人差し指

ゆりかもめ

人差し指

 桜散る春の終わり頃、ある平日の夜明け前のことです。それは突然起きました。何か特段理由があったわけではないと思います。彼はその朝いつものように5時前には起床して歯磨きやら着替えやらを済ませていました。その時彼はふと気がつきました。なんだか右手の人差し指が長くなってるような気がしたのです。もう少しで中指を追い越さんばかりです。指が腫れていたり、痛いという感じはしませんでした。先端を触っても違和感はありません。今まで通り普通に機能します。彼は最初は見過ごしました。元々人差し指が長く、今まで気付かなかっただけなのかもしれない。彼はそう思いました。たしかに人差し指の長さは毎日確認するようなものでもありません。友達には何も言われてこなかったですし、周りの人も変な目では見てきません。彼はいつも通り仕事に行きました。

 さて、彼というのは決して記録にも記憶にも残るような人ではなく、名前を言えばかえって読者の気を散らすことになりかねないので、これ以降も彼と呼びます。

 彼は田舎に生まれました。田舎といいましても、ガス、水道、電気が通らないそんな辺鄙な所ではなく、自然が多く、また人は少ないけれど何時もにこやかに話や悩みを聞いてくれる優しく情に厚い人々が多く、ありのままの自分が受け入れられるので、彼の地元を田舎と呼びました。彼はこんな所で平凡な毎日を楽しく過ごし、20歳になると周りを真似て東京に上りました。そして東京という忙しい街で平々凡々なサラリーマンとなって生計を立てました。妻子はおらず、一人暮らしが8年目に入って、ある日突然こうやって人差し指が伸びだしました。しかし、その件以外何も特段異常で不思議なことなどは起こらず、彼もやや安堵して床につきました。

 しかし、翌朝人差し指を見てみますと、1cmも伸びているではありませんか。中指よりも長くなりました。彼は目を疑いましたが明らかに昨日よりも長くなっています。しかし、彼は何もしませんでした。少しすれば治るだろうという根拠のない淡い期待を持って、その日も仕事に行きました。

 しかし次の朝もやはり伸びていました。もう明らかに中指より長くなっていました。彼は何かしなくてはならないと思いました。初めは医者に行こうと考えましたが、ここ数日で指が急に伸びだしたとばからしいことを言い張るような患者を診てくれる医師などいないと彼は考えてしまいました。ただ指が伸びているのは事実であって、彼はむしろ羞恥心に打ち勝てなかったことに合理的な理由をつけただけだったのです。友達にも相談しようと思いましたが、やはり同じ気持ちからためらってしまいました。ということでその日も仕事に行きました。

 指は来る日も来る日も少しずつ伸びていきました。彼は人差し指の爪だけ短く切って、それ以外の指は爪を伸ばしたりして短く見せようと努力しましたが、こういうことには限度があります。2週間ほど経つと、もう人差し指は伸びなくなりました。その後にまた小さくなったり、他の指が伸び出すというおかしなことも起きませんでした。しかし、人差し指は中指より3cmも長くなってしまっていました。何の、たった3cmだけで何が変わろうか、と思うかもしれませんが、まず突き指をしやすいし痛いし、加えて周囲の冷たい視線を浴びることになります。たった3cmかもしれませんが、これが見られれば電車で彼の周りに座る人はおらず、見ず知らずの人に二度見も三度見もされました。彼はとうとう家を出ている間は右手だけ固く握り拳をするようになりました。

 彼は指こそ長かったものの、顔はそこそこ良かったものですから、人が群がらないわけではありません。一人目の彼女は優しく可憐な子でした。すぐに打ち解けて、彼はこの人になら隠すことはないと思って、1週間ほどして指を見せました。彼女はしばらく沈黙しました。明示こそしなかったものの、彼女の目には理不尽なまでな強い憤怒憎悪が浮かび上がってました。どこへ出掛けても、何を喋っても、何も盛り上がることはありませんでした。そして遂に、ある日、二人っきりでベンチに座っていたとき、彼女はナイフを取り出して彼の人差し指を切り落とそうとしました。彼もいくら自分の人差し指が嫌いとはいえ、本能的に抵抗しました。すぐに彼女を押しのけて逃げ出しました。もう二度と彼女には会うことはありませんでした。

