第21話 睇視するアポローン

 突然泣き出した美月の話は衝撃的で、俺は非現実な世界に迷い込んだのかと錯覚した。

 さっきまでから続く変わらぬ現実だ、と理解するにつれて、自分の中にざらざらとした攻撃的な感情が増殖していく。

 シャンパンを飲み過ぎて幾分酔っているからかもしれない。

 今まで見たことのない凶暴な「別の自分」に俺自身を奪われるかのように、胸がざわついた。


 この春から勤務している、渡邉という理科教師が、ハロウィンパーティーのどさくさに美月を人目のつかないところへ連れ出し、身体を触るなど如何わしいことをした。

 渡邉の授業があるのは3年生だけで、接点がない2年生の美月にだ。

 すぐにでも学校へ訴えて辞めさせる、そう思った俺を止めたのは美月だった。

 助けてくれた3年生の助言らしい。

 その3年生だってどっち側か分かったもんじゃないが、訴えでることが美月をいたずらに傷付けるのは確かだと気づいた。


 美月のために、どうするのが一番なのか。

 完全に心の平静を失っている自分を、どうしたら落ち着かせられるのか。

 考えるのに必死で、目の前の美月が見えなくなっていた俺を、美月のスマートフォンの着信音が我に返らせた。

 例の3年生が美月を案じてメッセージをくれたらしい。


「秀ちゃんに話せたからもう大丈夫! って返事しとくね! 私、秀ちゃんが味方でいてくれるだけで、絶対負けないんだ」ってぎこちなく笑った美月が辛かった。

 うん、大丈夫だよ。俺が守ってやるから、だから今日はもうゆっくり休め、と余裕ぶって見せたけれど、内心は不甲斐なさで爆発しそうだった。


 美月は折角だからとデザートタイムを再開させ、片付けた後風呂へ行った。

 もっとちゃんと細かく聞くべきだったか。

 男の俺より、母さんと話した方が良かったか……。

 両親に話すべきだろうか、話したら両親ならどうするだろう……。

 迷いばかりが生まれて、出口を見つけられそうにない。


「くそっ……」


 苛立つ気持ちを誤魔化すようにパンプキンパイを食べた時、一緒に作ってくれた教授の奥さんとの話をふと思い出した。



 お風呂を出てから、なんとなく気まずくて、秀平に声をかけないまま、美月は自分の部屋のベッドに潜り込んでいた。

 渡邉のことをなんとか話し終えた後、顔を上げて秀平を見た美月は愕然とした。

 秀平の顔は青白く、触れるもの全てを滅ぼしそうな残虐さを放っていた。


 こんな怖い秀ちゃん……見たことない……。


 明日にでも学校へ訴え出よう。そんなやつ直ぐに辞めさせてやる、と言った形相は鬼神のようで、「やっぱりダメだ、秀ちゃんまで誤解されてしまう」と美月は思った。

 金井栞との話を持ち出して思いとどまっては貰ったけれど、秀平は全然美月の方を見ないで黙っていた。

 助けてと言ったり、学校に言うのはダメだと言ったり、身勝手なことを言って困らせてしまった、と美月は後悔した。


 金井さんは私が悪いわけではないと言ってくれたけれど、私がもっと気をつけてさえいれば避けられたことで、問題にもならないことじゃないか。

 秀ちゃんは優しいから言わないけれど、こんなことを引き起こしてしまった私の不用意さにも怒っているかもしれない。


 そんな自責の念にばかり駆られていた。

 

 ベッドに入ってからも眠れずにいると、ドアをノックする音と「美月、入っていいか?」と秀平の声がした。

 「いいよ」と美月が答えると、寝間着の上に防寒着を羽織った秀平が羽毛布団を抱えて入ってきた。


「……美月が寝付くまで、側にいてもいいかな……?」


「秀ちゃん……」


 美月は寝てる位置をずらし、ベッドに秀平の座れるスペースを作ることで返事のかわりにした。秀平はそっと美月の横に座り込むと、布団にくるまり壁にもたれ掛かった。


「秀ちゃん、寒くない?」


「大丈夫だよ」


 秀平は微笑むと美月の頭をそっと撫でた。


「大丈夫だから……ゆっくりおやすみ……」


 いつもの秀ちゃんだ……っ


 美月は安堵で目が潤むのを感じた。

 頭を撫でる手が、優しくて、心地よい。


 こんな私・・・・でも、甘えるのを許してくれるんだね。


「秀ちゃん……手、握って寝てもいい?」


「うん。いいよ……」


 秀平は撫でていた手を美月の横へ置いた。

 美月は両手で秀平の手を包むと、顔を寄せて目を閉じた。

 目を閉じると、いろんなことが思い出されて頭を回る。

 シャワーでも、熱い湯船のお湯でも、洗い流せなかった触られた感触もよみがえってくる。そういう嫌な記憶すべてを秀平の指の温かさで吹き消そうと、美月は指先の感覚に集中した。


 身体の触られたところすべてを、秀ちゃんに撫でて貰ったら、気持ち悪い感触が上書きされて忘れられるんじゃないか、ふとそんな考えが浮かんだ。

 でもすぐ、そんなことを考えてしまうような私だから誤解されたりするんだ、と否定する。

 秀ちゃんに甘えるのはもう減らさなきゃいけない。

 今はまだ無理でも、いつかは甘えなくても大丈夫なように。

 強くならなきゃ、と美月は思っていた。


 『王子様だっけ……?』

 渡邉の纏わりつくような声が脳内でこだまする。

 美月はその記憶も消そうと必死で目を瞑る。


 秀ちゃんは王子様なんかじゃない。


 高潔で、毅然としてて、強くて優しくて、例えるなら騎士の方がしっくりくる。

 美月は香鈴奈がよく使う表現が一番的確に思えて好きだった。

 『守護神ガーディアン


 これ以上秀ちゃんに迷惑はかけたくない。

 誰にも、例え噂でだって、秀ちゃんをけがされたくない。


 とりとめのない思考の連鎖が、美月の頭の中で繰り返されていく。

 なかなか眠れないけれど、秀平の手はずっと美月の手の中にあって。

 その温かさを感じる度に、心も思考も落ち着いていく。

 このまま一生眠れなくても、きっと、この手はずっと美月を癒してくれる。

 美月の意識は徐々に、心地好い温かさに沈んで行った。

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