切れて、紡いで、手繰って、結ぶ

笛吹ヒサコ

切れる

 プツン。

 赤い糸が切れた音が聞こえた。

 気のせいだ。糸切りバサミで赤い糸を切るのを目の当たりにしたから、そんな気がしただけ。

 気のせいだろうとそうでなかろうと、それは重要ではない。重要なのは、彼女の中で存在していたつながりが綺麗に消え失せたこと。

 もういっか。

 幼馴染のりょうの存在よりも、今は赤い糸から目が離せないでいる。


 ブレザーの袖のボタンが取れかかっていると声をかけてきたのは、三年生の柳アキラだった。入学して二ヶ月も経っていないすずでも知っている校内の有名人。

 彼女を簡潔に説明するなら、男子の制服が似合うオーラを放つ女子高生。中性的でクールで容姿が整っている。そこら辺の読モよりも美人かもしれない。

 そんな先輩に憧れる新入生は少なくない。すずもその一人。


 下校する生徒で賑わう昇降口から少し離れた廊下で唐突に声をかけられたと思ったら、ボタンが取れかかっているなんて恥ずかしすぎる。憧れの先輩ならなおさら。

 期待を胸に制服と対面したときにはもう袖口の校章入りのボタンが緩かったことくらい気がついていた。それでも機能性のないボタンだったでの問題なかったし、事実、指摘されるまですっかり忘れていた。

 これが憧れの先輩でなかったら、心のなかで余計なお世話と毒づいて、適当に笑ってやり過ごせた。

 どうしてこんなに恥ずかしいのか、よくわからない。異性の涼に対してだって、これほど恥ずかしい思いはしたことないというのに。

 顔を真っ赤にしてまごつく彼女にアキラ先輩は、


「来て」


 と言って、彼女の手を取った。

 その手を振り払うことなど考えつくはずもなく、すずはアキラ先輩に手を引かれていく。先輩の手は温かった。なんだか意外だった。

 渡り廊下を通って日当たりの悪い北校舎に来ると、急に人が少なくなった。

 そうしてすずが選択授業などで使用する無人の空き教室に連れ込まれるまで、会話らしい会話もなかった。すずはとにかく混乱し続けてたからだけれども、なぜかアキラ先輩も口を開かなかった。


「脱いで」

「……え?」


 ええぇ!!

 心のなかで絶叫するすずに、手近な机においたスクールバッグを開けていた先輩は顔を上げると困ったように眉尻を下げてた。


「ボタンを付け直してあげたいだけ。いじめたりしないから」

「そ、そうですよね。アハハハ」


 いじめられるとは微塵も思わなかったなら、なぜ心の中で叫んだのか。いったい、何を考えていたのか、冷静になってしまった今ではさっぱり思い出せない。

 とはいえ、


「こんなボタン取れても問題ないんで、先輩に直してもらうほどじゃないですよ」


 こんな初対面で親切な申し出をしてくれるなんて。でも先輩の手を煩わせたくない。

 機能性ゼロのボタンは始めから取れそうだったにもかかわらず、今日まで取れなかった。もしボタンが取れたら、すずはもちろん母を始めとした身内にボタンを付け直せる人はいないという問題は先送りしてもきっと大丈夫。幸い、この高校は校則が厳しいほうではない。ボタン一つくらい問題ないというすずの見立ては、あながち間違いではないのだ。

 おそらく、このまま申し出を断ったらもう二度と声をかけられることはないだろう。そんな予感がする。ここでグイグイいける女子なら先輩の好意に甘えるんだろうけどと、流されやすい自分が情けなくなった。

