2 顧問探偵

「原稿の進捗具合はどうなっていますか」鬼灯要は言った。

 小説家は難儀な職業だ。美耶子は二十歳でデビューした。同期が島田荘司と普通であれば自慢したくなるものだが、あまりに偉大すぎる同期を持つと萎縮してしまう。なるべく島田御大と同期と言わないようにしている。

 才能の差が有り過ぎる。

 デビュー作がミステリ業界そのものを一転させた名作を世に送り出した功績は、この先も語り継がれること間違いない。御大に続くように日本ミステリ界は次々と才能ある書き手を輩出した。そのムーブに美耶子も便乗させてもらった。そう、させてもらった。実力で勝ち取ったわけではない。

 美耶子は小説を書くのは大好きだ。

 イギリスで生活をしていた時から両親と姉のみならず、近所、はたまた学校でも吹聴していた。嘯いていたが正しいかもしれない。

 挙って返って来る言葉はあんたに小説家は荷が重いよだった。

 アガサ・クリスティになりたいと大言壮語を吐いていればそう言われるのも仕方ない。ミステリの女王を超えることなど誰も出来ない。コナン・ドイルを超えると莫迦げた目標をクラスメイトが口にするようなものだ。オリジナルには勝てないのだ。

 勝てないからこそブランディングを皆する。そうでないと自分の才能の底を見てしまい、絶望するからだ。尊敬するのは自由だが憧れ過ぎてはならない。程度が知れてしまう。

 美耶子は救いようがない人間なので今もなおクリスティを超える作家になれると本気で考えている。その結果が鳴かず飛ばずの有様。

 鬼灯が担当になってから十年になろうとしている。

 前任の担当者は別の部署に異動になってしまい、入れ替わりで彼女になった。

 鬼灯と組むようになってから快作が書けていない。今の美耶子は二十代前半に積み上げた貯金だけでどうにか仕事をもらっている状態。何時何時、出版社から三行半を突きつけられるか戦々恐々の日々を送っている。

 そこに姪との同居生活。考えることが山積みで上手いこと回転させられていない。

 不甲斐ない自分が悪い。ウェンズデーは何ひとつ悪くない。

 彼女を引き受けると言い出したのも美耶子だ。姉の子どもというのもあったし、盥回しされるくらいであれば自分と住むほうが不自由ないと思ったからだった。その時は景気も良かったからひとりくらい余裕で養えると見通しの甘さが露呈した。

 売り上げはみるみる減っていく。

 作家としてのピークは疾うに過ぎてしまった。このあとは下っていくだけ。ここから再起は難しいと睨んでいる。

 美耶子の考えとは裏腹に鬼灯はちがった。

 ヒット作を出版していないのがどうしてもあるのだろう。美耶子にチャンスを与えて、面白い作品を世に送り出したい気持ちで一杯だった。

 美耶子もヒット作を出し、嘗ての栄華を取り戻したいとは思うが脳は衰える一方。面白いアイデアが思いつかない。思いついたとしてもそのアイデアは過去のものと化しているか、焼き直しでしかない。

 誰もがあっと驚くような斬新なアイデアなど今の城田美耶子から湧き出て来ない。

 油田どころか温泉すら湧かない。

「遅々として進んでいません」美耶子はばつが悪そうに言う。鬼灯に会う度にこのセリフを吐いている。数えることすらしなくなった。名刺代わりになってしまったことをもっと恥じるべきなのだが、慣れは怖ろしい。

「そうですか。書きかたを改めて見る時期に来ているのかもしれません」

「プロットに頼るなと言いたいんですか」悪魔みたいな発言をする鬼灯に美耶子は唖然とする。プロットが面白くないからと暗に言われている。それが駄目であれば、見切り発車で書けとこの編集者は言いたいようだ。そんな悪夢を彼女が出来るはずがない。この十五年間、只管にプロットを作り続けた来た彼女に今になってスタイルを変更することなど無理に等しい。

 鬼だ。苗字のとおりに鬼だ。

「プロットに依存しているから、快作が生まれないのではないかと」鬼灯は言った。彼女のアドバイスどおりに行った試しは一度もない。焦りがあるのかもしれない。同僚が次々と名作を出版、担当作家が売れていく様を傍で見ていれば、自分も彼らに続きたいと思うのも無理からぬ話。そうなら、編集長に外してもらうように言えば良いだけなのだが、彼女もなかなかに意固地な性格をしているので何としてでも城田美耶子を再起させたい。それに前任者に美耶子を頼むと言われた手前、梯子を外すわけにも行かない。

