第17話 名前(別視点)

 ベッドに横たわるアウラの傍に、マーヴィの姿があった。

 彼女を見下ろす黒い瞳には、口惜しさと後悔が滲んでいる。


(何故、倒れるまで気づかなかったんだ……)


 頑張り過ぎてしまうアウラの体調には、人一倍気を遣っているつもりだったのに。


 アウラはいつも、何かに急かされているかのように、自分に出来ることはないかと声を掛けてきた。この地には心身を癒やすためにやってきたのだからゆっくりすればいいと何度言っても、彼女は聞かなかった。


 彼女が必要以上に人に尽くそうとする理由は、ダグとアウラの関係、そして旅の間に聞いた故郷での立場から何となく察している。


「私が役に立たないのは、本当のことですから。だから……もっともっと頑張らなくちゃ」


 そう笑う彼女を思い出し、奥歯を噛みしめた。それ以上何も言えなかったあのときの自分が、腹立たしい。


(ダグや故郷の人間たちに、役に立たなければ価値はないと言われ続けたせいで、そう思い込んでいるのだろうな)


 そんなことをしなくとも、アウラはアウラのままで十分価値のある存在であるというのに。


(少なくとも、俺にとっては……)


 その時、アウラが身じろぎをした。額に乗っていた熱冷まし用のタオルが落ちる。その表情は苦悶に満ちていて、額には脂汗が滲んでいた。


 体が辛いのかと思い、落ちたタオルを濡らそうと水の入った桶に入れた。しかし中の水は温くなっていて、水を替えてこなければならないと小さく舌打ちをする。


 今は片時も、ここを離れたくはないのに。


 だが仕方がない。

 濡れたタオルを彼女の額に戻し、桶の中の水を替えようと腰を浮かせたとき、アウラの唇が動いた。


「……ダグ」


 唇から紡がれた名。

 それはかつて彼女が愛した男の名だ。


 マーヴィの体から血の気が引き、胸の辺りが冷たくなっていくのが分かった。心臓が大きく音を立て、頭の中でドクドクと鳴っている。


(まだ……ダグのことを……)


 全身から力が抜けた。

 ストンと椅子に落ちるように座ると、前屈みになって両手で顔を覆い、胸の奥に詰まった何かを吐き出すように長く息を吐いた。


(始めから分かっていたはずだ……彼女の心に、あの男が残り続けることなんて……)


 アウラはダグのことを本当に愛していた。それは三年間、ともに旅をしていて幾度となく思い知らされた事実だ。


 どれだけダグがアウラを叱咤しても、理不尽な怒りをぶつけても、愛しているからこそ全てを受け入れてきた彼女なのだ。


 割り切ったと口では言っていたが、元婚約者が夢に出て来ても不思議ではない。


 分かっている。

 理性では分かっている。


 この地に連れてきたときから、覚悟していたというのに――


 胸の前で組まれたアウラの手に、自身の手を重ねた。彼女の冷たい手を少しでも温めたくてそっと包み込むと、喉の奥から声を絞り出した。


「……アウラ」


(俺では、ダグの代わりにはなれないか?)


 アウラの手を握り俯いたまま、マーヴィは動かなかった。


 どれだけの時間、こうしていたかは分からない。

 マーヴィは肩の力を抜くと、顔を上げた。


 眠り続けるアウラの顔を見て、片眉をあげる。


 眠っている彼女の顔が、先ほどとは違い穏やかな表情を浮かべていたからだ。

 ようやく体調が良くなってきたのだろうか。マーヴィの体温が移ったからか、彼女の手もほんのり温かくなっていた。


 額に浮かぶ汗を見て、桶の中の水を替える必要があったことを思い出す。マーヴィは立ち上がると桶を抱えて部屋の外に出た。


 アウラの体調が良くなってきたことは喜ばしいことだ。

 しかし、マーヴィの胸の中で渦巻く暗い気持ちは、鉛のような重さとなって鳩尾辺りに鎮座していた。


 ◇


 部屋に戻ると、アウラが起きていた。


 顔色は明らかに良くなっていた。いや単純に体調が良くなったというよりかは、精神的に気持ちが晴れ晴れしているように見える。


(ダグの夢を見たからか?)


