ヘルメスの呪縛

ケロヤヌス

透明にしたくないもの

 昔から、「天才」という言葉が嫌いだった。

 より正確には、何かしらの偉業を成し遂げた者を褒めそやす語彙として軽率に「天才」を持ち出す風潮に、私はどうにも馴染めなかった。


 私たちの日常には「天才」が溢れすぎている。と、私は思う。


 好きなアーティストの新曲を聴いたクラスメイトは「やっぱり天才だよね」と口にするし、先日のWBCの結果を見た隣の席の野球部はMVPに輝いた選手を指して「天才すぎ」と大仰に騒ぎ立てる。そうかと思って家に帰れば、夕方のニュースを見ていた祖父は史上最年少でタイトルを奪取した若い棋士を「将棋の歴史を変えた天才」と誉めそやしていた。

 別に彼らの成し遂げたことが凄くないとは微塵も思わない。私だってそれなりの感性は持っているはずだし、他人の成功や成果を素直に祝えるだけの心の余裕は持ち合わせている。世間で騒がれているものに対して逆張りしたくなるような性分でもない。


 私の中で芽生えていた小さな「違和感」が決定的になったのは私が中学生の時、仲の良かった友達がイラストか何かのコンテストで金賞を受賞し、市長だったか県知事だったか覚えてないがとにかく偉い人から表彰された時だった。

 その子は昔から絵が上手かったし、その独特な色使いと写実的な描き方からは、彼女には何かしら芸術の才能があるのだろうというのが、当時十四歳だった私にも充分過ぎるほど伝わってきた。

 でもそんなことは大事じゃなかった。私にとっては、毎日遅くまで教室に残って絵の勉強を続け、休みの日も周りのクラスメイトが遊んでいる中がむしゃらに絵を描き続けた彼女の努力が「賞」という形で結実したことが本当に嬉しくて、受賞の連絡がきた時は彼女の手を取って飛び跳ねた。


 ただ、周囲の反応は少しだけ違った。少なくとも、私には違って見えた。どうやら彼女が受賞した賞というのはその世界でも幾分影響度の大きいものだったらしく、地元の新聞やラジオ、果ては夕方のニュースで取り上げられることになり、彼女の名前は自然と広まることになった。


 弱冠十四歳の

 若きアーティスト。

 十年に一人の


 最初のうちは、私も嬉しかった。彼女の名前が広まり、SNSのフォロワーが日に日に増えていく。

 次第に過去の作品も注目されるようになり、彼女のことをよく知りもしない人達が彼女の名前を見ただけで「天才」と気軽に呼ぶようになった。

 

 ある日、彼女が私に尋ねてきた。澄んだ黒目に、僅かに翳りが混じっているように見えた。



「私って、そんなにみんなと?」


 

 ━━「天才」という言葉は、掛けられた相手の努力を透明にしてしまう力があるように思う。もちろん全部が全部そうだとは思わない。努力してきた道程をきちんと伝え、その人が成した偉業が如何に凄まじいものだったのかを伝えることだってあるだろう。

 でも。それでも。「天才」という言葉を使う時、そこにあるのは「私達」と「彼ら」という厳然たる断絶があるような気がしてしまうのだ。自分達と彼らではが決定的に違うのだという、無意識の隔たり。地続きなはずの関係性を一方的に断ってしまう、そんな微かな冷たさが。


 そしてそこにあるのは、「天才」という言葉を使うことで安穏を享受したい、「凡人」の心の揺らぎのような気がしてしまう。「天才」という言葉を使えば、彼らを「別世界」の人にできる。私達と彼らでは生まれ落ちた「星」が違うし、歩む「道のり」も、歩む「速度」も、何もかもが違うのだと、皆どこかで安堵したいのだ。


 可能性が無限だとは思わない。才能は平等ではないし、親ガチャという言葉が指すように、環境や血筋が影響することだってある。万人が皆「彼ら」のようになれるとは、私だって思わない。


 ただ、少なくともそうしているうちは、他者を「天才」と呼称しているその瞬間だけは、自らの閉ざされた可能性を忘れられる。自他を比較し絶望せずにいられる。だって彼らは「天才」で、自分たちは「凡人」なのだから。


 

 が違うとは思う。

 それでも、が違うとは思わない。



 彼女に返す言葉を、私は今も探している。

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