 責任感が強いのだ。鬼灯要という女性は。

「でも私はこれまでこのやりかたで作品を書き上げて来たんです。いまさらスタイル変更はしたくありません」あとは変えたところで面白い小説が書けるようになるはずがない。魔法めいたことが起こるわけがないのを知っている。「ミステリではないジャンルに挑戦するのもありだと思うんです」

「確かにそうかもしれないですね」鬼灯は頷く。表情は納得していない。「過去に書いたミステリ以外の小説の売れ行き、知っていますよね?」

「……はい」

「過去に出版した『レイニーウーマン・サニーボーイ』、『アトラスの壁画』、『最上の訪問者』。そのどれもが五百部を下回っています。『レイニーウーマン・サニーボーイ』に到っては百部に到達すらしませんでした。城田美耶子史上最低の売り上げを記録しています。お解りだと思いますが、城田さんは恋愛小説を書ける能力は欠如しているんです。青春小説にしてもそうです」厳しい言葉を浴びせる鬼灯。

 彼女が挙げた三作品は美耶子が書きたいと編集部に直談判して書かせてもらった珠玉の作品たちになる予定だった、なれの果て。普通であれば一作目が当たらなければ、次なる作品を出版させてもらえないのだが、景気がいい状態の美耶子であれば、挽回してくれるだろうと編集部の甘さで書かせてもらったに過ぎない。

 二作目、三作目と駄作と言って差し支えない作品を出版し、彼女はファンのみならず批評家に酷評を受けた。編集部もだが編集者も傷口が広がる前に美耶子を説得していれば、形はちがっていたのかもしれないが、見通しの甘さがさらなる悲劇を生み出してしまった。

「ミステリだけ書いていくことなど私は出来ません」美耶子は言った。「なかにはミステリ一本で世界を広げている作家さんが多くおられますが、クリスティになれないのです。ですから別のジャンルで頭角を現す他にないのです」

 懸命な美耶子の主張は鬼灯には響かなかった。むしろ、何を言っているんだこの人と思われた。見通しが甘かったのは彼女だけでなく、美耶子もまたそうだった。

 クリスティを超えると宣言していなければ彼女はミステリを書き続けていたかもしれない。

「甘い考えを改めるべきです」鬼灯は冷静な口調で言う。「城田美耶子の魅力を最大限活かせるのは、ミステリです。その考えを改めるつもりはありません。確かにアガサ・クリスティになれませんが、メアリー・キャッスルではなく城田美耶子になれるではありませんか。他の人がどれだけ血の滲むような努力を続けても、城田美耶子になれないんです。貴女の紡ぐ物語は読者を素晴らしい世界に連れて行けるだけの筆力と没入感を与える確かな能力があることだけは忘れないでください」

 鬼灯の熱いプレゼンで幕引きとなった。打ち合わせをまともにしたのは果たして何時だろうと思いながら、出版社をあとにした。

 祖母からもらった懐中時計に視線を落とす。

 午後三時を過ぎたばかりだった。顧問弁護士の久坂部とは一時間後に会う予定となっている。

 それまで喫茶店で時間を潰すことにした。


 久坂部法律事務所を訪れるのは今般がはじめて、というより、弁護士事務所に足を踏み入れること自体初体験。『LAW&ORDER』みたいな小説を書いたことがある。あの時は大学で法律を学んでいたこともあったし、インターンで経験していたので取材の必要が無かった。イギリスを舞台だったのも相俟って、日本の法曹界の仕組みを知る機会は訪れなかった。

 それが姪の一件で敷居を跨ぐことになるとは美耶子は思いもしなかった。

 久坂部草薙は還暦間近の年齢は髪は真っ白で所々が薄くなっている。皺とシミが目立ち、黒縁眼鏡を掛けているが元々の眼が小さいので見えているか不安になる。

 それでいて仕立ての良いスーツに身を包んでいるからちぐはぐな印象を受ける。

 応接間にとおされた。受付の女性がお盆に湯呑とお茶請けを携えて現れた。若いと言っても美耶子とそう変わらないように見える。地味な印象を受けた。

「ご用件というのは」低い声だった。顔と声が一致しない。何処までもちぐはぐだ。

「返事をしようと思ったのですが、期日が過ぎてしまいまして。案内状に期日過ぎてしまった場合は顧問弁護士若しくは顧問探偵まで連絡と記載されていましたので」

「なる程。それでわたくしを訪ねたのですね」久坂部は破顔する。皺がさらに増える。これまでの人生が顔に深く刻み込まれているようだ。「老人を訪ねなくとも、上江院くんに頼めば良かったではありませんか」

