花開かぬオメガの花嫁

第1話 熟した蕾の花嫁１

　大陸の東側を支配する帝国には、世界一美しい“Ω宮”と呼ばれる建物がある。大陸のあちこちから献上されたΩが住むこの場所は三つの区域にわかれていた。

　一つは、皇帝のお渡りがないΩたちが住む“蕾宮”。まだ発情を迎えていない若年のΩや、皇帝のお渡りを受けていない手つかずのΩたちが住んでいる。

　一つは、一度でも皇帝のお渡りを受けたΩたちが住む“開花宮”。形としては妃の地位にあるΩが住まう場所だったが、そのまま皇帝のお渡りがなくなるΩも住んでいた。

　そして最後の一つが“大輪宮”だ。皇帝のお渡りを受けたのち、とくによい香りを放つΩのみが住むことを許されている場所で、別名“寵妃の宮”とも呼ばれている。

　広々としたΩ宮には帝国中から集められた黒髪黒目のΩが多く住んでいた。そんななか、蕾宮には金髪緑眼のΩが住んでいた。どこにいても一際目立つその男性Ωは、今年三十を迎えた蕾宮で最年長となるΩだった。元は異国で剣を振るっていたからか、ほかのΩに比べると体格もよく男らしい雰囲気を残している。

「キーシュ様、これはどちらに運べばいいの？」

「あぁ、壺は重いから僕が運ぶよ。きみはあちらの掛け軸を運んでくれるかな」

「はぁい」

　明るい返事にキーシュの緑眼が優しく微笑む。華奢な腕で掛け軸を抱えているのはひと月ほど前に蕾宮にやって来たΩだ。帝国の北の端に住む北方民族の娘で、帝国への恭順を示すために差し出された献上品でもある。

（あのように若い娘がなぁ）

　ため息をついたキーシュは、娘が運ぼうとしていた壺を抱えて蕾宮の空き部屋へと歩き出した。

　本来こうしたことは侍女たちが行う。しかし手持ち無沙汰が性に合わないキーシュは率先して荷物運びなどの仕事をこなしていた。そんなキーシュに侍女たちは親しみを覚え、同じように若年のΩたちも面倒見がよいキーシュを慕っている。

「掛け軸はそこに置いておいていいよ。さぁ、荷物運びはこれで終わりだ。きみは奥でお菓子でももらってきなさい」

「はぁい」

　先ほどより明るい返事にキーシュの顔がほころんだ。少女にいつ皇帝のお渡りがあるかはわからないが、それまでは蕾宮で健やかに過ごしてほしい。そうした環境を整えるのも最年長となった自分の役目だとキーシュは考えていた。

（新しいΩはどんな子だろうな）

　間もなく蕾宮に新しいΩがやって来る。今度は南の島国からの献上品だと聞いた。年は二十の手前で、すでに発情を迎えているらしい。

（ということは、早くにお渡りがあるかもしれないのか）

　掛け軸を運んだ少女よりも先に開花宮へ行くことになるかもしれない。自分はまた見送る側になるのだろうと思うと多少複雑な気持ちになる。

（いまさらお渡りを望んだりはしないが）

　正直に言えばΩとしてどう相手をすればいいのか不安だった。Ωになるのが遅かったということもあるが、祖国では騎士見習いとして過ごしていたためΩらしい行儀作法もよくわからない。だからお渡りがないことに内心ホッとしつつ、ではなぜここにいるのだろうかと思うと足元が覚束なくなるような気がした。

　だからこそキーシュは自らせっせと蕾宮での仕事をこなした。こうして新しくやって来るΩのために心安らかに過ごせる部屋を整えてやるのも自分の役目だと思っている。そうすることで、ここでの自分の価値を見出そうとしているのかもしれない。

（掛け軸に壺に、そうだ、花も生けておこう）

　たしか南方の花が温室で咲き始めたはずだ。それを飾れば少しは癒やされるのではないだろうか。そう考えたキーシュは蕾宮の東側にある温室へと向かった。

　思ったとおり、温室の中では色鮮やかな花々が咲き誇っていた。その中でもとくに香りがよいものを選び、咲き始めたばかりの花と蕾のものを選んで摘み取っていく。一輪が大きいからか十数本選んだところで両手に抱えるほどの花束になった。

