中編
どうしてだろう。
あんなことがあって、それでも僕は諦められずに山を登っていた。
今日は水撒きだけだったので、朝早くに来られた。農家の利点である。
それと今日は、口実を用意していた。――あのほったらかしの蜜柑畠を元気づけようという作戦なのだ。
獣道を登り、蜜柑畠に出る。
だが、オレンジ姫の姿はなかった。
もしかして、ここに来るのをやめたのではないか?
そんな不安を持ちつつ、僕はしばらく待つことにした。
改めてじっくり蜜柑畠を見回してみる。まだ花はなく、碧い葉っぱだけだ。柑橘類の甘酸っぱい匂いを漂わせている。
しかし、顔を近づけてよく見てみると、虫食いがひどい。害虫がところどころに見えた。
「これはやばいな。早くなんとかしないと」
「――またあなた? もう来ないでって言ったのに」
その鈴の音のような声に振り返り、僕は彼女を見上げた。
橙色の髪、黄色のワンピース、緑のブーツ。
オレンジ姫はいつの間にか僕の後に立ち、腰に手を当てている。
「や、やあ」
「やあ、じゃないわよ。よくもまあ懲りもせずにここへ来られるものね。そのしつこさに感心するわ」
「君だって、毎日足を運んでるじゃないか。僕がここを知るよりずいぶん前からだろ?」
そう言ってやるとオレンジ姫はバツが悪そうに顔を背け、黙る。
そして蜜柑畠の真ん中に座り込んだ。
「今日は僕、この蜜柑畠を良くしようと考えて来たんだよ。これでもしがない農家なんだ。だから多少のことならできるんじゃないかって」
「……ふぅん。お好きにどうぞ」
面倒臭くなったのだろう、彼女は僕を追い返そうとはしなかった。
僕は言われるままに、農具を広げて作業を始めた。
まず、農薬を撒く。天然だから大丈夫だ。
見える限りの害虫を取り払い、そして養分を与える。
最後に軽く水をやれば終わり。結構簡単だ。
その間に僕は、チラチラとオレンジ姫の方を盗み見る。
黙りこくる彼女は、僕に背を向けて蜜柑の木々を見つめているようだった。
蜜柑畠に涼しい風が吹き込み、彼女のウェーブヘアーがさわさわと波打つ。とても綺麗だった。
「畑仕事、終わったよ」
オレンジ姫は何も言わない。一体何を想っているのだろうか。
僕は彼女から少し離れた場所に座って、同じように蜜柑畠を眺めた。
その日はずっとそうしていて、やがてオレンジ姫は帰っていき、僕も我に返って足ばやに帰途につく。
また明日も来ようと思いながら。
それから僕は毎日、晴れの日も雨の日も風の日も、その蜜柑畠に通い詰めた。
すると彼女はいつもいて、黙って僕を迎え入れてくれる。
僕は水やりをしたり、蜜柑の世話をしたりと忙しい。が、それが終わるとすぐに彼女の傍に座る。
それから何時間も無言で過ごし、帰っていく。そんな時間が僕はいつしか、たまらなく好きになっていた。
そんな中、オレンジ姫はたまに口をきくようになった。
ぽつり、ぽつりと。
大抵が「今日は雨で嫌ね。私は雨が嫌いだわ」とか、「そろそろ帰るわね」とか一方的な言葉だけだったが、彼女の声が聞けて僕はとても嬉しかった。
たまには僕から話もする。
「どこに住んでるの?」
「君の名前は?」
でも、オレンジ姫は僕の問いには溜息だけで応じた。
答えたくないのかと思い、僕は再び黙って彼女と一緒に蜜柑畠を見つめる。
季節が移りゆき、蜜柑の花の季節になった。
その頃にはもう彼女も僕を気にする様子はなく、言葉数も多くなっていった。
「ここにある蜜柑はずっと昔から生えてるのよ」
「風が気持ちいいわね。こんな日は、お昼寝がしたくならない?」
「あなたこそ、どこに住んでるの?」
問われる度に、なんだか嬉しくなって答える僕。
会話が徐々に増え、僕らは他愛のないことをよく話すようになった。
「君、幾つなの?」
「女に年齢を聞くなんて、失礼よ。……私は今年で十八になるわ」
「僕はもうすぐ二十歳だよ」
「二十歳にしてはひょろひょろしてるわね。同年代か歳下かと思っていたわ」
とても楽しかった。
オレンジ姫の朱色の瞳はいつも真剣で、僕はその輝きを見る度に魅入られてしまう。
そのうちに僕は気づいた。――僕は、この
彼女の佇まい、表情、声、何もかもが好きでたまらない。
いつからだろう、彼女の傍にありたいと思っていた。蜜柑畠に佇むオレンジ姫を、ほしい。
そんなの傲慢だってわかっていた。けれどもう、この気持ちは抑えることができない。
ある日、僕は彼女にこの想いを伝えることに決めた。
無碍にされても構わない、僕の胸の内を聞いてくれる、それだけでもいいから――。
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