第16話


「——きなさい」


「——おきなさいっ」


「空、起きなさいっ!」


 母さんの声に叩き起こされて、俺は自分が長い昼寝をしてしまっていたことに気がついた。変な体勢で眠っていたせいか、体のあちこちが痛いし、足の先はキンキンに冷えている。


「あんたのスマホ、ずっと鳴ってるわよ」

「へっ」

 俺は寝ぼけたまま、机の上に置きっぱなしのスマホを手に取った。時刻は22時。俺どんだけ寝てたんだよ……。

 怒っている母さんが部屋から出ていくと俺はベッドに座って通知欄を開く。


【黒谷ニコ 不在着信 10件】


「黒谷さん……?」


 最後の着信は1分前。俺は慌ててロックを解除するとメッセージアプリの通話機能をタップする。

 気の抜けた待機音が数秒流れると、慌てた様子の彼女が電話に出る。


「空君? よかった……」

「あの、どうしたの?」

「あのね、今日バイトでさ」

 彼女の後ろで陽気なBGMが流れているのが聞こえた。多分。コンビニのレジ奥にある事務所から通話をしているらしい。

「そうなんだ。どうしたの?」

「あのね、変なお客さんがいてさ。私のレジに何度も並んで今も店内にいるの」

 小声になると黒谷さんの声が震えているのがわかった。

「それって、例の不審者?」

「わからない。でも高校名言ってきて……ニヤニヤしながらわざわざ一個ずつ商品買うの。怖くて」

「お母さんは?」

「ママ、今日緊急で夜勤に出てるんだよね。だからその……迎えにきてほしくて」

「電話、ずっと出れなくてごめん」

「ほんとだよ……怖かったんだから」

「母さんに車、出してもらうからもう少し店で待ってて」

「ありがと、ねぇ電話繋いでてもいい?」

「うん」


 俺はスマホを持ったまま、リビングへ戻ると事態を母さんに伝えた。こう言う時、大人の力に頼るのは最善の策だ。もちろん、俺が彼女を1人で助けてヒーローになる可能性だってあるけれど一番最悪なパターンになることだけは絶対に避けなければならない。


「ニコちゃん? 大丈夫? 今おばちゃんと空が車で迎えにいくからね。お母さんにもメッセージしておくからね。大丈夫よ、店長は? 大人の人は一緒にいる?」

 母さんが「うんうん」と俺のスマホに耳を当てて相槌を打つ。その間に俺はコートを羽織って靴を履いた。

 母さんからスマホを受け取って通話先の黒谷さんに声をかける。

「平気?」

「うん、おばさんの声聞いたら少し安心したかも。けど、あいつコンビニ前にいるんだよね……どうしよう」

「裏口とかから出れる?」

「一応店からは見えない裏口がある。そこから店の裏っ側の路地に出れる」

「母さん、駅前のエイトの裏っ側の路地」

 マンションの駐車場、久々の車。

 俺は後部座席に乗り込んでシートベルトを急いで閉めた。母さんは風呂上がりだったようで髪は少し濡れていて車内が少しシャンプー臭かった。

「今、店長がキモい客に注意してくれてる」

「おっけ。こっちは向かってる。あと5分もしないで着くと思う。黒谷さん、他にバイト仲間は?」

「いる、今おんなじ22時上がりの先輩と一緒にいる」

 あぁ、もしかして後藤に因縁つけられたって言う大人しい系の先輩か。

「母さん、悪いけど……」

「わかってる。みんな送ってあげるから大丈夫よ」

 母さんの後ろ姿を今日ほど心強いと思ったことはない。小さい頃は誰にでも話しかけて、世話を焼く姿が恥ずかしいと思ったり辞めてほしいとも思ったりした。

「ありがとう」

「なんで空がお礼いうの。当然でしょ、ほらもう着くわよ」

 駅前コンビニの前、店長らしき男と言い争っている細身の男。顔はよく見えないがヤンキーっぽくはなかった。

 車はそのままコンビニ前を通り過ぎて裏側に回る。少し小さな路地に入り、車は止まった。俺はドアを開けてコンビニの裏口から歩いてくる二人組に手をあげて合図し、彼女たちが車に乗り込むまで後方を見守った。

