第15話 おっぱい合戦

 あのう、と声がした。

 百地ももちのいかがわしい声や荒々しい鼻息がうるさくて——加えてハルも、無駄に柔らかくて良い匂いがする女体地獄から抜け出そうと必死に暴れていたのもあって——一瞬遅れてその声に気が付いた。

 横臥して、もみくちゃになっているハルと百地の頭上からの声だ。


「公共の場で男女の営みを始めないでほしいかな」


 毛先が無造作にカールした茶髪の女の子。新聞部の塩谷しおたにあやめだった。録音機を手に持っているところを見ると取材で情報室を訪れたのだろうか。丁度たった今、情報室から出てきたようだ。


「助けて塩谷さん! 変態に汚される」

「失礼ですね、百地は変態ではありません。ちょびっとだけ人より性欲が愛の暴走機関車なだけです」

「暴走している時点で『ちょびっと』ではない!」


 パシャ。不意に一瞬の光が放たれた。まばゆさに目を細める。撮られたと理解した時には塩谷はすでに百地に録音機を向けていた。


「殺人事件捜査中の刑事が、男子高校生に強制わいせつ」


 塩谷が見出しのような文言を唱えた。ハルは自分が脅されるわけではないと分かり、安堵する。反対に百地は慌ててハルから離れて「誤解です! ちょっと強引なだけのスキンシップです!」と言い訳にならない言い訳を並び立てた


 塩谷は百地を無視してハルに手を貸し、立ち上がらせると、ハルのズボンをパンパンはたき、ほこりを払った。面倒見が良いな、とハルはされるがまま立ち尽くす。


「ありがとう。塩谷さん。貞操の恩人だよ」

「『貞操の恩人』て、初めて聞くワードだよ。一生忘れないであろうパワーワードだよ」と塩谷は呆れながらもハルの襟の乱れを丁寧に直していく。やはり面倒見が良い。


「貞操にまで手を出すつもりはありませんでしたよ?! 耳たぶをはむはむする程度で抑えるつもりでしたよ?!」

「全然抑えられてない。暴走してるから。愛の暴走機関車、暴走してるから」と塩谷がハルの頭を撫でながら、百地に苦言を呈した。ハルはやっぱりされるがまま、立ち尽くす。頭を撫でるのと面倒見が良いのとは関係なくないか、と疑問に思いながらも立ち尽くす。


「むぅうううう! 百地のハル様に触らないでください!」「いつ僕が百地のものになった」


 百地は我慢の限界が来たのか、自慢のおっぱいを張りながら塩谷に飛びかかり、エビぞりのような体制で塩谷におっぱいを押し付けた。おっぱいアタックだ。塩谷もない胸で応戦する。

 『なんだ、その攻撃』とツッコみたいのを堪える。ツッコんだら最後、訳の分からない戦いにツッコミ役として巻き込まれることは目に見えていた。

 ハルは黙って百地と塩谷のおっぱい合戦をただただ眺めた。


 僕は何を見せられているのだろうか。おっぱいアタックって何なのか。

 ハルが我に返るには十分な時間が経過した。




「気は済んだ?」

「ゼェ、ハァ……はい」と百地。

「ハア、ハア……ま一応」と塩谷。


「で」とハルが言う。「江藤先生の不倫について何か分かったの?」


 塩谷が目を見張った。なんで、と言いたげである。


「見てたの? 私が江藤先生に取材しに行ったところ」

「いや。僕らも江藤先生に話を聞きに来たんだけど、断られてね。そのとき江藤先生が『どいつもこいつも』って言ってたから、他にも誰か来たのかと思っただけだよ」

「でも、なんでそれが私だって分かったの?」

「前に塩谷さんに会った時、不倫調査してるって言ってたじゃん。女性教師で不倫ができるほどモテる人は真里亜以外にはいない。とすると男性教師の不倫問題を調査している可能性が高いから、江藤先生かなって」


 塩谷が小さく「凄い」とつぶやく。


「もしかして、あの噂、本当だったんだ」塩谷が嬉しそうに言った。

「あの噂?」

「白石くんが殺人事件の捜査に協力してるって噂」


 ああ、とうなずきそうになり、すんでのところで止まった。

 果たして、言っても良いのだろうか。

 警察のメンツの問題もあるだろうし、ハルの関与が知られることで危険が増すことも考えられる。ハルは別に構わなかったが、ハルを警護する百地の負担が増えるのは良くないのではないか。ハルは百地を横目で見た。


