第2話

 東国の勝利で終結をみた、第一次東西戦争の終結からニ年が過ぎた。

 西国から賠償金と一部領土を得た東国であったが、戦争の爪痕は甚大なものであり、人口の一割近くを失い、美しかった街並みは瓦礫の山とかした。

 街には、職を失った浮浪者や、親を失った子供たちがスラムを形成し、加えて西国から送り込まれてくるスパイ達が国内の情勢を掻き乱し、復興は一向に進まず、国による国民の取り締まりだけが強くなっていった。


 皆が生きるのに、必死な時代。

 一人で生き抜く力を持たない子供、特に戦争孤児の扱いは酷いものだった。


「うっ......うっ......」


 建物も人も何もかもがボロボロの孤児院から、少女のすすり泣く声がする。


「うるさいんだよ!!!アンナ!!!

 黙らないと、もう一発引っ叩くよ!!!」


 職員の女が、掃除をサボった罰と称して、八歳の少女の頬をぶった。


「ごめんなさい......ごめんなさい.....ごめんなさい」


 怯えた様子で平謝りするアンナを女は嘲笑う。


「あんたみたいなガキが、メシ食えるのは誰のおかげか

 言ってみな!」


 女は立ち上がり、アンナに詰め寄る。


「ひっ......ごめんなさい......ごめんなさい」


 アンナは 頭の前に手を持ってきて身構える。

 日常的にぶたれることで身についた条件反射。

 その姿にイラついた女は  


『バッチッン!!!』


 破裂音を響かせた。


「ごめんなさい.....ごめんなさい.....ごめんなさい......」


 アンナはただただ謝って、女が満足するまで、待つしかない。


「誰のお陰が言えって言ってんだよ!!!」


 女が大きく振りかぶって、振り下ろそうとした瞬間


『ビービッビーービッビビビーーー』


 壊れかけの呼び鈴が鳴って、女の手を止めた。


「ちっ......

 私は客の相手してくるから、窓磨いてな

 もしサボってたら、分かってるわよね」


 そう言い残して、部屋を出る女。



「...........」



 取り残されたこの哀れな少女は、かつてお嬢様だった。

 父親は街の名医で、母親は看護師。

 社会貢献に積極的だった父親は、街の皆んなにもてはやされ、娘のアンナも同様だった。


 二年前までは。


 父親は戦死。母親は瓦礫に潰された。


 六歳の少女が受け止めるには、大きすぎる悲しみを背負わされたアンナに追い討ちをかけたのは、"優しかった"皆んなだ。


 一人一人が生きるのに必死な時代。

 利用価値のない他人の子供に手を差し伸べる人はいなかった。


 両親が存命な時は、我が子のようにアンナを可愛がった叔父や叔母は、母親が亡くなったその日にアンナを孤児院に捨てた。


 そして、待っていたのは、虐待の日々。


 誰も助けてくれない。


 皆んな自分さえよければいいんだ......


「わたしも......しんじゃえばよかった」


 物おじせずに、ハキハキと明るい少女だった。

 日に日に陰気に、そして、理不尽で偽善者しかいない世界を憎むようになっていっているのを自覚していた。

 いつか、より弱い者で鬱憤を晴らすようになるのなら......

 アンナは狭く閉ざされた逃げ場のない世界で、毎日のようにそんなことを考えている。


 ピカピカに磨いた窓に映り込む、ボサボサの赤髪に暗い顔をした少女。


 だれなの......これは? 


 アンナは鏡を見るたびに、変わり果てた自分に絶望して、また暗くなっていく。


 逃れようのない負の連鎖。


 繰り返し......!


 磨いた窓に、目付きの悪い知らない男の顔が映り込んだ。


 男は二十代前半で、何も言わずにただアンナを見下ろしている。

 何が気に入らないのか、眉間に皺を寄せていて怒っているように見える。


「うっ......」


 その澱んだ瞳と鏡越しで目が合うとアンナは思わず俯いてしまった。


「この子にします」


 男はそう言って、猫を被ってニコニコ笑う、女の方を振り返った。


「ごめんなさい、その子はちょっと問題があって

 他の子達は遊戯室にいるので、案内しますね

 アンナ知らない人苦手でしょう

 さぁ行っていいのよ、さぁ」


「ひっ......」


 ニコニコ笑う女が、物凄く不機嫌であることを察知してアンナは肩を震わせる。


『来客には、面見せんな

 お前みたいな暗いガキ空気が悪くなるから、分かった!?』


 日頃から言われ続けていた。

 アンナは、慌てて出て行こうとするが、


「どうして、この子だけ掃除してるんですか?」


 男のザラザラの手が、アンナの小さな手を握りしめた。

 男の手が、ワナワナと震えているのをアンナは感じとる。


「皆んなと一緒にいるとしんどく感じる子なんです……

 だから仕方なく......本当は皆んなと遊んで欲しいんですけど」


 女は気に食わない。

 門を開けると、挨拶だけして、案内に従わず、この部屋に乗り込んだ男が。

 何より、逸脱者には見えないこの男が『この子にします』と言ったことが。


 幼児愛好者(ロリコン)の親父ならまだしも、ふざけるな。

 元お嬢様のアンナだけは、不幸でいてもらわないと不公平だ。

 散々チヤホヤされたんだ。

 残りの人生、泥水啜って生きろ。

 私なんて......私なんて.....