 黒谷さんとバイトの先輩が後部座席に乗り込むと俺は助手席に座りシートベルトを閉めた。


「すみません、私まで」

 黒谷さんのバイトの先輩こと琴美ことみさんは俺たちに自己紹介をすると不安そうに声を震わせた。彼女は大学1年生で近くに一人暮らしをしているらしい。

「変なお客さん、怖かったね」

 琴美さんがそういうと黒谷さんが「うん」と返事をした。俺と2人でいる時とは違って少しクールな時の彼女だった。

「琴美ちゃん、彼氏かお友達は呼べる?」

 母さんがいつになく優しい声で言った。先ほど琴美さんから教えてもらった住所の方へ向かっている。こっちは確かに家族連れというよりも単身者マンションが多い地域だったな。

「はい。彼氏もアルバイト終わりにうちに来てくれるみたいで」

「時間、かかりそう? 彼氏がくるまでアパートの前で待ちましょうね。車の中にみんなで入れば怖くないからね」

 母さんは琴美さんのアパートの前で車をアイドリングにすると彼女たちの方に振り返り笑顔を向けた。

「うっ、うっ、ありがとうございます」

「怖かったね。変なお客さんだったの?」

 琴美さんは涙を拭きつつ、話してくれた。

「はい、最初は私にお箸の入れ方が雑だってクレームを入れてきて……レジ終わったのにまだ店の中にいるから怖くって……だからレジをニコちゃんに代わってもらったんです。そしたら、アイツ今度はニコちゃんに粘着して……」

 その後は黒谷さんから電話で聞いた通り、高校名を当ててきたりおかしなことを言って付き纏ったり……退勤間際の1時間彼女たちを恐怖に陥れたとのことだった。

 話をしてる時、終始怖がって泣いている琴美さんとは対照的に黒谷さんは冷静で落ち着いているように見えた。

「ほら、例のアンタたちが通っている高校生を狙っている不審者だったのかしら? ニコちゃん特徴は?」

「うーん、おばさん多分それは違うかも。だってさっきの客は明らかにキモい陰キャって感じでしたし……なんていうか店員・若い女っていう自分よりも明らかに弱い立場の人間にしかそういうことできない……みたいな」

 俺は先ほど例のコンビニ前で店長と言い争っていた男を思い出した。ほっそりした長身で一見普通の大人って感じ。服装は地味でヤンキー感はなかった。

 黒谷さんのいうように「店員で若い女」は自分に言い返してこない、謝ることしかできないことをわかって難癖をつけて粘着していたことを考えれば、学校で周知された不審者とは少し違うような気もする。

「だとしたら不審者がたくさん……いやねぇ。でも2人とも怖いのによく頑張ったわよ。もう大丈夫よ」

「おばさん、ありがとう」

「いいえ、あら彼氏さんかしら?」

 アパートの前でスマホ片手にキョロキョロとする若い青年をみて母さんがいうと琴美さんはやっと泣き止んで大きく頷いた。

「ありがとうございました」

「いいのよ、一人暮らしじゃ心細いだろうからいつでも頼ってね」

 琴美さんと彼氏さんが部屋の中に入っていくのを見守ってから母さんは「帰りましょうか」と明るく言った。


「あのさ……」

 黒谷さんは車が動き出す前に声を上げた。

「どうしたの、ニコちゃん」

「ごめん……ちょっとまだ怖くて。空君こっちに座ってくれる?」

「あ、あぁ、うん」

 俺は助手席から降りると後部座席に移動した。先ほどまで琴美さんが座っていた場所に腰を下ろしてシートベルトを閉める。

 俺たちがしっかり座ったのを確認してから母さんはアクセルを踏んだ。

「電話、すぐ出れなくてごめん」

「うん」

 黒谷さんがぎゅっと俺の袖を掴んだ。今日ばっかりはドキドキとか嬉しいとかそんな気持ちにはなれなくて、心の中は申し訳ない気持ちだった。

 黒谷母の急な夜勤と俺の居眠りという不幸が重なったとはいえ、黒谷さんはとても怖かったに違いない。友達の……それも好きな子のピンチに眠り惚けていたなんてなんて情けないんだ。

「っ、怖かったんだから」

 さっきまでクールだったはずの彼女はいつのまにか涙を流していて、俺の袖を掴んでいる手は震えている。けれど唇を必死に噛んで泣かないように我慢し、息も浅くなっていた。

 彼女が泣き声になったものだから、母さんも心配そうにバッグミラーでチラチラと様子を伺っていた。

 さっきまで琴美さんが泣いていたので黒谷さんは我慢をしていたのかもしれない。


 母さんに見えていないことを願いつつ、俺の袖を掴んでいた黒谷さんの手を握る。細くて震えていてひんやりと冷たかった。


 

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