 二人目の彼女ができました。今度は指をみせるまいと思いましたが、すぐにバレてしまいました。それでも彼女はまだ何も言いませんでした。彼女は賢い人でした。2週間後、二人は意見が食い違って喧嘩を起こしました。議論が白熱する中、彼女は急に彼を殴りました。思いっきり殴りました。それも人差し指を正面から殴りました。指が長い分、突き指はとても痛く感じられました。しかし人に殴られるとなりますと、これはもう表現できないような痛みが体中を震わせます。彼は2分間うずくまって立ち上がれませんでした。彼女はただ、私の言う通りにしなければ明日も同じ目に遭わせます、と静かに呟いてその場を去りました。彼は負けまいと強く思って次の日も彼女に会いに行きましたが、もう関係を修復することはできませんでした。指は一度殴られただけで赤く腫れ上がっていましたが、この上からまた叩かれますとさらに紅く腫れ上がります。三日連続で殴られますと、これもまた甚だ痛いのでしょうが、そうなる前に彼はいつも要求に屈していましたから、本当のところは分かりません。結局それから1ヶ月の間で25万を盗られました。彼もようやく離れることを決心しました。彼はそれから3回引っ越してようやく彼女の追跡を振り切りました。全くひどい経験でした。

 三人目は彼女は彼のことが好きだったという訳ではありませんでした。不思議にも、彼の人差し指に惚れ込んでしまったのです。愛という言葉では不十分な程、彼女はその指を愛しました。資金の援助も充分にしてくれました。最初は彼もとても幸せになりました。自分でもその人差し指が好きになりそうになりました。されど3日もしますと、人差し指が再び伸びだしました。彼女はますます惚れ込みました。1週間ほど経って人差し指は中指よりも10cmも長くなり、もう隠し用がありません。止まりそうな気配がありません。彼はとうとう嫌になって逃げ出しました。今度も4度の引っ越しを経て追手を振り切りました。

 その後彼は何人もの人と一緒になりました。中には男もいました。指を切り落とそうとしたり、自分をぶったり、指を長くしてしまうような人はいませんでした。全員優しい心を持った人ではありましたが、何か納得いかないことが彼にはいつもありました。接し方、喋り方、笑い方を含めたほぼ全ての日々の営みに、彼は大きな隔たりを感じました。原因は一つしかありません。皆心の奥底で、彼を嘲笑したり忌み嫌っているのだと、彼は感じずにはいられませんでした。そしてどの関係も長続きしませんでした。彼の心の底には何かが重いものが蓄積していきました。

 彼はそこから突如仕事を放棄して引きこもり始めました。一度は故郷に帰ろうと考えましたが、母の訃報を耳にしてこれを断念しました。朽ちたアパートの家賃さえも払えなくなり、追い出されて野宿を始めてから3ヶ月が経ちました。身体も精神もボロボロになりました。指は日に日に飢餓で細くなっていきましたが、人差し指は依然長いままでした。

 ある日のことでした。彼の前に人影が現れました。彼はかすかにその顔を覚えていました。どこか遠くで、どこか自然豊かな場所で、見たことのある人が立っていました。その人は一連のことを全て知っていました。ただ何も言わず、彼の右手を握りました。そして何も言わず、ただ隣に座って一緒に一晩を明けました。彼は大人になって初めて涙を流しました。

 彼に少しずつ活力が湧いてきました。毎日お風呂に入り、たくさん食べ、たくさん運動をしました。3ヶ月後には再び定職に就くことができました。その人はいつも彼を援助しました。お金がたっぷり出せた訳ではありません。ただ、その人の存在意義は常にありました。

 そして突然に、彼の人差し指は短くなっていきました。2週間も経てば、中指より少し短いぐらいの、普通の長さに戻りました。それから3年経ちましたが、今も変わりません。彼の人差し指はまだ伸びていません。伸びる気配もありません。でももう一度伸び出したって、彼に恐れることはもう何もありません。人差し指が一つ伸びるぐらい、何が恐ろしいというのですか?



 

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