第5話 誘いの電話
その日の講義が全て終わり、まっすぐマンションへと戻った。一度荷物を置いてから、新大久保の駅まで戻り、近くの韓国料理屋で軽く夕食を済ませる。
「チェさん、ほら、見てよ」
常連客が、カウンターの奥にいる店主に、新聞の一面を見せている。食べ終わって水を飲んでいた蓮実は、何が書かれているのかと、覗き込んだ。よく見えなかったが、常連客の言葉で、大体の内容は推測できた。
「暴言はうちの知事だけで済ませてほしいんだけどねえ。今度は外務省だぜ」
「私らのこと、何だと思ってるのかネ」
「同じ人間って思ってないんじゃないの。まともな神経してたらさ、天罰だの、
「クマソ?」
「知らないか。昔、誰だったっけな、やっぱ政治家が言ったんだよ。東北は熊襲の土地だって。熊襲ってさ、大昔の日本に住んでたって一族。要は、野蛮人ってこと。バーバリアンだよ、バーバリアン」
「同じ日本人に、よくもまあ。信じられないヨ」
「しかも間違ってるし。東北は熊襲じゃないんだよ」
「何なの?」
「たしか
「エミシ?」
「俺もよく憶えてないから、あんま突っ込むなよ。そんなのどうでもよくって、要は、酷いよな」
「うん、酷い」
この時はわからなかったが、マンションに戻ってニュースサイトを見て、ようやく何が起きていたのかを知った。
外務省の人間が、『韓国人は猿真似が得意だから』と、公式の場ではないとはいえ、とある宴席で発言してしまったそうだ。そのことが波紋を呼び、在日韓国人団体から謝罪の要求が来ているとのことで、ちょっとした揉め事になっている。
「ばっかばかしい」
最初から人の尊厳を踏みにじるような発言さえしなければ、何も問題など起きないのだ。精神が歪んでいるからそうなる。日本人だけがアジアで一番偉くて優秀な民族とでも思っているのではないだろうか。
※ ※ ※
シャワーを浴びてから、新しいパンツをはき、シャツを着る。ズボン等ははかない。一人で部屋にいる間、このだらしない格好で過ごすのがすっかり習慣付いてしまった。
ガラステーブルの上でスリープモードに入っていたノートパソコンを開き、あぐらを掻いて、さて、とばかりにレジュメの作成に取りかかる。
蛇神信仰の変遷。蛇神信仰とは、すなわち水の神信仰でもあり、治水にかける人々の情熱の現れでもある。
それが時とともに山の神信仰へと移っていき、蛇神は古い神として、あるものは目立たない場所へ隔離され、あるものは邪神として疎まれ、勢力を削られていった。
そこらへんの基礎知識はあるので、あとは『常陸国風土記』における夜刀神の描写と比較しながら、自分なりの解釈を書いていけばいい。
正直、原稿用紙十枚分も書くことがあるのか不安だが、いざとなればハッタリだけで文章を水増しするという手もある。
「ん」
一時間かかって、原稿用紙三枚分ほど書いたところで、軽く背伸びをし、それから冷蔵庫に入っている缶コーヒーを出して、立ったまま飲み干した。
おもむろにベッドの上に乗り、膝立ちになり、窓の外を眺める。
新宿の高層ビル群が見える。
夜一〇時だから、不夜城はまだこれからといったところ。今年の五月に開業して話題のスカイツリーは反対方面だから、蓮実の部屋の窓からは見えない。そもそも、新大久保からでは、相当高い階でもなければ見ることはかなわないだろう。どうでもいいことだが。
ベッドから下り、再びレジュメ作業に取りかかる。
ガラステーブルの上に置いてあった携帯電話が振動した。電話の着信だ。見ると、小学校のとき同級生だった浅井夕華からだった。以前の同窓会で番号だけ交換していた。
電話に出た瞬間、やたらハイテンションな声が耳に飛び込んできた。
『ねえねえねえ、蓮実! 新宿で、小学校のクラス会やってるんだけど、来ない? 来るよね! 来てよ来てよ!』
「飲んでるでしょ、夕華」
『えっへへー、ジョッキ生五杯くらいですよーだ』
「飲みすぎ」
『てかさあ、いいじゃんいいじゃん。一駅なんだし。来てよー』
「大学の課題があるから。単位かかってるの」
『いいっていいって、そんなの! 教授さんも許してくれるよ。それに蓮実くらい美人だったら、ちょっと色目使ったら、Aマイナーくらい取れるんじゃない?』
その言葉に、蓮実は顔をしかめた。
「そんな不正手段、私は――」
『ねえねえ、付き合ってよお。リョーヤくんも来てるからあ』
「だから、何度頼んでも」
言いかけた蓮実は、はたと止まった。
「リョーヤ……?」
『んにゃ? どうかしたのー?』
口に手を当てて考えた。
彼が、来ている?
小学校の頃の同級生とは会いたくない。叔父さん夫婦からも反対されている。自分の過去をよく知っている者たちであり、意図せぬタイミングで記憶を呼び覚まされるかもしれないからだ。一度同窓会に参加した時、明らかに、彼らは自分の過去について触れようとしなかった。そして、自分も聞く気はしなかった。
でも、
あの桐江涼夜が。
『蓮実? 蓮実ちゃーん?』
「ごめん。やっぱり行く。待ってて」
『あーん、だから好きー! 好き好き大好きー! 結婚してー!』
電話の向こうで嬌声を上げる夕華を無視して、蓮実は電話を切り、出かける支度を始めた。
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