 心底申し訳なく落ち着かないすずに、スクールバッグを漁っていた先輩の手が止まる。


「あ、もしかして予定あった?」

「ないですけど……」


 だとしたら申し訳ないという顔をした先輩に、すずはそう言い返していた。

 嘘をついた。いや、厳密には嘘をついていない。

 入学当初から一日も欠かさず涼と登下校をともにしているのは、なんとなく自然とそうなっているだけで、約束をしているわけではないのだから。


「じゃあ遠慮しないで。ちゃっちゃとつけ直すから、ほら脱いで」


 せっかく与えてくれた逃げ道を自分で塞いでしまったすずは、おずおずとブレザーを脱いで差し出した。


「お願いします」

「こっちこそ、なんか急にごめんね」

「いえいえそんなことは……」


 アキラ先輩も強引だったことに自覚があったようで、申し訳なさそうにブレザーを受け取った。

 スクールバッグから取り出したのは、手のひらサイズのキャンディ缶のソーイングセット。それも、レトロ調の可愛いデザイン。

 立って見下ろしているのが気まずくて椅子にすごすごと腰を下ろした。


「あれ、黒がない」


 赤、白との糸はあるのに、黒がない。紺のブレザーにあわせるなら、黒が無難だったのに。わずかな逡巡の後に、先輩は赤い糸を手に取った。


「ねぇ赤でもいい?」

「全然いいです」


 糸の色など、どうでもよかった。むしろ、先輩がなぜそれほど申し訳なさそうなのかわからなかった。だいたい、要望など出せるはずもない。このときまでは、頭の片隅で今頃並んで帰路についていたはずの涼から連絡が来ているかもとスマホが気になっていた。先輩が赤い糸を切るまでのこと。

 首皮一枚で繋がっていたボタンを外してつけ直す。先輩は日常の一部とでもいわんばかりに自然に。

 ソーイングセットを持ち歩いているなんて意外だった。中性的な先輩は、自分よりもはるかに女子力が高いではないか。

 針を持つ手はほっそりとした女のそれだし、身長も変わらない――いや、すずのほうが若干高いかも知れない。それに胸も意外と――

 間近で見るアキラ先輩は、女子らしい女子だった。

 紺色の生地とボタンを赤い糸でしっかり繋がる過程が、すずの目にはとても新鮮で鮮やかだった。

 忘れられない。絶対に忘れられない。そう思った。

 くるくると糸を針に巻き付けて玉止めをして、再度赤い糸にハサミを入れる。


「できたよ」

「あ、ありがとうございます」


 返されたブレザーのボタンに触れると、他のどのボタンよりもしっかりと縫い付けられていた。

 この赤い糸は、きっと切れないだろう。

 確かめるように触れたボタンから、指先を離すのが難しい。

 そんなすずを横目に先輩はソーイングセットをしまったスクールバッグを肩にかける。


「いやいや、なんかいきなりごめんね」

「そんなこと……」


 遮るように「じゃあ」と言って、先輩は行ってしまった。

 一体何だったのだろうか。

 ボタンを付け直してくれたのは、本当にあのクールで中性的なかっこいいアキラ先輩だったのだろうか。夢でも見てるんじゃないか。


 涼を放置していたことに気がついたのは、帰宅した後だった。

 普段なら校門を出る前に解除するマナーモードのまま帰ってくるなんて、よほどほうけていたのだろう。見たこともない通知の数に、急に現実に引き戻された。

 一人で帰ったのは不思議なくらい自然だなことだったし、今までよく幼馴染とはいえ男子と登下校をともにしていたなとさえ思った。

 ルームウェアに着替えている間も、通知の数は増えていく。留守電は無視して、とりあえずベッドの上でメッセージアプリを開く。

 どこにいるのか、なにかあったのか、なにかトラブったのか……。次第になぜ一人で勝手なことをと責めるような内容に。

 なぜ幼馴染と行動をともにするのが当たり前だと思っていたのかなんて、自問自答するまでもない。両方の親も含めて周囲がすずと涼をお似合いのカップルだと早々に認定してきたからだ。正直、嫌ではなかった。彼は中学の中でも女子に人気があったし、男女問わず友達も多かった。コミュ力だけでなく、スポーツも勉強もできる。そんな彼のカノジョだと周囲が認識していることに、優越感すら抱いていた。涼もまんざらでもないようだった。

 なんて返したらいいものか。

 少なくとも高校を卒業するまで無縁ではいられないのだから、気まずくならないようになどと悶々とベッドに沈み込んでいたところに、”俺のこと嫌いになった?”の文字が。


”一緒に帰るって約束してたわけじゃないじゃん。それに、”


 そこで一度指を止めたけれども、すぐに続きを入力して送信した。


”私たち、恋人でもなんでもないでしょ”


 どっちも告ったりしなかったし、あえて関係を言葉にすることもなかった。手は繋いだことはあるけど、キスは恥ずかしさが大きくてできなかった。結局、恥ずかしさに負ける程度の想いだったのだと痛感する。

 涼にも思うところがあったのか、それからピタリとメッセージが止まった。


「アキラ先輩に、ちゃんとお礼したいな」


 天井に向かってこぼした願望に、このときはたいした意味はなかった。




 ひと月後。

 梅雨入りは来週の予報なのに、前日から雨が降り続く憂鬱な水曜日。帰りに立ち寄った駅前のショッピングモールで、


「アキラ先輩、ですよね?」


 すずがおそるおそる声をかけたのは、ライトブラウンのウェーブのセミロングをアーフアップにした白のレースブラウスにパステルピンクのフレアスカートの美少女だった。

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