第2話

 朝のHRから程なくして、国語総合の授業が開始した。この授業は分厚い資料集に漢字ドリル、その上ご丁寧に指定されたノートを持参させられている。案の定、今日登校する際にバッグがどれだけ重かったか。


 国語総合の先生はひょろっとした50代くらいの男で後藤と名乗った。くすんだ秋色のベストによれよれのスーツパンツ、サンダルはなんだか清潔感がない。よく見れば髪もボサボサだし「THE 怠惰な教師」といった風貌だった。


「では、軽く先生の自己紹介から。先生は後藤雅治ごとうまさはると言います。教師として30年ほど教鞭を取っていて、受験の相談なんかも受け付けている進路相談担当でもあるので覚えておいてくださいね」


 後藤先生は物腰柔らかな話し方で生徒の顔を見回す様に視線を動かしながら話している。この学校は公立学校だから彼は新卒から公務員。年齢からして給料はすごく高いんだろうな。

 ふと彼の左手に目をやるとその薬指にはシルバーリングがキラッと光っている。公務員、教師、既婚。3年ごとのルーティーンで大体同じことを繰り返す人生あと10年ほどで定年か。


「はい、先生の自己紹介はこのくらいにして今日のオリエンテイションでは教材と授業の進め方についての説明をします」


 後藤先生の優しい雰囲気を感じたのかクラスメイトたちは既にざわざわコソコソと雑談をしたり、前の方なのにスマホをいじっているやつもいる。「授業中にスマホいじれる俺」的なくだらない考えなんだろう。馬鹿みたいだ。


「では……まずはテキスト。おや、君は遅刻の……黒谷さんかな?」


 後藤先生が出席票が挟まっているであろうバインダーを見ながら、教室に入ってきた女の子に向かって言った。黒髪ぱっつんのツヤツヤロングを靡かせて、可愛らしい笑顔で先生に挨拶をしたのは黒谷ニコだった。

 まだ入学して数日だというのに、彼女は指定外の黒いパーカーを羽織り、スカートはこれでもかというくらい短くしている。


「おはよぉ、えっと。後藤センセ?」


チラッと黒板に書いてある文字を見てから首を傾げて見せるとクラスの男子たちから「かわいい」という言葉が漏れた。大きなアーモンド型の猫目はキラキラとしていて、後藤先生のことを不思議そうに眺めている。


「遅刻しているからわからないんだよ。はい、後藤雅治と言います。よろしく」

「後藤先生、ゴトセン? よろしくね」

「こらこら、黒谷さん。年上の先生にあだ名やタメ口はいけませんよ」

「え〜、先生厳しい系?」

 後藤先生はタメ口を直さない黒谷ニコに反抗してなのか、笑顔のまま答えない。数秒後、彼女は理解したのか

「——ですか?」

 と付け足した。

「先生は大人としての常識を守っているだけですよ。さ、黒谷さん。あなたが遅刻したせいで授業は数分遅延してしまいました。急いで席についてくださいね」

「はーい」


 彼女は堂々と自分の席まで歩くとギィっと椅子を弾いた。普通、入学数日で遅刻なんてしたらもっと焦るとか恥ずかしがるとかするだろうに、彼女はあまりにも堂々としていたもんだから、後藤先生は少しだけ眉をひくつかせた。


「黒谷さん、次からは気をつけること。席に着いたら黒板に書いてあるものを準備しなさい」


「はーい」


 黒谷ニコは俺の席からみるとちょうど斜め前、彼女が椅子に座ると短いスカートが椅子にかぶさり、太ももがむにゅっと椅子に押しつけられて非常に目に毒だ。思春期真っ只中である俺に取ってはこういう景色が目に入るのは割と死活問題である。

 たまたま目に入ってしまった太ももから目を背ける様に俺は黒板の方を向く。後藤先生は黒谷ニコの準備が終わるまで少し待ってから授業を再開した。

 俺がもし黒谷ニコの立場になっていたらあんな振る舞いはできないだろう。やはりギャルやカーストトップというのは理解できない存在だと改めて思った。


「テキストと指定のノートは必ず持参してくること。漢字ドリルはえーっとこのクラスは金曜日に小テストと一緒に提出してもらうので水曜日のこの時間は持参しなくてOKだね」


