きっとそれは恋だった
橘しづき
第1話 眼鏡に隠れる
私は『それ』が何なのかずっと分からなかった。
分かるのが怖かった。
ただ、笑った時に見える目尻の皺と白い歯を思い浮かべるだけで、胸の辺りがムズムズ痒くて、まるで人見知りをする子供のように隠れてしまいたくなった。
こんな感情を知らずにこれまで生きてきたんだ。
「失礼します」
手に持ったプリントを握りしめながら右手でノックを呼びかけた。かけていた眼鏡を意味もなく直す。やや緊張している心を落ち着けるために深呼吸した。ドアのプレートに書かれた『生徒会室』の文字が自分の緊張度を上げる。
あまり人と話すことは昔から得意ではなかった。子供の頃からどうしてもどもったり、相手の顔を見ずに淡々と話す癖が抜けない。小学生の通知表はそればかり指摘されていた気がする。
そしてそれは高校生になった今も続いていた。無論人前に立つのも苦手だ。クラスでも隅っこの方にいて、少ない友達とひっそり過ごしている。物語で例えるなら、私はいつでも「登場人物A」ぐらいの立場なのだ。青春だとか、爽やかなことからは遠い人生を送っている高校二年生だ。
そんな私が望んでもない学祭の実行委員に選ばれたのは不運としか言いようがない。誰もやりたがらなかったため、担任教師とじゃんけんをして負け続けた者が選ばれたのだ。なんて適当なやり方。
普段は実行委員といってもその存在は空気のようだった。ただ学祭が近づいてくるとそうもいかない。クラスで出す催し物を話し合って決め、さらにはそれを事細かに企画書に記入して生徒会室に持っていかねばならなかった。
そして初めての経験に試行錯誤しながら企画書をなんとか書き上げ、それを握りしめ生徒会室を訪れている。
緊張しながらドアノブを開けようとした時、目の前の扉が急に開いて驚きでのけぞった。私のノックを聞いて誰かが迎えてくれたらしい。強くはない風が吹いて自分の髪をわずかに揺らした。
「はい、企画書の提出かな?」
出てきた人はそう優しく言った。男子だった。その人の顔を一瞬見て、すぐにいつもの癖で俯いた。
遠野祐希先輩。それがこの学園の生徒会長の名前だった。
私もその存在は知っている。生徒会選挙の時に演説を聞いたのも覚えていた。落ち着いた演説で大人びた人だと思っていた。実際、彼は忙しい生徒会の仕事もそつなくこなし、どんなトラブルもスムーズに解決する人だと有名だ。
そんな生徒会長に、この至近距離で会うのは初めてだった。眩しい、と思ったのは多分目の錯覚だけど、気持ち的には正しい。
「あっ、あの、はい。お願いします」
変にどもりながら持っていた企画書を差し出す。紙の端が、自分の手汗で少しふやけていることに気づき恥ずかしくなる。先輩はそれを受け取り、その場で早速開いて中を読み始めた。
真剣な眼差しで私の書いた文字たちを追う。その顔をこっそり、眼鏡の端から見つめた。
サラリとした黒髪だった。奥二重の瞳に、鼻が高くて整っている。文字を追うごとに動く睫毛が綺麗だ、と思った。
こうして盗み見ているのが、悪いことをしているみたい。それでもやけに気になった自分は、眼鏡に隠れたつもりで彼の観察を続けた。
「丁寧だね。時間かかったでしょう書くの」
薄い唇から漏れた言葉はそれだった。どきんと心臓が跳ねる。子供に呼びかけるような柔かい声に驚いた。
「あ、い、いえ、初めてなので上手く書けてるか……!」
「凄くわかりやすいよ。ええと、須藤みおさん。性格出るよねこういうの。消して書き直した跡がたくさんある」
ページをめくりながら先輩はそう言った。
私は返事ができなかった。唾液を飲むだけで必死で、一緒に言葉も飲んじゃったのかもしれない。ただ無言で俯くことしか出来なかった。顔からは湯気が出るかと思った。
夜な夜な机に向かって慣れない企画書を必死に書き上げた光景を思い出す。そんな姿を見抜かれている気がした。遠野先輩には、そんな不思議な目の色があるように感じる。やけに恥ずかしくて、私はまた意味もなく眼鏡を直してみせる。
「あ、須藤さん、ここについてなんだけど」
「あ、は、はい!」
先輩が企画書を私に見せようとひっくり返した瞬間、彼の紺色ズボンのポケットから何かが落ちた。そのまま床にぶつかり、コロコロと私の足元に転がってくる。
反射的にしゃがみ込んで手にすると、それはチョコレートだった。
それも色鮮やかなマーブルチョコ。筒型の入れ物には赤や青、黄色などのカラフルな絵が描かれている。手に持ったままぽかんとそれを見つめた。
「あ、ごめん!」
慌てたような声が頭上から降ってきて顔を上げる。先輩が困ったようにこちらを見下ろしていた。初めて、しっかりと目が合う。彼の瞳は不思議なほど綺麗だ。
「……好きなんですか、マーブルチョコ」
人見知りの私からなぜそんな質問が飛び出したのかはよくわからなかった。ただ頭に浮かんだ疑問がそのまま口に出てしまったのだ。
先輩はゆっくりしゃがみ込み、私の手の中にある筒型のそれをそっと取った。中身のチョコたちがカラ、と音をたてる。
「はは、そうなんだよね。子供かよって感じだよね」
そう笑った彼の白い歯、目尻にできる小さな皺。
ただ笑っただけのその顔を見た途端、自分自身が真っ白な世界に放り出されたような感覚になった。
胸がむず痒かった。酸素が足りなかった。
嬉しくて、悲しくて、恥ずかしい。めちゃくちゃな感情に混ぜられ、ただ呆然とした。
今まで生きてきて初めての感覚に困り果て、私はただ俯いて小さな声で返事をするしかできなかった。
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