不完全な立方体



完全な球体。



若者の間では、完全な球体が大人気だ。

音読すると「完全」の舌触りの後にやって来る「球体」の滑らかさが癖になる。黙読すると不可視の物体に触れたような不思議な感覚に魅了される。微音読するとその両方が眼前に迫ってくる。

近代日本語が整備されて以来一世紀以上経つのに、なぜだれも「完全な球体」という言葉の魔力に気づかなかったんだろう。そう思えるほどに特別な魅力を放つ言葉であり、意味の特殊さに反して若者の会話に頻出する。完全な球体を使ったギャグもあるし、完全な球体のLINEスタンプもある。


今時の若者のことをZ世代などと言うが、日本においては「完全な球体に気づいた世代」を言い換えているに過ぎない。Z世代はいわば完全な球体を太陽として公転している惑星にすぎず、共産主義を公転していた全共闘世代と大して変わらない。その意味では、Z世代はそこまで特殊な世代でもないのである。







ある雨の日のこと、私が大学からぽてぽてと帰っていると道端に何やら四角い物体が打ち捨てられているのを見つけた。多くの人は素通りし、気付いたであろう人も見てみぬふりをしている。ただ妙に心に引っかかった私はよく目を凝らしてみた。



不完全な立方体である。



少しだけ専門的な話をしよう。立方体や球面など立体物の表面は位相幾何学においてS2平面と呼ばれる。かみ砕いて言えばS2平面とは「穴の開いていない立体の表面」のことであり、S2平面同士は同じもの――同相であるという言い方をする。NHKやBBCの番組でなんとなく知っていた人も多いんじゃなかろうか。


不完全な立方体はS2平面である。そしてもちろん、完全な球体も。




若者文化の中心と扱われている完全な球体。


都会の道端でびしょびしょに濡れている不完全な立方体。


皆に愛されている完全な球体。


誰にも気にも留められない不完全な立方体。





白い目で見られるのも濡れるのも厭わず、冷たく、いびつに角ばっている不完全な立方体を私はやさしく抱きしめた。

つらかったね、位相幾何学だと同相なのに、いままで気づいてやれずにごめんよ、とささやきながら……




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

戯言集 EPOCALC @epocalc

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る