 漢字ドリルをめくってみると、後ろの方は切り取り式の小テストになっていた。まるで小学生だな。こんなに強制されなくてもやろうと思えば計画的に勉強なんかできるはずだ。

 小さな教室に閉じ込められて、教師に強要されないと勉強ができないなんてなんて高校生って思ったより子供なんだな。


「はい、でこの資料集だけどこれは基本的には授業で使いません」


 と後藤先生が言ったところでクラス中から「え〜っ」と声が上がった。それもそうだ、このちょっとした辞書くらいある資料集を持ち運ぶのはかなり大変だったのだ。持って来なくて良いのならオリエンテーションの持ち物資料に書いておいてくれればよかったのに。


「先生〜重かったんですけど〜」

「今日も使わないなら、持って帰らなきゃってこと?」

「まじかよ〜」


 明るいタイプの生徒たちが声を上げると後藤先生は優しく微笑みながら


「はいはい。あのねぇ、君たちはもう高校生でしょ? 社会っていうのはこういう理不尽なことがたくさん起こるんだよ。先生は教師として30年近く働いてきたいわば先輩だ。この授業では君たちを1社会人として扱うことにしているからね」


 納得できない生徒たちがザワザワとする中、後藤先生は粛々と説明を続けていく。小テストと中間テスト・期末テストの割り振りや授業態度から提出物の内申点の割り振りなどを黒板にわかりやすく板書してくれる。ちらっと教室を見渡すと、真面目っぽい生徒は素早くメモを取っていた。


(そっか、もう受験を視野に入れている奴らは必死なんだな)


 ましては進路相談担当の教員だ。媚びを売っておきたいのかもしれないし、この時点から内申点稼ぎというものが始まっているのかもしれない。

 辞める俺にはどちらにしろ関係はないが、あからさまに行動して目立っても仕方がないので一旦は軽くメモしておく程度にした。


「で、最後に。忘れ物についてだけどね。この授業ではテキストやドリルを忘れた際は隣の人にです」



「「「「え〜!」」」」


 クラスから大きな声が上がって、後藤先生は待ってましたと言わんばかりのドヤ顔苦笑いをした。毎年毎年、いろんなクラスでこの反応をされるんだろう。学生たちが驚いて困惑しているのが愉快でたまらないのか、俺には彼がかなり意地悪な人間に見えた。


「はいはい、静かにね。この授業ではテキストやドリルを忘れてしまった人には先生がその日使う分をコピーして渡すからね。なので、この授業が始まる5分前にはテキストとドリルがあるかを確認して、忘れた人は職員室へ来るように」


 ぼっちの俺としてはありがたい方法だと思う。別に授業が始まる前に持ち物のチェックをするだけなのだ。廊下に立たされるとか赤っ恥を描く系の罰や、仲良くもない隣の人に声をかけなければいけない苦痛を味わうよりはマシではないか。


 しかし、教室はブーイング状態だ。後藤先生の方はいつものことなのか優しい笑顔で生徒たちを見守っている。


「え〜休み時間なくなるっってこと?」

「隣の人に見せて貰えばよくない?」

「ドリル置き勉しよ〜」


 どうやらうちのクラスの人たちは「忘れ物の確認を授業前にする」ことすらできないらしい。いまだに文句を垂れている派手な子たちに呆れつつ、俺は黒谷ニコが少し気になって彼女の方に視線をやった。

 彼女も派手なギャルタイプなので文句を垂れているんだろうと思ったが、俺の予想に反して彼女は静かに授業を聞いていた。

 さらさらと風に揺れる黒髪はすごく綺麗で、斜め後ろからちょっとだけ見える横顔は日本人離れした凹凸がある。耳はピアスでキラキラと飾り立てられ、頬杖をつく細くて白い腕には可愛らしい猫の腕時計が装着されている。

 そのままの流れて俺はどうしても、自分に抗えず彼女の太ももを見てしまう。


(何やってるんだ、俺は)


 心の中の煩悩を必死で消すかの様に俺は板書をメモを取るのだった。

 


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