エピソード41

 ハーベストミントの箱を取り出そうとベルトに手を伸ばした。タバコの箱が歪んでいる。霧の水滴でひしゃげた箱の中に指を入れる。

「残りが少ないな」

 しけったタバコを一本摘んで抜き出す。二段あるガスマスクのバルブ上段を回す。ガスマスクの蓋が徐々に開く前に呼吸を止めた。霧の蒸気が混じった外気が排出されるのを待つ。闇の中から声がした。

「ギャッギャッおタバコの時間ですか?軍人さん!」

 ハッキリとした口調の霊だ。ダミ声の声に強烈なリバーブがかかって聞こえるのは雨が降っているせいだろうか。独特な反響音は墓場や戦場に響く霊の声とは少し違っている。どこにいる?道路周辺と上空を見渡す。

 あたりを見わたすと点滅している街頭が照らす道路に人の影がよぎった。その影は地面には張り付いていなかった。

 開いたガスマスクのなかにタバコを突っ込み咥えた。指でつまんで熱を加えると湿った巻き紙が一瞬で乾き燻された。吐き出した煙はガスマスクの側面から流れて街の闇に溶け込んだ。

 さっさと片付けるとしよう。レイピアを引き抜いて銀銃を抜いた。

「喫煙時間を邪魔するくらいならさっさとかかってこい」

「あれ?アンタはまだ俺の姿が見えていないの、間抜けなやつだ」

「真上にいるんだろう?それくらいわかるさ」

 ニルは銃を上空に向けて間髪を入れずに引き金を引いた。銃声が街に響き渡った。

「ハズレっ。ギャッギャッ。路上に出てやるよ!鬼さんこちら!」

 まばらで弱い光を放つ街頭が消えた。道路に飛び出したニルは光の消えた空間を睨みつけた。降り頻る雨と街頭の光は歪んだ黒い空間に吸収されていた。胸に取り付けたランプが点滅を始めている。レイピアの持ち手を握り直してガードに親指を伸ばした。熱を加えてヴェール香を放出する。

「インビジブルマーダーシーンか…警察の調べでは何も見当たらなかったが生前に何かの罪を犯しているな。厄介だな」

 路面上空五メートル付近が不自然に黒く歪んでいる。この状況でイタズラなガーゴイルの姿を視認するのは難しいだろう。

「あれ?俺の不思議な力ってそう言う名前なんだ。インビジブル・マーダーシーン!ギャッ。強くなったんだ」

「君はもう死んでいるのだ。トーマス・ミュラー」

「何を言っているんだ!俺はピンピンしているぜ。俺の店にあるコレクションを見たかい?軍人さん」

「コレクションだって?それは君の店のどこにある?」

 少し警察に協力してやっても良いだろう。黒い霧の中から敵が飛びかかってきた時に備えてレイピアでガードを固めた。

「壁の中さ!綺麗に折り畳んだ女たちを詰めている。何、どいつもこいつも身分が低い、それどころか存在していない扱いの娼婦たちばかりだけどな。でもできるだけ美しいやつを買ったんだぜ?誰にも気づかれていないしお前も殺すからな。万事うまくいくぜ」

「トーマス・ミュラー!宣戦布告する。南ベルリ戦地除霊隊のダージリン・ニルギルがお前の罪を裁く!六人と生前の殺人の罪状でお前を消滅させる。生きとし生けるものへの執着を捨てろ」

「な?なんだって戦地除霊隊だと?笑わせるな。俺は死んでいない!この野郎。やけに良いデザインのマスクをつけた軍人だと思っていたが、自分を御伽話の中にいるエクソシストだと抜かすのか?」

 タバコの煙を上空に吐いた。マスクの隙間から吐いた煙は顔にまとわりついて消えていく。ヴェール香が放出されているレイピアを松明のように掲げた。

「なんだ?かかってこい。俺を殺さないとコレクションの女たちがお前の店から押収されてしまうぞ」

「へえ、俺は悪魔になったと言うわけだ。この際コレクションはどうでもいいや」

 しまった。逃走するつもりだ。これほどの知性がある変異型怨念霊と遭遇するのは初めてだった。生前に犯した罪を認めた悪戯なガーゴイルはこれから先にある犯行への更なる欲求を持っていた。インビジブルマーダーシーンのモヤは徐々に遠ざかっていく。それと同時に街頭の光が回復した。

「待て!トーマス・ミュラー」

「待つわけがないだろう!エクソシスト。バイバイ!」

 悪戯なガーゴイルの霊払いに失敗した。頭に熱が溜まっていく。それと同時に周囲の空気圧が変わった。霧と雨が背後にある路地裏に吸い込まれていく。

「なんだこれは?幻覚か。いやガーゴイルの攻撃なのか」

「ウゥゥゥーーン」

 地面を這うような低い暴風と圧力が辺りに広がった。それは戦闘機が近くを通り過ぎた時の感覚を思い起こさせた。ガーゴイルが浮遊していると思われる場所を見上げた。先程まで見えていたサーチライトの明かりが見えない。何かが上にいる。

「ギャッギャッ。ギャ?なんだあれは!でかいぞ。はあ?」

 北から砲撃が放たれたのか?危機感を覚えたニルは徐々に後退りして暗い路地裏に入った。上空に何かがいる。

 悪戯なガーゴイルの放つインビジブルマーダーシーンの背後が真っ白になった。その時ニルの目が捉えたのは巨大な白い塊だった。それが闇を貫いた。ガーゴイルの放つインビジブルマーダーシーンは地面に叩きつけられた。暴風が雨や霧を全て弾き飛ばした。

 衝撃波を正面から受けたニルはビルの壁に衝突した。すぐに壁を蹴ったニルは足だけで地面に着地することができた。地震のような揺れが後から襲ってきた。

「あれは砲弾なんかじゃない。霊なのか?」

 地面に衝突した白い塊は曲線を描いていてまるで足の側面のように見えた。この場所を離れなければ。レイピアと銃をしまったニルは路地裏の先、四十メートル先にある大通りに向けて走り出した。

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