魔怪僧

七瀬 憑依

本篇 




 ランプの光をありありと照らし、その光だけを頼りに筆を持ちながら、一途に目を凝らし書机に向かう一人の死に損ないが居た。


 自分は自分で言うのも烏滸がましい程、可哀想で愚かな人間であるが、その人生のレールを今までのうのうと進んできた。進んできた、という​ように自分は人生の幕を今日で降ろそうかと考え、今受領人不明の遺書を書こうとしている最中であった。

 襖の奥でこの頃顔色悪く寝ているあいつを頭の中で想起させ、自分は微塵も動かなかった筆を走らせようとする姿は余りに醜悪。顔を歪ませていることは自明の理であろう。


「どうせ最期なのだ。逝く時に走馬灯が起こらなかったら大変だ、さっさと人生の反省会でもしながら書こうかね」

 と、虚空に向かって小声で対話を試みながら封筒に名を書き終えた自分は白紙に筆を置き、滑らかに動かす。否、動かすことは叶わなかった。己という人間はつい先日、あいつに覚悟を貰い、今この寝間に居る。幾らでも考える時間はあった筈、自分はゆったりとした今節の間、覚悟をただ持っているだけの木偶の坊だったのでは無いかと思うと、何故か胸が張り裂けそうになっていたのだった。これは日が落ちてから幾許か経った辺りのことであった。

 

 硯に墨を擦り、墨汁を作り筆を溜まりに落とす。いつになく柔らかにそれを削る様子は何かその時間を味わい尽くすような、堪能するような心情を想像させる。




 元来、自分は精進という道を選び、家の方針に背いた背信者である。その孤独な人間に今まで接してくれたのは他でもないあいつだけであった。家を飛び出し、貧窮する自分にとってその天からの蜘蛛の糸が如き救済は自分を精進させる端緒たんちょへと変えていった。ひたすら励み、己の欲望を叶えようと足掻き続ける日々。

 気付けば、このあいつとお嬢さんが住む下宿に足を運び、寝食を共にする事になったのだ。


 お嬢さんはとても可憐で、撫子ナデシコのように美しく佇む様子は見る人の目を奪うモノであり、自分もその一人であった。馬鹿らしいかも知れないが、精進を忘れるくらいには魔性の虜になってしまっていたのだ。恋心と精進に板挟みになりながら、七三に頭を割いてお嬢さんに語り掛ける。

「話の続き、この部屋でしませんか」微笑む佳人と破顔する醜男。


 ここで気づけばよかったのだ。恋という感情は自分には有ってはならないということを。恋という名の偶像に従属し、隷属させられる下僕に成り下がってしまっていた事に気づかないまま。

 

 我を忘れ、集中を切らし、彼女を意識し、眼を回し、精進を片時も止めてしまった事に対する罪悪と自傷。それに頭を抱え、口元を弛ませ、息を荒くし心臓の鼓動をどくどくと鳴らす様子は、何か興味本位で偸盗ちゅうとうしてしまった餓鬼の脳漿のうしょうに感じる背徳感に近い。そこにはもう精進に対して一心不乱に研鑚を積む自分の鏡像は消えてなくなってしまっていた。


 人生は一人称の小説をただ朗読しているようなものだ。故にそれを俯瞰して見ることはできない。必ず、己の欲望や行動原理が邪魔してしまう為である。今思えば、自分は前者の道をただひたすらに歩んでしまったのかもしれない。しかし、自分は歩みを止めることはできない。それは今まで突き進んできた精進や覚悟までをも、人生その物を自分で否定することと同義であり、それは自分にとって耐え難い苦痛の道をこれから歩まなければならないという宿運しゅくうんだからだ。そう思うと、反吐が出そうになる。墨を染み込ませた筆を置く。脂汗を拭いてくれるような、自分を心配する人間はいない。孤独は慣れたものだ、辛いだけ。


「精神的に向上心の無い者は莫迦だ」    

「覚悟、───覚悟ならないこともない」


 どうしようもなく、生きる意義を見出せなくなった人間は仲間に相談し、激励や慰めによって自己肯定感を高めるものである。勿論話せる人がいればの話だが、自分には親友と呼べる人間、あいつは居てくれた。しかし上野で激情を吐露したあのときの御喋りは上を見た空の情景と共に強烈に​衝撃を受けた出来事だった。

 自分は恐らく、認めて欲しかったのだろう。頑張れなんて正義じみた言葉じゃない、ただおまえの言葉を聞いて、対話を重ねて、自分に絡みつく疑念や欲求を徐々に解いていくような、そんなありふれた自分の独白についてただ聞いてくれたら良かったのに。