「当の顧問探偵を存じ上げないので、久坂部さんにと思ったんです」美耶子は言った。久坂部は眼鏡の奥の眼を丸くした。意外に思われたらしい。

「上江院くんのことは一族にお伝えしたはずですが、そうですか、ウェンズデーお嬢様にまで通達が行っていなかったのですね。それはわたくしに落ち度です」久坂部は薄い髪の毛を掻く。「顧問探偵と打ち出していますけど、要はわたくしの後任です」

「後任? 引退されるのですか?」美耶子は尋ねる。ウェンズデーはこのことを知っているか気になったが、顧問探偵の存在を認知していなかったのだ知るはずがないか。

「もう年齢が年齢ですし、病気を患いまして。もう長くないのですよ」久坂部は言った。「後任を探さなくてはならなくなりましてね。わたくしの持てる人脈を駆使して見付けたのが彼です」

「そうだったんですか。上江院さんは弁護士の資格を有しているのですか?」

「いいえ。彼は私立探偵です」久坂部は言った。職業探偵なのに何故持って回った言いかたをしたんだ、この人は。話しかたまでもちぐはぐなようだ。「弁護士資格はありませんが優秀な人材であることに変わりはありません」

「一族のかたは納得されたのですか? 久坂部さんの後任となりますと、それなりに重圧な気もしますが」

「そうでもないでしょう。まあ亜津馬の顧問弁護士は代々、久坂部家の人間が務めるならわしですから、反発されるかたもいましたがどうにか説得しました」

「貴方の代でその伝統を打ち止めにする、ということではないですか?」

「そういうことになりますな」久坂部は乾いた笑いをする。「わたくしは結婚していないので倅はいないのですよ。どうしても後任は新しい人間に必然的になりますでしょう」

 そういうものなのだろう。美耶子にはそこら辺の内情は判らない。一族から反発があったことからも久坂部は信頼を寄せられていた事実は揺るがない。ウェンズデーも有無を言わさずに相談事があるなら、久坂部を頼れと言っていた。

 頼れる久坂部が一族から離れるのは一大事ではないだろうか。いくら久坂部のお墨付きがあろうと関係ないように思う。

「ところで貴女をどうお呼びすれば良いですかな」唐突に久坂部は言った。

「久坂部さんにお任せします」美耶子は言った。正直、筆名、本名であろうと呼びかたに執着はない。土壌に則るのであれば城田美耶子が適しているだけで。

「それでは城田さん」久坂部は筆名を選択した。慣れ親しんだ名前ではあるが、初対面の人間からその名前で呼ばれると背中が痒くなる。自分もなかなかにちぐはぐだなと自覚する。「一族が集結なされる顔合わせに出席するで良いですね?」

「はい」美耶子は頷く。「姪にこっぴどく叱られまして」

「本家の唯一の生き残りですからね。出席されないと話が進みませんから」

「日本でもそうなのですね」美耶子は言う。キャッスル家は亜津馬家ほど裕福な家柄ではないにせよ、上流階級に当たるので生活に困ったことはない。姉妹揃って名門大学に入学させてもらった。美耶子は在学中に作家デビューを果たしている。イギリス時代は本名で活動していた。大学卒業を機に拠点を日本に移した。意味はなかった。姉が日本に行くから彼女もついて行っただけの話。日本でも作家活動出来るとは思っていなかった。懇意にしている編集者が日本の出版社と仲を取り持ってくれたお陰でこうして城田美耶子として小説を書けている。

 恩義はあるからこそ下手なことは出来ないと頭では理解しているが、上手に事は運ばない。

「国がちがえどやることなすことに変わりはありませんよ」久坂部は言った。「遺産分与が主でしょうからなおさら、ウェンズデーお嬢様は出席せねばならないでしょうね」

「姪は分家の人たちに相続させたくないような趣旨の発言をしていました」

「中立な立場のわたくしが憚れるような発言をするのは良くないのですが、そうですね。分家のかたがたは皆、当主の座を狙っています。かれこれ六年になりますか。未だに当主の席が空白なのは清彦様の意向ですから仕様がありませんが、彼らは今か今かと待ち望んでいます。仮にウェンズデー様の欠席が露見すれば血で血を争う抗争が勃発すると危惧しています」