（これで十分かな）

　花束を抱えながら温室を出たところで「温室から花の女神が出てきたのかと思いましたよ」という声が聞こえてきた。すっかり聴き馴染んだ声にキーシュが小さなため息をつく。

「どうしてきみはこうも頻繁にΩ宮にやって来るのかな」

　花束の隙間から正面を除くと、予想どおり黒目黒髪の年若い男が立っていた。

「いやだな、ちゃんと許可証はもらってますって。ほら」

　そう言って男が差し出した紙には、Ω宮を管理する高級官吏の印が間違いなく押されている。

「それはきみが高級官吏の息子だからだろう？　いくら親の地位が高くてもきみはαだ。こうも頻繁にΩ宮に来ていては、いずれ皇帝陛下に咎められてしまうよ」

「それで罰を受けるのはきみだ」とたしなめるキーシュに、男が黒目を細めながら微笑み返す。

「大丈夫ですよ、俺はそんなヘマはしませんから。それにΩ宮全体が後宮ってわけじゃありませんからね。ぶっちゃけてしまうなら、大輪宮にさえ行かなければ陛下からお咎めを受けることはありません」

「それはそうかもしれないけど……」

　公ではα禁制、男子禁制と言われているΩ宮だが、実際に皇帝の後宮と呼ばれているのは大輪宮の区域だけだ。そしてそのことは多くのαだけでなくΩ宮に住むΩたちも知っている。

「蕾宮は高貴なαが伴侶となるΩを見つける場所」と揶揄されることもあるくらいで、許可証さえ手に入れれば皇帝以外のαが出入りすることができる。さすがに開花宮はそこまで緩くはないが、皇帝からの下賜という形で有力貴族や帝室のαに引き取られるΩもいた。だからといって勝手気ままにαが蕾宮に入り浸ってよいわけではない。

「蕾宮のΩを娶りたいのなら、手順に従ってもらわないと困る」

「あはは、キーシュさんったら蕾宮の監督官吏みたいなこと言っちゃって」

「僕はただ、」

「わかってますよ。キーシュさんは真面目な人ですからね。そういうキーシュさんも俺は好きですけど」

「好き」という言葉にキーシュの肩がわずかに反応した。もし花を抱えていなければ動揺した顔を見られたかもしれない。慌てて花束で顔を隠しながら唇をキュッと引き締める。

「そういう冗談はよくない」

「冗談じゃないんだけどなぁ」

「それなら、なおのことよくない。それに僕は三十という年齢だ。皇帝のお渡りも望めない薹（とう）が立ったΩだ。そんな僕に、まだ二十二歳の若いきみがこうも頻繁に会いに来ていてはよくない噂が立つ。そのせいでよい縁談が来なくなる可能性もある」

　そう言いながら、キーシュは自分の現状にため息をつきたくなっていた。

　キーシュがΩ宮に来たのは十七のときだ。祖国は帝国よりずっと西にある国で、その地に古くから住む没落貴族の最後の跡取りとして生を受けた。何とか家を盛り上げようと騎士見習いになり、ゆくゆくは領主の跡取りに仕えようと考えていた。

　ところが十七歳を前にΩだと判明し、家を継ぐことができなくなった。祖国ではΩを跡取りとして認めていなかったからだ。

　キーシュは家がなくなったあとの家族の生活を考え、東の帝国に身売りすることを決めた。金髪のΩは東での価値が高く、しかも没落したとはいえ貴族の身でもある。皇帝への献上品としての価値があるに違いないと考えてのことだった。

　止める家族を説得し、東の帝国に明るい商人を探した。そうして東の貴族に伝手を持つ商人を見つけ、自ら献上品として売り込んだ。五人会った商人の中でもっとも高い値段を提示した商人に身を委ねることにした。

