人間の商品

大沢敦彦

耳袋

 百貨店の三階の、トイレの傍にあるベンチに腰かけながら、山本はぼーっとしていた。

 生きる気力も、何かをしようとする精気もなく、抜け殻のように座っている。

 彼は元々サラリーマンだった。それが折からの不況と、自身の心身の病気とでダメになった。仕事を辞めざるを得なくなった。生きるのをやめようと考えたこともあったが、踏ん切りがつかず、今に至っている。


 平日の昼時である。世の中はクリスマスシーズンで、百貨店のフロアもそのように彩られてあった。音楽もそうだ。すべてがそこを訪れる者たちを高揚させるように仕組まれていた。本来なら、山本のような人間が訪れるような場所ではない。


 彼がそこにいる理由は、彼のぽっかり空いた心の隙間を埋めてくれる要素が、その場所にあったからだ。


 昔――山本がまだ幼い子ども時代、百貨店のこの場所で両親と買い物をした。玩具売り場が傍にあって、学校で良い点を取った時など、特別な日に好きな玩具を一つ買ってもらった。今でも当時の嬉しかった気持ちを思い起こすことができる。


 この場所は、人生の抜け殻のような存在の山本にとって、大切な場所だったのだ。


(そろそろ、家に帰ろうか……)


 トイレに寄って、帰宅しようかとベンチから腰を上げた時である。

 山本はふと、玩具売り場に併設する形で、奇妙な雰囲気の屋台が開かれていることに気がついた。

 なぜ、今まで気がつかなかったのかわからない。

 山本が傍を通りしなにちらっと見てみると、いかにも怪しげなフードを被った老人が、折り畳み式の簡易椅子に腰かけていた。

 山本と目が合うなり、老人はニッと黄色い歯を剥いて笑いかけた。


「耳袋、いらんかね」

「ん?」

 老人が、台の上に汚らしいずた袋を乗せた。

「耳袋、あんたほしくないかい。今なら安いよ。クリスマスセールだよ」

 怪しげな老人と、汚いずた袋と、クリスマスセールという陽気な言葉は釣り合わない。

「何ですか、耳袋って」

「あんた、耳袋をご存じない。それは人生損してるよ」

 老人は笑って説明した。

「この袋の中にはね、この世の中のいろんな人たちの耳が入っているんですよ。で、ちょっとした技を使いましてね、巻き貝のようにご自身の耳に当ててやりますと、波の音の代わりに人の声が聞こえてくるわけです」

「何だそりゃ。わけがわからん」

「物は試し。一つ、お耳に当ててごらんなさい」

 老人はそういうと、ずた袋の中に手を入れ、人間の耳を一つ、取り出した。

「ふうん。実に精巧な作りだね」

「いえいえ、本物でございますよ。触ってごらんなさい」


 老人から耳を受け取った山本は、ぞっとなった。今の今まで全然信じていなかったのに、いざ手のひらにのせてみると、その軽さ、柔らかさ、温かさが肌を通して伝わってきたのだ。