 元気になって良かったと思う反面、グラグラと湧き立つ醜い独占欲に、自分の心が侵食さていくのを感じた。


 アウラは必死に謝罪していた。

 もちろん謝罪など必要ない。こちらが彼女に負担をかけた結果なのだから。


 しばらく神聖魔法を禁止するなど強いことを言ってしまったが、アウラは大人しく了承してくれたため、ホッとした。


 体調面はこれで大丈夫だろう。


 そうなると今度は、マーヴィの心を重くしている件が気になって仕方なかった。


 聞くべきではない。

 さらに自分の心を傷つけてどうする。


 そう理性が叫んでいるが、一度口を開いたが最後、発言を止めることは出来なかった。


「……ところでうなされていたようだが……その、大丈夫か?」

「えっ? 私、うなされていましたか?」


 どうやらアウラは気付いていなかったらしい。ダグの名を呼んでいたことを伝えると、アウラの顔が真っ赤になった。


 その反応を見て察する。


 自分の予想は正しかったのだと。


「い、いや! あんたとダグは長い付き合いだ! そう簡単に忘れられるとは思っていない! 夢に出て来ても仕方ないというか……」


 恥ずかしそうに両手で顔を隠すアウラに向かって、慌てて理解を示す発言をしたが、言葉を口にするたびに、自分の中にある何かが削られていくような気分だ。


 最悪。


 今の自分の気持ちを表す端的な単語が、頭の中をグルグル回る。 


 しかし、

 

「ちょ、ちょっと待ってください! マーヴィさん、その言い方だとまるで私が、ダグのことが恋しくて夢に見たって思ってませんか⁉」


 アウラの言葉によって、鳩尾にあった重みがスッと軽くなり、気持ちが急に前を向いた。


 彼女は説明してくれた。


 ダグに別れを告げられる悪夢で苦しんでいたことを。

 夢の中でも言い返せずに、自分を責めていたことを。


「だけど――今日の夢は少しだけいつもと違ってて……どこからか私の名前を呼ぶ声がしたんです」


 名前を呼ぶ声、という発言に心臓が大きく跳ね上がった。


(まさか……アウラが眠っているときに俺が名前を呼んだのが、聞こえていて……)


 ただ名前を呼んだだけだ。自分が呼んだとバレても、何一つやましいことはない。


 なのに心臓が早鐘を打つように激しく脈打っている。

 口の中がカラカラになっているのを感じながら、マーヴィは訊ねた。


「……声? 誰の?」

「え? ちょっとそこまでは分かりませんけど……」


 安堵から、ドッと疲れが出た。

 安心しているのだが、僅かに、残念に思っている自分がいた。そんな自分の女々しさを、心の中で苦笑する。


 マーヴィの悩みなど全く気付かずに、アウラは夢の中でダグに言い返せたと嬉しそうに語っていた。そして、


「はい! 少しずつですけど私、立ち直ることが出来てるみたいです。これも全部……マーヴィさんのお陰です」


 と突然礼を言われ、再び心臓が大きく跳ね上がった。

 先ほどの緊張の再来だ。


「い、いや、さっき誰の声か分からないって……」


 やはりバレたのか? と体を強張らせるマーヴィ。

 だがアウラは、不思議そうに彼を見つめながら首を傾げた。


「ん? 何のことですか? あなたが私をこの地に連れてきてくださったお陰で、少しずつ心の傷が癒えているってことですよ?」

「ああ、そっち……か」


 あまりにも意識しすぎている自分が恥ずかしい。


(確かにタイミング的には、俺の言葉だった可能性も高いが……あくまで夢の話だ。その声自体がアウラの夢や幻聴だった可能性だってある)


 だがもし自分の声だったら。

 自分の声が、少しでも彼女の心の傷を癒やせたのなら。


 そして癒えた心の片隅でいい。

 自分を、置いて貰えたなら――


 叶わない願望だと分かっていても、そう思わずにはいられなかった。

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