　そうしてひと月ほどかけて帝国にやって来たキーシュは下級貴族に引き渡され、十七歳を迎えた直後に蕾宮へと入ることになった。

（最初の頃は、いつお渡りがあるのか戦々恐々としていたっけ）

　この宮に来た当時のことを思い出すと懐かしくなる。あの頃は自分がΩだということが信じられず、それでも自ら献上品になったのだからと必死だった。ところがキーシュが蕾宮に来てから皇帝のお渡りを告げられたことはなく、半年経っても一年経ってもお渡りがない。

　――おそらく自分に皇帝のお渡りはない。

　そう悟ったのは十八になったときだった。たしかに金髪は珍しいが、もともと西の人間は東の人間に比べて大きく育つ。遅くにΩだと判明したキーシュは同年代のΩに比べ体が大きいから皇帝のお気に召さなかったのだろう。

　今年で帝国に来てから十三年が経つ。その間キーシュのもとに皇帝がやって来ることは一度もなかった。ほかのαに求められることもなく、こうして蕾宮の最年長として新米Ωたちの世話を焼く日々を過ごしている。

「俺のことまで心配してくれるんですか？」

　男の声にハッとした。新しいΩが来ると聞いたからか、それとも三十になったからか、最近物思いに耽ることが多くなった。そう反省するキーシュに「キーシュさんは優しいなぁ」という声が続く。

「そういうことじゃないだろう、シュクラ」

　呆れるキーシュに、シュクラと呼ばれた男が「そういうことですよ」と笑った。

「俺みたいな不真面目なαの心配までしてくれるなんて、キーシュさんくらいです。そんなキーシュさんも好きですよ」

　今度は胸の奥がズキッとした。こんなふうに自分に好意を寄せてくれるαもいるのだと思うと、わずかに体が熱くなる。軽い発情しか経験したことがないキーシュも、このときばかりは自分もΩなのだと実感させられた。

（シュクラはいいαなのだろう。だからこそ彼のためにならないことはやめさせなくては）

　こんな行き遅れのΩに関わっていてはよくない噂が流れる。いくら高級官吏の息子だとしても、噂で身を滅ぼすこともあるはずだ。

「あまりΩ宮に来ないほうがいい。これはきみのためでもあるし、蕾宮の最年長としてもきちんと言わせてもらうよ」

　少し厳しいことを口にしたキーシュに黒目が小さく笑う。

「花、持ちますね」

「あ、」

　顔を隠すのに使っていた花束をすべて奪われてしまった。行き場をなくした手を一度グッと握り締め、隣に立つ男を横目でちらりと見る。キーシュはΩにしては大きいほうだが、やはりαよりは小柄だ。頭半分大きい体にほんの少し胸がざわついた。

「これ、新しく来るΩのための花でしょう？　やっぱりキーシュさんは優しい。俺、そういうところも好きだなぁっていつも思ってます」

「だから、そういうことを言わないように」

　注意しながらもキーシュの顔がポッと赤くなる。それを隠すように少し顔を背けながら「僕もだよ」と言えたらどんなにいいだろうと思った。せめて「わたしだって好きだよ」と気軽に言えたなら。そう思ったものの、隠さなくてはいけない想いが籠もりそうで口にすることができない。

（友人に向けるには不自然な熱が籠もりそうだ）

　もう一度ちらりと緑眼を向けると、タイミングを見計らったかのように黒目もキーシュを見ていた。たったそれだけのことなのにますます顔が熱くなる。

　頻繁に蕾宮にやって来るようになった高級官吏の子息シュクラとは、気がつけば友人のような間柄になっていた。八歳も年下のαを友人と思うのはどうかと考えたのは最初だけで、こうして顔を合わせて言葉を交わすのが密かな楽しみになった。

（最初は本当にいい友人だと思っていたのに）

　気がつけば友人以上の感情を抱くようになっていた。しかしキーシュは蕾宮の住人だ。たとえ皇帝のお渡りがなくても皇帝に捧げられたΩであることに変わりはない。正式な手順を踏めばΩ宮から出ることができるものの、そう簡単でないこともわかっている。抱いてしまったこの気持ちは、シュクラの未来のためにも隠し通さなくてはならない。

　キーシュは花を抱えて歩き出した若いαの背中を見ながら、再び小さなため息をついた。