第2話
ティノが聞いたというその話を、わたしはレントリアの都にある王城で、旅回りの商人の世間話から偶然聞き出した。
都の北西部を滔々と流れるレントール川、その崖ふちで起きた闘いの果て。
魔物と相討ちになった剣士は、バラッドにある歌詞のとおり、天馬とともに川に転落していった。
その後もちろん捜索はおこなわれたが、剣士も、そして彼の愛馬もついにみつかることはなかった。
かなりの手傷を負った状態で落ちたうえ、冬の終わりの水流は凍りつくような冷たさだ。たとえ無傷であったとしても、助かる見込みはないだろう。
都の人々の間で、失望があきらめに変わるのは早かった。あきらめが武勇伝になり、やがて伝説になるべき出来事として歌になるのも早かった。
けれど、レントール川が流れ下っていくその先で、商人が村人たちから拾った話は少しちがう。
闘いがあった翌日、褐色の髪の若者が、支流の岸辺にぼろぼろの姿で打ち上げられたというのだ。
はるかに遠い山脈から発した川は、合流と分岐をくりかえしながらレントリアをめぐり、都の境界線を形づくり、あらたな流れを生み出しつつ進んでいく。
若者が流れついた川は支流のひとつにあたっていて、低地に至る前の丘陵地帯を通り抜ける川筋だった。
川で溺れる若者も助け出される若者も珍しい話ではなかったが、季節が季節なだけに、救出に向かう村人たちの足取りは重かった。
ところが驚いたことに、倒れている若者には息があった。しかも、あわてて皆で助け起こそうとすると、その手を拒んで自力で動こうとする体力すら残っていた。
その次に起きたことは、村人たちを今度こそ本当に驚かせた。
どこからか舞い降りてきた天馬が、若者の腕をくわえて引きずり起こしたのだ。
天馬の翼も若者に負けないくらいぼろぼろで、もとは白かったであろう毛並みは、くすんでずぶぬれだった。
ぽかんと口を開いて見守る村人たちの目の前で、天馬は翼を下方にのばし、若者がその翼をよじ登るようにして背中に這い上がり、人馬一体ふたたび空に舞い上がり……。
そして丘陵の裾野の森を横切るかと思われたところで、ふと速度を落とした。
休息をとろうとするかのように、人馬はゆっくりと丘の斜面に舞い降りていった。
この重大な出来事について、村では緊急会議が開かれた。
そこで出されたのは、あの若者は少し前に都で騒がれていた勇者であるにちがいないという、村にとっては栄誉ともいえる結論だった。
聖獣が人里におりること自体たいへん珍しいというのに、その聖獣に助けられ、しかも運んでもらえる人物が並みの人間であるはずがない。
それだけでも、若者が誉れ高い勇者であることを示す、十分な証拠になるというものだ。
凍てつく川に流されながら心臓が止まらなかったのも、天馬の守護がついていたからこそだろう。
では急ぎ助けに向かわなければ。当然そういう意見が出たが、別の意見もまた村人たちには魅力的なものだった。
というのも、ちょうど彼らがおりていった斜面の途中は、魔物の群れが巣食っていると噂の場所だったからだ。
夜な夜な森からうごめき出てくる魔物は、秋口あたりから急にふえはじめ、冬の間もふもとの村に被害をあたえ続けていた。
領主の助けが得られなかったため、村ではなけなしの金貨をかき集め、討伐する剣士──おそらく報償目当てのならず者たち──をつのっては森へと送り出した。
誰ひとりとして戻ってこなかったのは、よほど人選が悪かったのか。
だが、今度の人選こそはまちがえようがない。
なにしろ魔法剣をたずさえて、かのインキュバスを討ち果たしたほどの勇者さまだ。名もなき魔物たちの群れなど、たちどころに一掃できるはずなのだ。
村人たちの期待にたがわず、森から出てくる魔物たちの姿は、ほどなくしてぱったりとだえた。
それで村人たちは、勇者さまと天馬が自らあらわれるのを待つべきか、それともお迎えにあがるべきか決めかねて、ただいま頭を悩ませている。
勇者さまにふさわしい金貨の額がいかほどなのかも、悩みの種となっている──。
この話をもたらした商人は、それが事実であるかどうかには、さして興味がないようだった。
下層の村人たちの申すこと、姫君のお耳汚しかもしれませぬが……と、そんなふうに話しながら苦笑した。
