第8話 警告

 夕華が失踪した。つい昨日の朝まで、この部屋で寝ていた彼女が、家に戻らなかった。


 警察が去ってからすぐ、涼夜に電話をかけた。だが、圏外になっていて繋がらない。急に不安になってきて、とりあえず携帯電話をテーブルの上に置くと、部屋の中をうろうろと歩き回り始めた。


 そして、冷静に考えたら最初に夕華本人へ電話をかけるべきだったと思い、もう一度携帯電話を取って、実際に試してみた。が、こちらも圏外だった。溜め息をついて、テーブルの上に放り投げる。


 思い返せば、一昨日の夜から様子がおかしかった。よく飲むのは、一度別の機会で飲んだ時もそうだったが、それにしても一昨日は飲み過ぎだった。それこそ涼夜が言ったように、ストレスでも溜まっていたのではないかと思われる。


 だとすると、夕華が行方不明になっているのも、そのあたりの事情があってのことではないだろうか。


 携帯電話が振動する。画面を見ると、涼夜からだ。


『電話くれた? どうしたの?』


 蓮実は事情を説明する。二人の警察官が訪問してきたことも伝えた。話を聞き終えた涼夜はしばらく黙っていたが、やがて低い声で喋り出した。


『その二人、たしかに警察だったの?』

「警察手帳は玄関で見せてくれたけど……」

『偽造なんて簡単に出来るよ。君は本物と偽物、区別つける自信はある?』


 ない。わかる人が見れば明らかに違うデザインだとしても、本当の警察手帳なんて間近で見たこともない蓮実には、あれが正規のものだったかどうかなんて判断がつかない。


『これから会えるかな』

「午後の講義までなら」

『なるべくこっちを優先して。大学より、重要なことだから』


 びっくりするくらい有無を言わせぬ口調だった。蓮実がその意図するところを問おうとする前に、向こうから一方的に電話を切った。どこで、いつ会うのか、何も指定していないのに。


 と、メールが入ってきた。「戸山公園 スポーツセンター前 十二時」と書かれている。


 戸山公園は、このマンションから歩いて行ける。電車で行くよりも早く着くくらいだ。時計を見ると、十一時半。シャワーを浴びて、着替えても、十分間に合う。


 着ていた室内着のジャージを脱ぎ捨て、浴室に入った。


 ※ ※ ※


 指定されたスポーツセンター前に行くと、ダークグレーのスーツを着た涼夜が立っていた。日差しが強く、蝉の鳴き声やかましい日中だというのに、汗ひとつかかずにいる。


「ちょっと座ろうか」


 促されて、蓮実は先導する涼夜の後について、開けた草地の一角にあるベンチまで歩いていった。


 隣り合って座る。


「どこまで聞かされた?」


 さっそく涼夜から話し始めた。


「どこまで、って言うと」

「君が驚くような内容を口走ったりしなかったかな」

「驚く? 桐江君の言ってる意味がわからない。夕華が失踪した、っていう話には驚かされたけど、他は特に」

「何かを疑われているようだった、と言ってたよね。それが何か、わかった?」

「全然。思わせぶりなことばかり言って、詳しいことはひと言も喋ってくれなかった。なんだろう、警察らしくないというか……」


 口に手を当てて考える。


「秘密警察、って言葉のほうがしっくり来るような。そんな二人組だった」


 呟くように言った後、沈黙が流れた。なぜ何も言わないのかと、涼夜のほうを見ると、真剣な眼差しでこちらを見つめていた。目が合う。恥ずかしくなって、蓮実は赤面しながら顔を背けた。


「なんで僕に連絡したんだ?」


 いきなり詰問口調で責めてきた。


「だって、桐江君、夕華と付き合ってたみたいだから――」

「もう関係ない。大学に行く前に別れた」

「そんなこと、私知らないもの」

「夕華にはかけたの?」

「もちろん、電話したよ。でも出なかった。そうしたら桐江君から……そうだよ、私があなたにかけた時は、圏外だった。結局、桐江君のほうから連絡してきたんじゃない」


 だから自分だけが悪いわけじゃない、と蓮実は主張をしたかった。涼夜が何をもって自分を責めているのか、わかっていなかったが。


 涼夜は溜め息をついた。


「君に何か起きたんじゃないかと思って、慌てて電話したんじゃないか」


 その言葉を聞いて、蓮実は胸が痛んだ。


 自分を心配して、涼夜は電話をしてくれた。それなのに、いま、彼になんて酷いことを言ってしまったのか。


「……ごめん」


 蓮実は謝った。


「気にしなくていいよ。僕の言い方がきつかったと思う。それに」

「それに?」

「君の勘は正しかったから」

「どういうこと?」

「僕に電話かけたことだよ。付き合ってたかどうかは関係なく、単純に、この件に関しては僕ほど連絡を取るのに適している人間はいない。なぜなら」


 涼夜の声のトーンがやや低くなった。


「僕は、夕華がどうして失踪したのか、理由を知っているから」


 衝撃のひと言に、蓮実は目を見開いた。そこから推測されることはいくつかあるが、予断は廃して、ごく当たり前のことを言うだけにとどめた。


「じゃあ、警察に連絡しないと!」

「どうして」

「だって、捜しているから――」

「最初に言ったじゃないか。本当にそいつらは警察だったのか? って」

「でも、それは桐江君の勝手な――」

「勝手じゃないさ。もうひとつ言わせてもらうと、僕はそのことも知っている。彼らが警察を騙っている別組織の人間であることをよく知っている。だから、これは思い込みでもなんでもない。ただ事実を言っているだけだ」

「やだ……やめてよ。どういうことなの」


 かぶりを振る。夏の日差し眩しい公園の中にいながら、冷え冷えとした地下牢に押し込まれて話をしているような、息苦しさと閉塞感。


「僕に目をつけたのは正しかった。だけど、連絡したのは間違いだった。僕ほど色々なことを知っている人間はいないからね。だから、今日のことは忘れたほうがいい」


 笑みを浮かべる涼夜。しかしその笑い方は、どこか寂しげだ。


「日常に戻るんだ。君はいま、入ってはいけない領域に入ろうとしている。これまで誰もが不可侵でいたところに、様々な人間の思惑が絡んだ結果、少しずつ、外界からの干渉が生まれつつある。その結果が、君のところへやって来た例の二人組だ。でも気にすることはない。君さえ何もわかっていなければ、巻き込まれることなく済む」

「ねえ、桐江君。私、あなたが何言ってるのか、全然わからない」

「タチの悪いことに、君は全くの無関係ではなく、この一連の出来事に関わるだけの資格がある。さらに言えば、君がいるからこそ、なんだ。だから否が応でも外界からの干渉は今後ますます激しくなってくるだろうし、君も耐え切れなくなるかもしれない。それでも」


 涼夜はベンチから立ち上がった。


「我関せずを貫くしかない。それが君にとって最良の選択肢だ」


 そう言い残すと、蓮実が止める間もなく、涼夜は公園を出ていってしまった。


 残された蓮実はこれまでの言葉の意味を読み取ろうとする。だが考えても考えても、涼夜の言わんとしていたことがわからない。


 唯一理解出来たのは、「夕華の失踪事件に関わるな」という警告を遠回しに言っていたのだ、ということだ。


 暑さが戻ってきた。額から汗がどっと噴き出してくる。ハンカチで拭いながら、涼夜の消えていった方を、いつまでも見つめていた。

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