で聞いた言葉だが、帝国でも同じなんだろうか。相手が誰かはわからないものの、蕾宮のΩが下賜されるのは帝室や上位貴族、それに連なるような高級官吏のαだけだから、きっとそういった人物の誰かが申し出たのだろう。


(僕みたいなΩをほしがるなんて、どういったαなんだろう)


 不意にシュクラの笑顔が脳裏をよぎった。シュクラも少し変わったαだ。二十二歳にしては落ち着いていて、Ωである自分を前にしても穏やかで笑顔が絶えない。そういう人物だから、そばにいるのが心地よかった。αの近くで落ち着くΩもどうかと思うが、キーシュはシュクラがまとう雰囲気が好きだった。


(それももう感じることができなくなるのか)


 このまま蕾宮にいてもΩとしての未来はない。いままでどおり力仕事などするのもいいが、年を取れば周囲に厄介をかけることになるだろう。


(それよりはどこぞのαに娶ってもらったほうがいい)


 キーシュもそれはわかっている。それでも素直に喜べないのはシュクラの顔がちらつくからだ。


(もしかして……なんて夢見たこともあったけど)


 会うたびに「真面目なキーシュさんが好きなんです」という言葉に胸を踊らせた。「もしかして」と淡い期待を抱いたこともある。けれど、シュクラにとって「好きです」というのは挨拶のようなものだったに違いない。


(三十にもなって、そんなことにすら気づけないなんて情けない)


 これではまるで何も知らないおぼこのようじゃないかと笑いたくなった。いや、満足に発情したことがない自分は未熟なΩそのものだ。そのこともキーシュは内心気にしていた。

 キーシュは何事にも生真面目な性格だった。騎士見習いのときは騎士道を真面目に学び、剣術にも精を出した。帝国に来てからは「皇帝がお渡りのときは気分を害されないようにしなくては」と一番に言葉を学び、祖国とは違う作法や文化を学ぶことも忘れなかった。

 同時にΩとしてのあれこれを学んだものの、学べば学ぶほど自分が普通のΩと違うことが気になった。発情が薄く香りがしないのも気になる。そうこうしているうちに一年、二年と経ち、気がつけば新しくやって来るΩたちの教育係のような存在になっていた。


(若い子たちに教えているわたしが一番未熟なんてなぁ)


 それでもいいじゃないか。そう言い聞かせてきたが、自分の存在意義が見いだせない日々はキーシュにとって穏やかとは言いがたい時間だった。

 それも間もなく終わる。αに求められるのはΩとしてよいことだし、皇帝に献上されたΩとしての新たな役目を果たすこともできる。シュクラを思い出すと胸が痛むものの、きっとすぐによい思い出になるだろう。


(あの子は大丈夫だろうか)


 ふと、先日蕾宮にやって来たΩのことを思い出した。

 名をルルアーナと言う青年は、南の国特有の濃い肌色に鮮やかな金色の髪をしたΩだった。南では濃い髪色がほとんどだと聞いていたが、どうやら西の国の血が混じっているらしい。そのせいで祖国ではあまり恵まれていなかったようで、帝国に高値で売りつけられたのだと聞いた。


(自分で売り込むのと親に売られるのとではわけが違う)


 自分も高値で売られた身ではあるが、自ら望んでそうなった。ほかのΩたちも大半は国のために、家のためにと送り出される。ルルアーナはそうしたΩたちとも違うということだ。

 怯えたようなルルアーナの眼差しがキーシュの脳裏に浮かぶ。教育係としてしばらく一緒に過ごしたものの、ここに馴染んだようには見えない。ようやく少しずつ笑顔を見せるようになり、紫がかった瞳が柔らかくなる様子にホッとしたところだった。


(もう少し見守ってやりたかった)


 ほかの人には心を開かないルルアーナが自分にだけ笑顔を見せてくれるのは、きっと同じ金髪だからだろう。もうしばらく一緒にいればΩ宮にも慣れるだろうと思っていたが、そうもいかなくなった。

 キーシュはそのことが心残りだった。しかしΩ宮を離れる身でできることは、もう何もない。


(……仕方ない)


 自分はΩでαに捧げられる存在だ。相手が皇帝でなくなっただけで、娶ってくれたαに尽くすことがこれからの役目になる。


「せめて娶ってくれるのがシュクラであったなら」


 思わず口走った言葉に苦い笑みが浮かんだ。抱いている想いに蓋をするように頭を振ったキーシュは、いつもと変わらない日々を過ごすことを心がけた。


 それから半月を待たずして、キーシュが蕾宮を出ることが正式に決まった。蕾宮に住むΩたちは残念がり涙する者もいたが、誰もがキーシュの幸せを願った。ルルアーナのことは最後まで気になったものの、キーシュが気にしたところでどうなることでもない。


(会うのは今日で最後か)