 何故、おまえはあの時、自分が掴ませてくれた蜘蛛の糸を離してしまったんだ。その日の晩にされたおまえの話は何故かこれっぽっちも興味がなかった。背信者たる自分はその所以ゆえんを理解したくなかった。



 思慮している内に、墨汁が切れてしまった。遺書は脱稿だっこうしたが、思ったように上手くはいかない。自分が伝えられる最期の言葉だ。もういっそ適当でも構わないのか、とも考えたがそれは自分の腐りきった精神に反する気がして、自分は脱稿した遺書をくしゃくしゃにして棄てる。そして自分は墨の擦る音をまたすっすっと部屋に響かせるのだ。



 いや違う。お陰で自分の道をきっぱり言ってくれた彼に感謝するべきなのだろう。安易に無駄に迷惑に生きる人生をここで断ち切ってくれた。彼は恩人なのだ。彼は恩人なのだ。


 この一週間は自分にとって激情とは程遠い、何者にも囚われない穏やかな日々だった。毎日部屋に篭って精進をし、外に出ては草木などの自然に感謝する。お嬢さんや奥さんからも挨拶を頂けるようになり、自分はこれで良いのだ、と泰然自若に過ごしていた。穏やかにはいられない日も勿論あった。あいつがお嬢さんと結婚するという話を奥さんと話す内に聴いてしまったのだ。あいつの口からではないのかと疑問を抱きながら、素直に祝福をし、貧乏人の自分には親友の結婚祝いを何もあげられないことを哀しんだ。この話をされる前に、不可解な行動を幾つかあいつはとっていたが、そういうことかと自分を納得させる。


 天涯孤独という言葉は私の為に在るものなのかと一人で"わらった"。


「面白い生涯だった。私は人間として生きてはいけない」と、一言。


 筆を止める。ようやく自分の遺書が完成したのだ。おっそいなあと自分で嘆息しながら、遺書に向かって笑顔を浮かべる。自分の筆の走りが遅かったのか、振り返りすぎたのかもう朝日が昇っていた。自殺できなかったのだ、遺書だけ完成させて。


「まあいいや、明日やればいい。昨日も今日もする事はなんら変わらないからな」


 そうして、三枚の封筒を机の下に隠し、起き上がり、食事室に向かう。眼を擦りながら、上も下も少しくすんだ白色の服を着た自分は、食事室の一番手前に座り、誰かの起床を待つ。奥さんが来て、朝食の準備を始める。次に来た人はお嬢さん。お嬢さんは相変わらずの美貌を持った笑顔を矛に、自分の横を通り過ぎ活力ある声で奥さんに挨拶していた。そして最後に来たのは自分の親友のあいつだった。あいつがこっちに来ると自分はこう言ってやった。


「おはよう。今日は元気に眠れたか」と。

 満面の笑顔であいつを迎えてやったのだった。目元の隈を隠しきれないあいつを見て、何故か心が軽くなった自分はこの低俗で歪んだ気分を墓場まで持っていくと決めた。心の底ではどこかあざける自分が居るのは何故なのだろうか。




 さっきまで明るかった最後の太陽も沈み、曇った夜がやってくる。自分は書机のランプを照らしながら、襖の前までやってきた。自分は襖を少し開けてみることにした。

 あいつは寝ている。今日もまた寝付けないのか、うなされながら汗をびっしょりとかいているのが見て分かる。


「なあ、自分ってどんな人生だったんだろう。何が出来たのだろうかこの虚飾の青二才に。自分はきっとおまえが居てくれるんだと、そう思ってしまっていた。扶けてくれるんだと信じていたんだ。莫迦でごめん、どうやら君を赦せるような聖人ではないらしい」


 今にも泣きそうな、はたまたどす黒いどろっとした塊を吐き散らすような声で語りかける。返してくれるおまえはもういない。そう悟った自分はくそったれ、と吐き捨てながら自分で持っていたナイフで首を掻っ切り、孤独なはな垂らしの人生の幕はここで引く。そこには血に濡れた赤い赫いランプが独りでに暗く灯っているだけ………。


 なあんてね、と呟いた遺言は何処か構って欲しそうで、意地っ張りで、言い訳がましくて、魔女に絆された餓鬼のようで。虚言に塗りたくられた笑顔の奥では隠し切っていた純然たる"真実"が微かに顕れていたのだった。

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