エピソード10 サキュバス1-2

 死香とミントの香りの中に微かだが発酵した果物の匂いが混ざった。ブドウが腐ったような匂いが徐々に周囲に漂っている。先ほどに死んだものたちは化け物が出る頃だと言っていた。無線の男の話によると霊害が起きた時間まではまだ二時間弱ある。サキュバス以外にも何かがいる可能性がある。現在地は墓場の管理事務所から五メートル離れた場所だ。墓石は均等な感覚で並んでいて看守たちはライトをつけるだけで通路を見渡すことができる構造になっている。ガラス窓の向こうで見物していた看守たちの方を見やると変わらずにヴェイプフェンサーの仕事ぶりを眺めているようだった。目が合った無線の男はヘッドホンをしていないようだ。声は聞こえないが皆が歓声を上げているようだ。レイピアが蒸気を噴出することが物珍しいようだ。

 霊体は光に対する感覚が非常に薄い。彼らは肉体と魂の放つエネルギーを見ているのだ。だが看守たちは懐中電灯をお守りのように掴んで彼らが見ることのできない霊をヴェイプフェンサーが退治する瞬間を待ち侘びているようだった。

 サキュバスの霊が持つ欲求は性液と生前の渇望。性欲に従順だった自らへの悔恨。そして自分を堕落させた人間への復讐だ。エクソシズムインセンスとしての才能を開花させてから数年経つがサキュバスと対峙した経験はない。エクソシストの教典ではサキュバスは生きている人間を誘惑して性行為を行ったあと血を吸って命を奪うという特徴があるはずだ。

 十年前から今までサキュバスがこの場所で霊害を引き起こしていたという情報はなかったはずだ。ならばモナ・バートンがサキュバスとなって現れたことには何か別の理由があるのではないのだろうか。十年前に結婚の約束をした男が看守の中にいるとすれば理屈が合うが、新入りの看守はまだ二十代後半で、最も可能性のある無線の男は十年前に五十代だった。そばと干し葡萄を食べて暮らしている男がサキュバスのお眼鏡にかなうとは思えない。サキュバスは人間としての力が強いものを好む。金や名誉、肉体そして権力のある男が優先され、最後には肉体のみで生者を選ぶ。

 雨が強くなってきた。レイピアから噴出するカモフラグランスの死香が降り出した雨の隙間を通り抜けていく。咥えていたタバコを手のひらで握りつぶして地面に捨て、もう一本を口に挟んだ。そして指で摘んで熱を加えてふかす。

「調べが足りなかったな。おそらく新しく墓地に埋葬された人間がいるのだろう。悲しいことに最近死んだその男はあっさりと成仏したのかもしれない。その男とモナは霊の姿になって再開することが叶わなかった。そんなところだろうか」

 一気に吸い込んだタバコの煙が肺を満たした。そして吐き出した時に濃厚なワインのような香りが鼻腔に刺さった。ワインの香りは徐々に鉄分を含んだ血液の匂いに変わった。

「近くにいるようだ、カモフラグランスの効果があったな、サキュバスは霊が見える俺には気づいていない。動いている」

 死んだものが発霊するタイミングはバラつきがありまだ解明されていない。だが発霊することには理由がある。モナ・バートンは十年前に首が腫れる病で命を落とした。そしてここ数日の間に何かしらの理由でサキュバスとして発霊した。

 昼間、墓の中で眠っていたモナが墓参りに来た人間が何かを喋っているのを聞いて怒りや悲しみを覚えたとも考えられる。今夜は出直すべきかもしれない。サキュバスが霊害の原因であることは突き止めた。モナ・バートンの身辺調査をするのも一つ手だ。

 その時だった。コツコツコツと爪で何かを突く音がした。そして快楽に満ちた吐息混じりの小さな笑い声が聞こえた。

「フフフ」

「近いな、どこにいる」

 雨音に混じっている音の先を探すために左手でランプの上部にあるツマミを回して光を強くした。今いる墓場の通路にはいない。一旦事務所の方へ向かおうと踵を返したニルはベルトに手を伸ばして葬送香のカートリッジを取り出した。

「なるほど、窓越しに誘惑していたわけだ。霊が見えない看守たちも本能のみで誘惑されていたということになる」

 コツコツと鳴り響く音は墓場の管理事務所の窓ガラスをサキュバスが足の先で突いている音だった。

 墓場の管理事務所の窓は天井まで伸びているから監視にはもってこいの作りになっている。窓の前で立ったまま気を失った看守たちは視覚では捉えられないサキュバスの性器を眺めていた。無線のオヤジだけが若者たちの肩を揺すっている。そして墓場にいるヴェイプフェンサーに助けてくれと眉間に皺を寄せた表情で合図をしている。

 事務所の電球の光に怪しく照らされたブロンドヘアの全裸女がまるでストリップ劇場や観覧型の風俗店のように股を広げたまま宙に浮いていた。サキュバスの体のラインは人間離れしていた。風船のような胸に締まったくびれから飛び出ている張ちきれんばかりの臀部はまさに人外の容貌だった。逆三角に引き締まった背中には霊紋と思われる悪魔の羽を模ったイレズミが見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る