 最後に何かできることはないだろうか。そう考えたキーシュは温室の花を持っていくことにした。赤い花が好きだとつぶやいていたことを思い出し、とくに綺麗で大ぶりなものを摘んでいこうと考える。


(ついでに身の回りのものを処分してしまうかな)


 もともと祖国から持って来たものは少ない。下賜される先に持って行ってよいのかもしれないが、すべてを吹っ切るためにも処分しよう。そう決意したキーシュは、帝国に来るときに着ていた服と絵を手に焼却炉へと向かった。その足で温室に向かい、ルルアーナの部屋に寄ってからほかのΩたちの様子も見ておこう。


「あれ? その絵、捨てるんですか?」


 焼却炉の手前で声をかけられドキッとした。振り向くといつもの笑顔を浮かべたシュクラが立っている。


「シュクラ」


 久しぶりに見るシュクラの顔に胸がざわついた。蕾宮から出ると決まってからは初の対面で、二度と会うことはないと思っていたからか鼓動が段々と早くなる。


「それ、祖国から持って来たものですよね?」

「そうだけど……」


 シュクラが見ているのは皿ほどの大きさの風景画だった。生まれ育った屋敷を描いたもので、これだけが故郷を思い出させてくれる思い出の品だ。

 しかし、キーシュにはもう必要ない。この絵を処分し、これまでの自分ときっぱり決別しようと思っていた。


「捨てるなんてもったいない」

「いいんだ。僕が故郷に戻ることはないし、いつまでも未練がましく持っていても仕方がない」

「それじゃあ、俺にください」

「え?」

「ちょうど西の絵がほしいなと思っていたんですよね」

「あぁ、そういうことなら」


 捨てるよりも誰かに愛でられるほうがこの絵も嬉しいだろう。そう思って差し出すと、シュクラが「いい絵ですね」と微笑んだ。


「キーシュさんにもらった絵だと思うと、なおさらいい絵に見えます」


 優しい眼差しを向けられ鼓動が跳ねた。同時にツキンとした痛みが走る。


(シュクラと会うのは、これが最後なんだ)


 ちらっと周囲に視線を巡らせた。建物から離れた場所だからか、キーシュとシュクラ以外は人影も気配もない。

 掃除担当の者がごみを捨てに来るのは朝だ。昼間のいまはほとんどの人が食事中で、それなら静かに故郷との別れができるだろうと思ってこの時間を選んだ。「それが幸いしたな」と思いながらそっと拳を握る。


(もう二度とシュクラに会うことはできない。これが正真正銘の最後だ)


 そう思ったら、わき上がる衝動を抑えられなかった。

 絵を見て微笑んでいるシュクラの腕を掴み、物陰に引っ張った。驚いているのか、シュクラは抵抗することなくされるがままだ。そうして建物の影に入り込んだキーシュは、勢いのままシュクラの唇に自分のそれを押しつけた。


「キ、」


 驚いたようなシュクラの声を塞ぐように、なおも唇を塞ぐ。自分は間もなくαに嫁ぐ身で、ほかのαに口づけるなどあってはならない。そもそも皇帝に捧げられたΩが皇帝以外に肌を許すのはもってのほかだ。


(それでも、これが最後だから)


 αに対して、男に対して口づけたいと思ったのは生まれて初めてだった。


(……そうか、僕はとっくにΩになっていたんだな)


 本当はΩになった自分が嫌で仕方なかった。自分のせいで家は潰れ、家族のために身を売るような真似までしなくてはいけなくなった。貴族として、男としての自尊心はあのとき木っ端微塵に砕け散った。

 そんな自分を再び取り戻すため進んであれこれ仕事をした。蕾宮にやって来た新しいΩの世話をしていたのも本音を言えば自分のためだ。そうすることでΩになった自分にも生きる価値があるのだと思い込もうとした。皇帝に求められることがなく、唯一残されたΩとしての自分にも価値があるのだと思いたくて勝手に役目を作っていた。

 そんな愚かな自分にシュクラは「好きだ」と言ってくれた。東の国のΩよりも大きな体をしているのに、それを嘲り憐れむような眼差しを向けることもなかった。


(僕だって本当は好きだと言いたかった)


 しかし、口にするには気持ちが強くなりすぎていた。優しいから好き、真面目だから好き、そんなありきたりな“好き”とは違う想いをシュクラに抱いている。だからこそ隠し通さなくてはいけないと思ってきた。


(でも、もう二度と会えなくなるなら……)


 想いを口にすれば心が揺れてしまう。それでは娶ってくれるαに申し訳ない。わかっていても胸が苦しくて、最後の思い出に唇を奪った。ここでシュクラに会わなければこんな行動には出なかっただろう。


(……なんて、これはただの言い訳だ)


 唇を離し、まだ鼻先が触れるほどの距離でキーシュが口を開く。


「本当は、ずっとこうしたいと思っていたんだ」


 そうして囁くような声で「ごめん」と言い、逃げるようにその場を後にした。

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