だが、わたしは笑えなかった。あまりにもうれしくて、叫び出さないようにするのが精一杯だったからだ。
生きている。ラキスもリドも生きている。
二度と会えないと思っていたのに。いいえ、思おうとして、でも受け入れることができなくて毎日泣き暮らしていたのに。
ひとすじの希望にすがると、そのひとすじがさらにあらたな光を呼んで、流れ続けた涙のあとをかき消した。
また会えるかもしれない。必ず会える。会いにいきたい、どうしても。
わたしはついに、ひとり王城を抜け出して慣れない旅の時間をのりこえ、そしてようやくたどりついた。彼が生きているであろう、この森に。
「たしかにその話のとおりだよ。だからティノも、ここにこうしているんだけど」
わたしの話を聞いていた少年が、眉を寄せながら疑わしげに呟いた。
「でも、お城を抜け出してきたとか言われてもさ……。お姉さんは、いったいだあれ? ラキスって剣士さまの名前だよね。呼び捨てにできるなんて、もしかして剣士さまのお友達なの?」
「わたしはエセルよ」
「あのねえ」
ため息をつくと、少年はあきれたように首を振った。
「それはバラッドに出てくる姫君の名前でしょ。ティノが訊いてるのはお姉さんの名前。お城の小間使いか何か?」
「だから、わたしがエセル。エセルシータよ」
「いくらティノが田舎者だからってからかわないでよ」
少年は気分をそこねたらしく、唇をとがらせた。
「だいたいエセルシータ姫に失礼じゃない。姫は誰もが振り向く絶世の美女で」
「お言葉ですけど、絶世の美女というのはお姉さまみたいなかたのことをいうのよ。わたしが絶世なんて、それこそお姉さまに失礼だわ。バラッドでそう歌われているのは知っているけど、どうしてそんな歌詞を都で放っておくのかしら。都の人たちはわたしの顔を知っているのだから、ほめすぎだということくらいわかるでしょうに」
「………」
「なあに?」
「……なんでそんなに汚い格好なの?」
「お忍びで来たから、ばれたら困ると思って。それに山歩きできるような服装にしたかったし」
言いながら、わたしはあらためて自分の衣服を見下ろした。
足元は農作業用の頑丈なブーツ。ブーツに押しまれているのは粗い毛織のズボン。
冷え込む空気に負けないように、綿のチュニックの上から毛皮で裏打ちされたチュニックを重ねている。 要するに、目の前の少年とほとんど同じ格好だ。しかも泥だらけであるぶん、少年よりもさらに見栄えが悪かった。
そのうえ……わたしは、自分の両方の掌をじっとみつめた。
ころんだとき両手を地面についたから、掌はいまだにそれなりの有様だ。
ということは。
「……さぞかし顔もきれいでしょうね?」
わたしは、真剣な面持ちでティノに問いかけた。
ティノは真剣にみつめかえしたが、やがて返事がわりに小刻みに肩をゆらしはじめた。笑っているのだ。
思わずつられて、わたしも笑い出してしまった。
二度と笑うことなんてできないと信じていたのに、思いがけないことだった。
「ティノ、お願いがあるの」
わたしは笑いながら、久々の笑顔をあたえてくれた少年の顔をのぞきこんだ。
「さっきの歌、もう一度聞かせてもらえないかしら。聞きたいの。もちろん小さな声でかまわないから」
ティノはわたしの扱いに迷っているようだったが、ややあって、こくんとうなずいた。それから目を伏せて息をととのえ、あの澄んだ声でささやくように歌いはじめた。
思ったとおり、少年を包んでいたあどけない気配が、歌とともにふわりと色を変えた。
わたしのとなりで歌っているのは、小さな、けれどまぎれもない吟遊詩人。
舌足らずで無邪気なだけの子どもは、もういない。
はるか高みからものごとを見下ろし、すくいあげては歌のかたちに織りあげていく、たしかな歌い手。
たぶん見た目よりもずっと、たくさんのことを考えたり苦労したりして生きてきた子なのだろう。
だからこそ、歌声がこんなにも静かに、心のやわらかな部分にまで届くのだ。
思い出すのが苦しくて封印していた記憶が、聞いているうちに自然にあふれ出てくるような気がした。そして、もう思い出してもいいのだと思った。
もうすぐラキスに会える、いまならきっと。
はじめて彼と出会った、あの日のことを。
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