「子どもの頃、海にいった時、巻き貝を拾って耳に当てませんでしたか。あの要領でおやりなさい。きっと面白い話が聞けますよ」

 老人に促され、山本はその耳を耳に当ててみた。


 ――ああもう、やってらんないわ、こんな仕事。早いとこ辞めたい


 女の声が聞こえてくる。


 ――今年もどうせクリぼっちだし。あーあ。世の中のカップル全員死ねばいいのに


 山本が顔を向けると、老人はニヤニヤ笑っている。


 ――どっかにいい男、転がってないかな~


「いかがでございましたか。人の声を聞けましたでしょう」

 山本は老人に耳を返す前に、あらためて調べてみたが、機械ではなく、本物の耳にしか見えなかった。

「いったい今のは何だったんだ。女の嘆く声が聞こえてきたが」

「これはこの百貨店に勤める、三十代の女性店員の耳でございますよ」

 老人は耳を持ってそういい、ずた袋の中に戻していた。

「はい。このように世の中のあらゆる人間の耳を、ざっと三十三枚ほど取り揃えてございます」

「その袋の中にか」

「ええ。お値段は、いつもなら三万三千円のところを、本日はクリスマスセール超特価、三千三百円でご奉仕させていただきます」

 山本は、「安い」と思った。

 だが、今の山本にとって三千三百円は大きい。耳袋は非常に面白く、値段以上の価値がありそうだが、その一方、使い道について未だ山本は確信が持てずにいる。

「ぶ、分割払いは、利くかな」

「三千三百円のですか。無理です」

「リースはどうだ。一か月いくらみたいなのは」

「しておりません。三千三百円、現金で、耳を揃えて払っていただきます」

「そうか……」


 山本は泣く泣く三千三百円を支払った。財布の中には、もうわずかしか現金が残っていない。

「毎度どうも。あ、お客様」

 耳袋を提げて立ち去ろうとする山本を、老人は呼び止めた。

「本日は出血大サービスでございますよ。はいどうぞ」

「何だこれは」

「イヤリングでございますよ。上下に二か所、挟む部分があるでしょう。上の方にご自身の耳を、下の方に任意の耳を、それぞれ挟んでお使いください」

「耳を耳にぶら下げるっていうのか? 悪趣味だぜ」


 山本はトイレに入って個室に籠もると、用を足し、さっそく耳袋の中から一枚、適当に選んで耳を取り出した。

(う~ん……こいつはひょっとすると、男の耳かもしれないなあ)

 大きな耳で、全体的に赤く腫れているような感じだった。

(まあいいや。とりあえず聞いてみよう)

 山本は、そっと耳に耳を当てた。


 ――ううう、寒いなあ……こんなに風が強いとか聞いてねえよ


 なるほど、どうやらこの耳の主は今、外にいるようだ。だから寒くて真っ赤に腫れていたのだ。


 ――ああ、腹減ったなあ。飯喰いてえなあ。牛丼喰いてえなあ、あったかいやつ


 ぎゅるるると、山本の腹が鳴った。ちょうど山本もお腹が空いていて、その耳の主と同じ気持ちだった。


 ――おっ、ちょうどいいところに吉野家があるな。ああでも、金がないや。どうしよう


 どうしようも何も、諦めるしかないのではと山本は思った。かくいう彼も、金のないことにかけて、人のことはいえなかったが。


 ――そうだ。食い逃げしよう


「ええっ」

 山本は一人で驚いていた。そんな、「京都いこう」みたいなノリで無銭飲食されたら吉野家も困るだろう。いや誰だって困る。


(そういえばこの近くに吉野家ってあったな)

 山本は急いで個室を出ると、トイレから駆け出した。

 ふと見ると、さっきまであった屋台も、老人の姿も見えない。まるで初めからそこには何もなかったかのように、ぽっかりと空間ができあがっている。

(そんなはずはない。現にこうして、耳袋を買ったんだから)

 山本は、絶対に使うことはないと思っていたイヤリングをポケットから取り出し、自分の耳と男の耳とを、それぞれ挟んで繋げてぶら下げた。

(絶対変に見られるだろうなあ。でも、こうしたらいちいち持たなくて済む)


 ――えっと、牛丼特盛を一つ


 耳の主が吉野家に入り、注文している声が聞こえてくる。

(特盛かあ、いいなあ……いやそうじゃなくて)

 山本は百貨店を出ると、寒風吹きすさぶ外を走り、吉野家の看板を目指す。


 ――いただきます。はあっ、うんめっ……はあヤバ、あっつあつ


 また山本の腹が鳴った。何で自分はこんなことをしているんだろうと、山本は走りながら馬鹿らしく感じていた。


 ――ふう、ごちそうさまでした


 どうやら食べ終わったらしい。山本は焦った。


 ――さてさて。隙を見てずらかるとするか


 山本は吉野家の看板を見つけると、中に飛び込んだ。

「お客さん。無銭飲食はダメですよ」

 そういって、見覚えのあるイヤリングをした店員が男を一人、店内で取り押さえていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人間の商品 大沢敦彦 @RESETSAN

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