第9話 この国の先住民族

 次の日。


 講義が終わった後も、蓮実はしばらく浮かない顔をして、席に座り続けていた。


「おう、長峯。レジュメはどうした」


 水沢教授が声をかけてくる。


 蓮実はバッグの中からレジュメを出し、黙って提出した。


「この短期間によくまとめたな。今日のうちに読んでおきたいから、俺の部屋まで付き合ってくれ。構わないか?」


 頷く。ゼミ室を出てから、廊下を進んですぐの所にある教授室へと行く。水沢教授は入り口の表示板を「在室」に変えてから、先に蓮実を中に通して、ドアを閉めた。


 部屋に入るや否や、足元に置いてあるダンボール箱に蹴躓いた。


「おお、気を付けろ」


 と言いつつ、水沢教授は床に散乱している雑誌の束やダンボール箱を避けて、奥のデスクまで向かっていく。あまりの室内の様子に、しばし蓮実は硬直していた。本棚に入りきらない量の研究書が、床やデスクにまではみ出している。


「さて」


 水沢教授は椅子にドッカと腰かけると、蓮実のレジュメを読み始めた。十分ほどで全部読み終わり、それから無精ヒゲをガリガリと掻く。どこか物足りなさそうな表情だ。


「今回は時間もなかったから、これでひとまず受領してやるが……」

「どこか間違ってますか?」

「基本的に知識は十分だと思う。けどな、細かいところがまだ足りていない」

「例えば?」

「谷を表す言葉に〝ヤツ〟があるな。夜刀神は、〝ヤツ〟の神だから、ヤトノカミと呼ばれている。では、我々にあまり馴染みのない〝ヤツ〟とはどういった言語かというと、これはいま現在の日本語よりも、アイヌ語に近い系統のものとなる。そこは折り込んだか?」


 考えてもいなかった。言語学の観点からのアプローチまで思い至らなかったので、純粋に新鮮な意見として、蓮実は教授の言葉に耳を傾ける。


「さらに言えば、アイヌ語は南洋系言語から枝分かれしたものだという考え方もあるが、まあ、これは蛇足なので今日はやめておくとして――アイヌ民族は、かつて蝦夷えぞと呼ばれていた時代もある」

「そうですね」

「蝦夷はまた〝エミシ〟とも読む。朝廷に追われた日本の先住民族達の蔑称だ。北に追いやられた先住民族、その祖先のひとつが、あるいは夜刀神の一族なのかもしれない」

「一族?」

「お前だって、レジュメに書いてるじゃないか。信仰の変遷、と。蛇神信仰があったということは、それを信じていた何らかの集団があったと考えるのが自然だろ」

「つまり、夜刀神を信じていた人々がいたと。それが蝦夷ではないかということですか?」

「俺もそんなに専門的にやっているわけじゃないから、詳しくは説明出来ないがな。むしろお前の――」


 資料を探しながら、何かを言いかけたところで、不意に教授は口を閉ざした。微かに目が泳いだ。


「――お前のほうが、地元なんだから、夜刀神伝承については詳しいんじゃないか」

「あいにく昔話程度のことしか教えてもらっていませんので」

「そうか」


 教授はデスク上の資料の山の中から一冊のファイルを取り出し、蓮実に渡した。中には手書きのメモを始め、文献のコピーやレジュメ等、様々な形態の紙が綴じられている。その全てに共通するのが、古代民族に関することだ。


「神話、民間伝承、それらの物語の中には一片の真実が含まれていることもあるし、時には真実そのものが姿を変えて語られているものもある。もちろん、現代の我々には、それが真実であろう、という予測を立てることしか出来ないが。例えば、中国の蚩尤しゆう伝説にしても、そこから過去にあったであろう戦の様子を垣間見ることが出来る。例えば、アーサー王伝説からはブリティッシュの神々の衰退とキリスト教の隆盛の歴史を読み解くことが出来る。全ての物語に、時代時代の色が反映されている」

「あるいは夜刀神とは、古代民族そのものを暗喩したものと考えてもよいのでしょうか」

「そういうのは暗喩とは言えない気もするがな。ま、それも面白い考え方だと思う。信仰の対象ではなく、むしろ実在した先住民族そのものを表したのが、夜刀神だと」

「先生は、この間から先住民族と言っていますけど、この日本に元々別の系統の民族が住んでいた、ということなのですか?」

「なんだ、いまさら。当たり前のことだろ。俺の講義を真面目に聞いていなかったな」


 教授は呆れ顔を見せる。


「日本人が単一民族なんて馬鹿みたいなこと考えるのはやめてくれよ。俺達はむしろ、長い歴史から見れば、侵略者の立場なんだよ」

「侵略者……ですか」


 いい響きではない。


「言語体系を見ても、西と関東では地名の付け方が違うし、これが東北以北となればもっと変わってくる。その一事をもってしても、わかることだ」

「どこからやってきたんですか?」

「中国大陸から、と考えるほうが自然だろうな。実際、中国の歴史書を読めば、新天地を求めて東へ旅立つ連中の話がたびたび出てくる。有名なのは徐福伝説だ」

「あの仙人の?」

「仙人なんて呼び方はもっと後の時代に確立されたものだから、それこそ当時は仙人も何もないんだが、まあ、そういうことだ。三国志でも呉の孫権が東方へ船を出しているが、失敗に終わっている。古来から、中国は日本列島に興味を抱いていたんだよ」

「そういった一団が日本に辿り着き、どんどん東へ侵攻していった……」

「いや、すまん。誤解を招いたな。そんな新しい時代の話じゃない。渡ってきたのはもっと古代と考えたほうがいい。歴史に残っているような時代の渡来人は、すでに日本に住んでいた連中からは、技術者集団として迎え入れられた。乱暴な分け方をすると、遥か昔に大陸から渡ってきたのを第一次渡来人とするなら、その後歴史に出てくるような渡来人達は第二次渡来人だ。俺が言いたかったのは、その第一次渡来人のことだ」

「では、先住民とはなんなんですか。彼らもその第一次渡来人ではないのですか」

「外部からの渡来は渡来だが、ルートが違うんだよ。さっき言いかけてやめたが、彼らは南洋系、東南アジア経由で渡ってきたと考えられる。西に存在した朝廷側は言語体系が大陸に近いのに対して、東にいた蝦夷……アイヌ系民族は、南洋民族に言語体系が近い。別種の民族だ」

「私達は、その、東にいた民族を追い出した、侵略者達……ということですか。追い出された彼らは、北へと行き、蝦夷――アイヌになった」

「全てが全てアイヌとは限らないし、そもそも逃げた連中がアイヌになったというよりも、元々アイヌ民族がいて、そこに混じったとも考えられる。どこどこへ行った、ではなくて、血統が混ざって一族としての独自性が保たれなくなった、というのが本当のところかもしれない。まあ、それはタイムマシンでも使わない限り誰にもわからないさ。研究者でもな」

「……私のレジュメには、いま話したようなことは、まるで入っていないですね」

「勘違いするなよ。それを入れたからって出来が良くなるわけじゃない。お前の場合、内容云々ではなく、努力不足だ。宗教学や民俗学的見地だけでまとめてしまう危険性は、あれらは下手すると文学の世界に入ってしまう、ってところだ。頭だけで考えるな。フィールドワークをしないと、信憑性は薄くなってしまう。現場百遍は研究の世界でも同じだ」

「勉強しておきます」


 頭を下げて、蓮実は退室した。


 研究棟を出てから、なんとなく涼夜に電話をかけてみた。しかし電源が入っていないか、圏外のようで、繋がることはなかった。

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