勇者探偵 ~探偵は異世界帰り~
英 慈尊
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殺人
たった一人、大自然の中に身を置き……。
草花や生物たちの息吹きを、全身で感じる……。
ソロ登山というものが心身に与える癒しの効果たるや絶大であり、山を登ることによる肉体的負担ですら、コンクリートジャングルのOLには心地良く思えた。
もちろん、単独での登山というものが、常に命の危険を孕んでいることは重々承知している。
だから、洋子はボーナスの大半を投じて高額な装備を用意していたし、天気予報なども入念にチェックし、決して無理な挑戦はしなかったのだ。
そう……人間がやることに万全はあり得ないとはいえ、出来る限りリスクは潰してきた。
しかしながら、それはあくまでも自然の驚異に対する備えであって、このようなことは全くの想定外だったのである。
「ちょっと……やめて下さい!」
まるで、トレイルランナーにでもなったかのように……。
険しい山道を、必死で走った。
「そんなこと言わないでさあ!
せっかく、こんな山の中で出会ったんだから!
仲良くしよおぜえ!」
背後から響いているのは、下卑た男の声……。
――パシャリ!
同時に、スマートフォンでこちらの後ろ姿を撮っている音が聞こえる。
何故、こんなことになったのか、洋子には分からない。
ただ、一つ確かなのは、胸を走るこの怖気……。
そして、背を震わせる生物としての根源的な感情であった。
追いつかれては、いけない。
その一念のみで、こんな未整地な山中を走っているのである。
左を見れば、切り立った崖であり、本来ならば、走っていいような場所ではない。
それでも、走った。
走った、が、こちらは本格的な登山装備をしているのに対して、後ろの男はあまりに軽装だ。
端的にいって、山というものを舐めきった……無知にして無防備な格好であり、彼我の体力差も手伝って、たやすく追いつかれてしまう。
追いつかれた先は、揉み合いになった。
「ほら! 追いついた!
お姉さんもさあ、こんな人の知れない山に一人で入り込んで、本当は期待しているんでしょお!?」
「いや! 離して!」
自分と同年代……二十代終盤だろう男に袖を掴まれ、必死に振りほどこうとする。
訳の分からぬ独自論理を展開する男は、明らかに……そう、こちらの衣服を脱がそうと動いていた。
「ほら! いいことしようよお!」
「――やめてえ!」
揉み合いとなった末に、男のスマートフォンが地面ヘと落ち……。
同時に、洋子としては……おそらく、男にとっても、想定外の事態が起こる。
「――お?」
そう呟くと同時……。
バランスを崩した男が、崖の方へと転落してしまったのだ。
山肌というのは、知らぬ人間が想像するのとは違い、非常に滑りやすい。
天然の滑り台じみていて、一度、滑ってしまったのなら、自力で留まるなどというのは不可能だ。
まして、この崖は樹木なども生えておらず、岩や石などが無数に突き出しているのである。
「あ……ああ……」
両手で口元を抑えながら見ていると、洋子を襲ってきた男は、時に岩などへぶつかってバインドしながら滑落していき……。
そして、視界からいなくなった。
おそらくは、山の底に、意識か命を失った状態で転がっているに違いない。
助けを呼ぶことも、不可能。
何しろ、男のスマートフォンは、ここに転がっているのである。
よしんば、手元にあったのだとしても、体を動かせる状態であるとは思えなかった。
しばらく、呆然とした後……。
「あたし……人を殺しちゃった……?」
ようやく、その事実へ行き当たる。
状況としては、滑落事故ともいえるかもしれない。
もし、洋子が原因だったとしても、間違いなく、正当防衛を認められるだろう。
だが、男が落下する原因となったのは、自分が必死に抵抗したからであり……。
洋子の主観では、自分の手で殺したも同然の状況だと思えた。
そんな状況でありながら、洋子の脳裏をよぎったのは、ただ一つの事実である。
(あたしが、これまで積み上げてきたキャリア……。
それが、台無しになっちゃう)
身勝手であると、洋子は思わない。
もし、抵抗しなければ……。
あの男が、おそらくは――死ななければ。
一体、どんな目に遭っていたことだろうか。
はっきりいって、あのような人間は死んで当然であり、そこに一切の情は湧かなかった。
問題は、この後だ。
(もし、警察を呼んで……男の死体が発見されて……。
そうなったら、あたしは親族や職場の人間に、どう思われるの?)
そのような事態になれば、当然、警察の捜査へ協力するため、かなりの日数を拘束されることだろう。
また、家族や職場に報告もせねばならないだろうし、職場はともかく、家族に関しては、司法側から連絡を入れる可能性も濃厚であった。
そうなれば、自分は晴れて人殺しだ。
家族も、同僚も……恋人も。
決して、今までのように接してはくれまい。
(冗談じゃない!)
そう思い、決意する。
こんな、社会のゴミみたいな人間を死なせた結果で、人生が台無しになるなど耐えられない。
(この事は、一生の秘密にしよう)
幸い、この山は知る人ぞ知る場所であり、目撃者はいない。
また、記帳なども存在しないため、名も知らぬ男や自分の足跡も残っていないのである。
(あいつが、周囲に行き先を告げていたかどうかによるけど……。
もし、告げていなかったなら、何年……何十年も遺体が発見されないことだって、あり得る)
それだけの時が経てば、警察も自分と結び付けることはあるまい。
ならば、問題となるのは……。
(このスマートフォン……あたしを撮っていた)
指紋が付かないよう、登山用グローブをはめたまま、スマートフォンを拾う。
どうせロックがされているだろうから、ホーム画面を開こうとは思わなかった。
だから、電源ボタンを長押しにし、ボールペンの先で操作して、電源をオフにする。
(これで、GPSとかが付いていたとしても、今後の足跡はバレない)
スマートフォンを、ポケットにしまう。
(どんな感じで撮影されてたかは分からないけど、現場に残されたスマートフォンへあたしの写真が入っていれば、面倒なことになる)
だから、持ち去るのだ。
(ここから投げ捨てても、遺体と同時に発見されれば同じことだ。
どこか、別の場所で処分するしかない)
罪状の名前は知らない。
だが、これは明らかな犯罪行為だ。
それを知っていて、尚、実行する。
全ては、自分の人生を守るために……。
「降りよう……」
山から……あるいは、悪夢から現実へと回帰するため、下山を開始した。
ポケットのスマートフォンが、やけに重く感じられる。
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