来訪者

(ついてない……。

 天気予報は、ちゃんと確認したのに)


 一刻も早く下山しなければいけない状況で、しかし、洋子は足止めを食らうことになった。

 突然、雨が降り始め、無事な下山を困難なものとしたためである。

 幸い、こんな無名の山にも山小屋はあるため、その中でやり過ごすことにした。


 今日は土曜日だ。

 夜はここで明かすことになるだろうが、問題はない。

 また、緊急時の食料――カップ麺や湯を沸かすための道具も備えているし、防寒は万全なので、命の心配もないのである。


 こういった事態だが……いや、こういった事態だからこそ、冷静に対処しよう。

 やけに冴え渡った頭で、洋子は湯沸かしの準備に入った。


 ――コン!


 ――コン! コン!


 山小屋の扉がノックされたのは、まさに、そんな時のことだったのである。


「――っ!?」


 何しろ、人一人を死に追いやった直後のことだ。

 心臓が裏返ったかのような感覚に襲われながら、息を呑む。

 とはいえ、そんなことをしてはいられない。

 そもそも、ここは共用の山小屋であり、鍵などは付いていないのだから。


「は、はい!」


「ああ、よかった」


 扉の向こうから、若い男性の声がした。


「実は、急に雨が降ってきたので、しのげる場所を探しているのです。

 入っても、よろしいでしょうか?」


(他に登山者がいた?

 まさか、あたしが揉み合いになったところは見てないと思うけど……。

 でも、滑落していくあの男は、見られているかもしれない!)


 胸中でそんな思考をうごめかせるが、さりとて、締め出すというのも不可能である。


「ど、どうぞ」


 だから、上ずった声でそう返した。

 すると、洋子の言葉とほぼ同時に、扉が開けられたのである。


「――ああ、助かりました。

 あやうく、ずぶ濡れになるところでしたよ」


 そう言いながら山小屋に入ってきたのは、何とも……奇妙な青年であった。

 何が奇妙かといえば、その格好だ。

 こんな、山の中だというのに……。

 青年は、ビンテージもののスーツを着こなしていたのである。


 似合う、似合わないかでいえば、間違いなく似合う。

 何しろ、二十代半ばと思えるこの人物は、非常に整った顔立ちをしているし、すらりとしたスタイルをしているからだ。


 しかし、しかしである。

 ここは、人知れぬ山中。

 大分降りてきているとはいえ、スーツ姿で登ってこられるような場所ではない。

 状況とあまりに似つかわしくない姿は、洋子へ警戒心を抱かせるに十分なものであった。


 しかも、青年は言葉と裏腹に、結構な降雨量――これも、天気予報を鑑みれば不思議な話だ――だというのに、全く濡れた様子がないのだ。

 それに加え、誰か……他にもう一人、背負っているのである。


 ――負傷者。


 登山愛好者として、すぐさまその言葉と、いくつかの応急処置法が頭に浮かぶ。

 当然、洋子のバックパックには、そういった事態への備えも入っており、簡単なテーピングくらいはしてやることが可能だった。


 だが、奇妙な青年に背負われた男は、だらりと手をぶら下げており、意識があるように見えず……。

 その上、青年に比べればマシとはいえ、山を舐めているとしか思えない軽装は、つい先程、見た覚えがあるものだったのである。


「し、死体っ!?」


 本能的……あるいは、反射的にその言葉が口をついて出た。


「おや、分かってしまいましたか?