「−−それで委任されたのがこの僕というわけだ」何処からともなく声がした。振り返ると奇妙な出立のおとこが立っていた。

 燕尾服にシルクハット、右手には杖。

 マジシャンにしか見えない。

 このおとこが久坂部が言っていた顧問探偵なのかと懐疑的な視線を美耶子は向ける。

「すいません、主任。止めたのですが」

「構いませんよ。呼び出したのはわたくしですから」久坂部は言った。「遅刻癖は直して欲しいところですけどね。城田さん、彼が顧問探偵の上江院傑くんです」

「甲斐甲斐しい紹介を有難う、久坂部氏。申し遅れました。わたしめが亜津馬家の顧問探偵をは拝された上江院傑です」シルクハットを華麗に扱う。鳩が飛び立っても違和感はない。「貴女が小泉八雲ですね?」

「ちがいます」強ち間違ってはいない。「城田美耶子です。ウェンズデーの叔母です」

「ウェンズデー嬢の。ははーん。欠席の申し開きに来たと」

「ちがいます。返事の期日が過ぎてしまったので相談に上がったのです」

「流暢な日本語に感服しますな。日本語を操る日本人でさえもあやふやな言葉遣いのかたが散見されるというのに欧州圏の人間が日本人顔負けの言語能力を披露されると、頭が上がりませんな」

「この人、レイシストなんですか」

「差別意識というのは差別という単語を頭に思いうかべたその時点で十分に差別に値する」上江院は言った。「無意識意識問わず、人間は元来差別から逃げられない生物なのだ。それなのに御託を並べて差別は良くないだなどと抜かす。片腹痛いとは正にこのこと」

「立っていないで君も座ったらどうだい」久坂部に促されるままに上江院は不機嫌な顔をして久坂部の隣に腰を下ろす。演説を邪魔されたのが気に食わないらしい。

「気持ち良く話しているところを遮るのはあるまじき行為だ」邪魔されたことを不満に思っていた。「僕が呼ばれた理由は何だ」

「自分で言っていませんでしたか?」美耶子は言う。

「何も言っていないが」上江院は怪訝な顔をする。「変なかただ」

 変はどちらだと美耶子は思った。

「まあまあ」久坂部は宥める。元はと言えば貴方の所為ではと思わなくもない。「彼を雇ったもうひとつの理由は護衛です」

「護衛?」

「先刻、話したように血で血を争う事態を危惧していますので万が一に備え、彼を雇用したのです。後任も兼ねてはいますが」久坂部は言った。

「遺言状如何によっては殺人めいたことが起きかねないと」

「起きかねないのではない。間違いなく起こると僕は予想している」

 その自信はいったい何処から来るんだ。

「未然に防ぐための意味合いもあるんですか」

「防いでどうする。僕の立場がないではないか」心外だと言わんばかりの発言をする顧問探偵に不安を覚える美耶子だった。「僕としては欠席を強く勧める」

「理屈ではそうなるでしょうけど、本家の人間がいないと危険であることに変わりはないように思います」

「汚い大人の一面を子どもに見せてどうする」上江院は言った。「何も知らないままう悠々自適に暮らせばいいじゃないか。そのために僕がいるんだ」

「丸く収めてくれるんですか、貴方が」

「何を根拠に丸くと言うか解釈が別れそうだが、少なくとも遺産と地位にしか眼がない野郎にくれてやるものはない。遺産は凡て彼女に渡すと約束しよう」

「姪は−−ウェンズデーは出席すると言うと思います。本家の人間として矢面に立つと決めているはずです」美耶子は言った。彼女の意思は尊重したい。

「受容しよう」上江院は言った。「その代わり、僕の傍を離れるな。そして君は何が何でも姪を守る抜くと誓え」

 そんなの言われなくてもするつもりだ。ウェンズデーの保護者であるのだから。

 何より姉の子ども。

「誓います」美耶子は言った。

「楽しくなりそうだ」上江院は立ち上がり、応接間を出て行った。

「それでは日取りですが……」

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