「そうですよ。ハル様はすごいんです。どの刑事より優秀なんです。しかも可愛いし」と百地があっけらかんと言う。


 それでいいのか、百地警部補。

 ダメだ。何も考えていない顔をしている。

 ハルは百地の今後が少し心配になった。


「犯人、分かりそうなの?」塩谷が問う。


 そんな質問答えられるわけが——


「もう秒読み段階ですよ。ハル様にかかれば」


 んなわけない。

 相変わらず百地はテキトーなことしか言わない。

 だが、訳わからん回答で煙にまくのは良い手だ。こちらの情報は何一つ開示していないのだから。百地は素でやっているのだろうけど。


「それは頼もしい」塩谷は笑った。

「で、江藤先生は誰と不倫してたんだ? 生徒?」


 次はこちらの番、とばかりにハルが切り込む。江藤が事件に関与している可能性は高いとみていた。ハルとしても江藤の情報は集めておきたかった。


「それがね、断られちゃったんだ、取材。まぁ当然といえば当然だけど。自分の不倫についてペラペラ話すわけないよね」


 なはは、と塩谷が陽気に笑った。


「まさか、先生の不倫相手は誰ですかとでも聞いたのか?」

「いやいや。流石にそこまでバカじゃないよ。でも、恋愛観とか、現在の恋人はとか、そういうことは聞いた。そしたら、江藤先生、怒っちゃって」


 何故、その質問で怒るのか。

 おそらく何となく塩谷が聞きたがっていることに察しがついたのだろう。


「貧乳娘のせいで、ハル様は江藤に話が聞けなかったんですね。サイテーです」

「栄養がすべておっぱいに行ったせいで残念な脳みそになってしまった人に言われたくないな」


 再びおっぱい合戦が始まりそうな雰囲気に、慌ててハルが「ところで」と割り込んだ。


「ところで、塩谷はどこで江藤が不倫してるって情報を得たんだよ」


「そりゃあ……」一瞬、間を開けて、「新聞部ですから」塩谷がウインクする。ハルは少しドキッとした。顔に出ないように気を付ける。

「なんですか、その解答は。新聞部だからって、どんな秘密も暴けるっていうんですか」何故かケンカ腰に百地が煽った。

「情報源は秘密だよ。リーク元は守る、それが新聞部なんだよ」


 ふざけるなー、情報を開示しろー、とポンコツ政治家のようなヤジを飛ばす百地とは反対に、ハルはある程度、納得していた。情報提供者を守るという理由も理解できる。


「さて私そろそろ行くね」

「ああ。呼び止めて悪かったな」

「いや、呼び止められてないよ。男女の営みチックな活動に遭遇して止まらざるを得なかっただけだよ」

「そうだった。塩谷さん、貞操をありがとう」ハルが深々とお辞儀した。

「それだと私が白石くんに貞操をあげたみたいになってるよ」塩谷が明るく笑う。


 ふざけるなー、貧乳の貞操になど価値はなーい、貧乳はんたーい、と百地がさらにやかましく、ヤジを飛ばす。高校生に悪口を言い、尚且つ全く相手にされていない23歳。悲しい光景だ。


「じゃね」と塩谷は階段の方へと歩いて行った。


 塩谷の後ろ姿をなんとなしに眺める。

 結局、新しい情報はなし、か。憂鬱な気持ちを、塩谷の後ろ姿——カーディガンの上からでも分かる綺麗なくびれ——を鑑賞して、打ち消そうとしてみる。

 ——が、ダメだった。

 目は肥えてるんだよな、真里亜のせいで。

 真里亜の現状を思い出し、一層気が重くなった。


 ふと、ヤジがやんでいることに気が付いた。

 顔を向けると、百地が頬を膨らまし、ハルを睨んでいた


「何、貧乳娘の身体、ガン見してるんですかァ!」

「いや、見てないって」

「見てましたァ」

「見てないっつの」

「見てましたァ。鼻の下伸ばして見てましたァ!」


 ダメだ。百地が面倒くさい。酒飲んだ百地も面倒だったが、嫉妬に狂った百地も同じくらい面倒くさい。酔いつぶれて眠らないだけ、今の百地の方が面倒、まである。


「それに、百地知ってるんですからねェ!」腰に手を当てて、百地が言う。


「な、何をだよ」

「さっきあの貧乳娘がウインクしたとき、ハル様、一瞬ドキッとときめいてました。ときめきメモリアルでした」


 何故ばれた、と思ったのがまずかった。ツッコミ魂を燃やして『メモリアルではねぇよ』とでも思っておくべきだった。

 ハルはポーカーフェイスが得意な方ではない。

 案の定、


「はい今『何故ばれた』って顔してましたァー」


 百地に感づかれる。こういう時だけ百地の勘が冴えていた。


 「ズルいです、ズルいですぅ! ハル様には百地がいるのにィ! うわぁああああああん!」


 百地にポカポカ肩を叩かれる。叩き方は可愛いのに、威力は可愛くない。結構痛い。

 16歳の高校生に泣きつく23歳、百地桃子。

 ハルはより一層、百地の将来が心配になった。

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