 できる限り、遺体の様子が見えないように体で隠したのですが」


 青年の反応は、ひどく軽いものである。

 まるで、小学生が出来の悪いテスト用紙を親から隠すように……。

 室内の隅まで、こちらを向いたままにじり寄ると、自分の体で隠すようにしながら死体を横たえたのであった。


「いや、なに。

 さっき、倒れてるのを見かけましてね。

 気分が良くなるものでもないので、あなたは見ない方がいいでしょう。

 この山小屋、毛布か何かは備わっていますか?」


「えっと……」


 問われて、室内を見る。

 青年と対角線上の隅に、あるといえばあった。

 もう何年も洗濯してないのだろう、ボロボロのものがだが……。

 十分な防寒装備をしている洋子であり、このようなものへ頼る気は起きず、意識の外へ置いていたのだ。


「ああ、ありますね。

 では、失敬……。

 くれぐれも、遺体は目に入れないように」


 青年にそう言われ、目を逸らす。

 言われずとも、自分が殺した人間の死体など、見たくはない。


「これで、よし……と。

 見えないように隠したので、もう、こっちを向いても大丈夫ですよ」


 ゴソゴソと毛布をいじっていた青年に言われ、視線をそちらに向ける。

 なるほど、山小屋内の床には、人一人が包まれているのだろうボロ毛布の塊が生まれていた。


「それにしても、驚きました」


 青年が、そう言って手を叩く。

 こんなスーツ姿で、死体を担ぎながら山道を歩く……。

 その上で、手際よく死体を安置する。

 そんな大仕事をしたとは思えない、どこかとぼけた態度である。


「そう、ですよね。

 まさか、死体を見つけるなんて……」


 何を言ったらいいのか分からず、ひとまず、そんな言葉を返す。

 すると、青年は目をすっと細めてこう言ったのだ。


「いえいえ、私が驚いたのは遺体にではありません。

 このようなものなら、そう、飽きるほど見てきています。

 そうではなく、私は、あなたが一目でこの方が死んでいると、そう確信していたことに驚いたのです。

 何しろ、私の体で仏さんの様子はほとんど見えなかったはずですから」


 ――ドクン!


 ……と、心臓の跳ねる音を聞いた気がした。

 確かに、彼の言う通りだ。

 ただ、背負われているだけならば、負傷者の線なども十分に考えられるではないか!?

 混乱しつつも、必死に言葉を選び出す。

 ああ、こんなに頭が回転したのは、初めてかもしれない。


「その……。

 こういう趣味をしていると、負傷した人とかもよく見ますから。

 それで、なんとなく、死んでいるんじゃないかな……と」


 そっと……。

 上目でうかがうように、青年を見る。

 大丈夫なはずだ。

 何か怪我をさせたわけではないし、自分と揉み合った形跡など、残っていないはず。

 だから、毛布にくるまれたあの死体は、単純な滑落事故の死体に思えるはずなのである。


「なるほど!」


 青年が、人懐っこい笑みを浮かべた。

 それは、不思議と人を安心させる性質のもので、単なる容姿の良さではなく、人徳から生まれるものであると直感できた。


「いや、いや、素晴らしい見識をお持ちだ。

 さすが、一人でこんな無名の山に挑戦されるだけのことはある。

 失礼ながら、お名前は?」


「あ、斉藤です。斉藤洋子。

 そういえば、あなたは?」


 ――難局を乗り切った。


 その安心感から、青年に名を尋ねる。

 そこには、一刻も早く死体から話題を逸らしたいという思いもあった。


「ああ、失礼しました。

 私は、こういう者です」


 やはり、ビジネスマンがそうするように……。

 青年が、一枚の名刺を差し出す。

 果たして、そこに書かれていたのは――。


「――勇者探偵、田中いさむ

 あの、失礼ながら、勇者探偵というのは?」


 ――探偵。


 この状況下でお目にかかりたい単語ではないが、ひとまず、動揺はせずに済んだ。

 そもそも、事件現場にさっそうと現れてこれを解決する探偵などというのは、フィクションの存在に過ぎない。

 現実の探偵というものは、浮気調査や人捜しなどで金を得ているものなのである。


 だから、動揺はしない。

 しないが、勇者という単語までくっ付けられているのには、純粋な疑問があった。


 こんなうさん臭い青年が、探偵などといううさん臭い商売を名乗り、しかも、それに勇者などという意味不明な言葉まで添えられているのだ。

 結局、どういう人間なのかと思うのは、当然であるだろう。


「はい」


 青年――田中勇が、にこやかにうなずく。

 そして、こう言ったのだ。


「私、勇者で探偵なのです。

 そのため、二つをくっ付けて、勇者探偵と名乗らせて頂いています」

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