「そうですか、掃除ばかりやっていたと

 それは都合がいい、やはり、この子にします」


「いえ、だからですね、アンナは難しい子なんです」


「この子の事情なんて、僕には関係ないので」


「アンナもういいから早く行って(早く行け殺すぞ)」


 アンナは、部屋を出ようとするが、男が手を離さない。


「は.......はなしてください......」


 アンナは必死に振り払おうとする。

 そうしないと、後でどんな目に合わされるか分かっているから。


「どうして、頬が腫れてるんですか?」


 アンナの手を握りしめた男が、女に問いかける。


「......

 ......

 ......

 ......

 ......

 ......

 転んだ、ねぇアンナ」


 そういう類の傷でないことは、医者じゃなくても一目瞭然だ。

 イラついている女は、ふざけた返しをして、アンナに同意を求める。


「は......はい」


 アンナは怯えながら頷く。


 二年間の虐待。


 逃げ場なんてない。助けなんてない。


 監獄の絶対的強者である女に逆らうことなど、不可能だった。


 女の薄汚れた目で一睨みされると体は固まり、怒声を聞くと、肩が震えだす。


 こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわ


「分かりました」


 男はアンナから手を解いた。


 何をすべきか理解したからだ。


 そして、女の方に歩み寄った。


「ご理解ありがとうございます、この子の為なんです」


 女は口角を歪ませ安堵する。


 己の哀れな人生を紛らわす、サンドバッグが奪われなかったことに。


 だが、次の瞬間


『バッチッン!!!』


 破裂音が響いた。


「あっっ.......」


 突然のことで何が起こったのか、分からなかった。


 だが、激しく懐かしい痛みに、徐々に状況を理解させられる。


 そして、理解し切る前に


『バッチッン!!!』


 破裂音が響いた。


 両頬に焼けるような痛みが走る。


「な、何をするんで」


『バッチッン!!!』


 破裂音が響いた。


「な、何を......」


『バッチッン!!!』


 破裂音が響いた。


『バッチッン!!!』


 破裂音が響いた。


『バッチッン!!!』


 破裂音が響いた。


『バッチッン!!!』


 破裂音が響いた。


『バッチッン!!!』


 破裂音が響いた。


「うっうっうあぁ......」


 成人した男の肉体。

 女にとって絶対的強者からの容赦のない、蹂躙。

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いい怖い怖い

 女は蹲って手を頭の上にやって


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい.......」


 と繰り返す。


 女もかつては、実父の虐待に苦しんだ少女だった。

 怒り狂った実父に対して、繰り返した平謝りが体に染み付いている。


 懐かしい恐怖に震える女に、男は


「転ぶなよ」


 と言い捨てた。


 女がなぜ、少女を目の敵にするのか。


 男は分からないし、知ったところで許さない。


 それに、それがどんな理由だろうと、理由さえあれば相対的絶対弱者(こども)に手をあげる輩は、理由さえあれば自分が殴られたって文句はない筈だ。


 男にも理由がある。


 そのことを思えば、こんなもんじゃ、足りないが、男の目的はこんなことじゃない。


 男は、絶対的強者である筈の女が、弱々しく泣く姿を呆然と見つめるアンナに近づき、アンナの目線に合わせるように伏せた。


「ここを出よう」


 アンナは、絶対的強者を蹂躙した男の無骨な声にびくついてしまう。

 囚われ続けた監獄から脱出する為の助け舟。

 二年振りの優しさだったが、人の悪意に慣れてしまったアンナは優しさを信じられない。


 それに、女よりも強い男に、もっと酷い目に合わされるかもしれない。

 そう思うと、足がすくんで、差し伸べられた手を取ることが出来なかった。


 そんな、アンナを見て、男は人生で初めて人の為に笑った。


「僕は君を叩かない

 約束する、一緒に暮らそう」


 そう言って優しくアンナを抱き上げた。

 啜り泣くアンナの背中をさすった。

 守りたい。この子を。

 この子が大きくなって、立派に生きていけるようになるまで。

 守り続けたい。

 男はただそう思った。


「うっ......うっ......うぁぁあんんん......」


 男に抱きしめられたアンナは、涙を流す。

 泣いたら叩かれる。

 だから、堪えようとするが、堪えられなかった。

 泣き続けるアンナだったが、叩かれなかった。

 男は、慣れない手つきで背中をさすり続ける。



「行こうか」



 理不尽で偽善者しかいない世界と思い込んでいたアンナに突如施されたニ年振りの優しさ。


 アンナは、少しだけ受け入れて男の腕の中で小さく頷いた。


 そして、男は最後に分かりきった質問をした。


「僕の名前はトニー•クロース

 君の名前は?」


 アンナは、鼻水を啜って小さく小さく答えた。



「アンナ......アンナ• ベッケンバウアーです」



 人が人を疑い、他人に手を差し伸べる余裕が失われつつある時代。

 東暦千九百二十年十一月三十一日。

 この日、天使達から翼を奪う監獄から、男が天使を救い出した。


 男の名は、トニー•クロース。

 天使の名は、アンナ• ベッケンバウアー。


 トニー•クロースは、アンナ• ベッケンバウアーを使用人にしたのだった。

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