2.暗闇に目覚めて

 土の匂い。

 その認識が、一気に意識を覚醒させ、そして、ついさっき自分の身に起こったことを思い出し、飛び起きた。

「ッ!?」

 瞬間、何か、自分の身体が自分のものではないような強烈な違和感が、目眩や気持ち悪さと共に襲ってきて、思わずうずくまる。

 息苦しい――その感覚に、胸の奥に、頭の中に、恐怖とも不安ともつかない激情がグワッと襲いかかり、衝動的に身体が暴れだそうとする。

(……落ち着け! これは風邪の時なんかにたまにある、軽いパニック障害みたいなものだ。息苦しくてもまずは息をけ。そうすれば吸える。ゆっくりだ、呼吸を落ち着けろ。今までだってそうすれば大丈夫だっただろう? 身体の感覚が変でも、痛みはないぞ。だから大丈夫、慌てるな、大丈夫だ……)

 パニックに陥りかけているのを自覚した俺は、努めて冷静であるよう、大丈夫だと、自分に繰り返し言い聞かせる。

 そうして意識して深呼吸を幾度も繰り返すうち、気持ちはなんとか落ち着きを取り戻し、同時に、身体にあった違和感も消えていった。

(どこだ? ここは……)

 落ち着いたところで、周囲を見回す。

 見渡す限りほとんど暗闇といっていいが、遠くの壁際辺りにてんと光が見えた。それが光源となっているのか、暗闇に目が慣れてきたのか、かろうじて身辺の輪郭が判別できる。

 少なくとも、さっきまで居たはずのファミレスの中ではない。そもそも空間の広さが違いすぎる。

(そう、ファミレスで事故にあったはずだ、そこまでの記憶は、ある)

 今いる場所の大雑把な感覚としては、地下鉄のような、トンネル状の空間。そんな印象を受けた。ただ、地面にはレールのようなものはなさそうだし、身の回りを手で探ってもそこかしこに小さな岩のような塊が転がっていて、整備されているような場所でもなさそうだ。少なくとも、ファミレスが大型の車に突っ込まれてこんな状況にはならないだろう。何らかの理由で地下に落ちたのだとしても、それなら上部に穴があって然るべきではないか。

(あの後、何があった? 何故こんな所にいる? ここはどこだ?)

 耳を澄ましても、聞こえるのは、おそらくは風の流れが生み出している、音とも言えない音。それがむしろ静けさを強調しているような気がして、じっとしていると不安な気持ちが膨張してくるような気になる。

 そんな不安を緩和するためにも、無意識に明かりを求めたのだろう、意識せず手がポケットへ向かっていた。

(……え?)

 だが、そこには有るはずのスマートフォンが、無かった。

 無意識とはいえ期待していた感触がなく、焦る。あわてて他のポケットや周囲を探る。

(無い……。財布も、社員証も)

 会社を出たときの所持品はそれだけ。それが全て無くなっている。

 服は着ている。思ったところにポケット自体はあるので、着ている服は変わっていないとは思うが、こう暗くては断言もできない。靴も靴下も履いている。違和感はないが、こちらも服と同様に断言はできない。

(火事場泥棒にでも遭ったか……?)

 スマホはともかく、財布はベルトループにチェーンで繋げていた。社員証も首から提げていた。どちらも自然に外れるとは考えにくい。だが、ここはそもそも、その“火事場”ではないように思える。

 誘拐? ――そんな思いもよぎるが、それにしたってこんな所に放置はしないのではないか。

「……だれか。……誰か、いませんか?」

 このままじっとしていても仕方ない、そう思って、少し迷ったが声を出してみた。少したどたどしくなってしまった言葉は、空間に反響したせいか、思っていたよりも大きな声になって響くように感じられた。

 すぐに静寂が戻り、じっと耳を澄ませる。が、何も反応はなかった。

(仕方ない……)

 このままでいても事態が好転するとは思えなかったので、まずはあの遠くに見える“光”を目指す。そう決めて歩き出す。

 近かった左手側の壁沿いに、手探りで、というか、足探りといった様相で足下に注意しながらゆっくりゆっくり進むうち、大きな岩か瓦礫の山か、障害物が行く手を遮った。高さはほぼ目の前。まだ遠い光がその輪郭をかろうじて浮かび上がらせている。

 それを迂回しようとその障害物に手を添える程度に触れると、それは思っていたよりも脆かったのか、あるいは上に乗っていただけのものに触れてしまったのか、ボロボロッと何かが零れ落ちた。その次の瞬間――

「ウウッ!」

 障害物に隠れて見えなかった向こうから、声がした!

 それだけでは正体は知れず、反対の壁際まで距離をとってそっと回り込み、覗いてみると、暗くてハッキリとは見えないが、上半身を起き上げる人らしきシルエットがある。

「……大丈夫ですか?」

 ささやくように声を掛けると、その人物は驚いたように後ずさり、恐る恐るといった様子で声を上げた。

「……ひ、人? ここは……?」

 ちゃんと会話が通じることに、自分でも思いがけず心の底からホッとしつつ、こちらも返事をする。

「ここがどこかは、俺にも判りません。意識が戻る前は、ファミレスにいたはずで、タンクローリーが突っ込んできたのを最後に見て、次に気付いたらここにいました」

「ぼっ、僕らもそうです!」

 それは本人も意図せず大声になってしまったのだろう、その声が反響しながら遠ざかるのを待ってから、「すみません」と小声で謝る。

「いえ、気持ちは分かりますよ。ちゃんと記憶が連続してるって分かって、俺もちょっと安心しましたから。君はあの、入り口近くで勉強してた人たちの一人ですか?」

 そう尋ねながら、障害物を完全に回り込んでゆっくり近づく。

「はい、そうです。あなたは……あ! もしかしてカレーの!」

「はは……その節はご迷惑を。……ん?」

 言われて、自分の口の中にカレーの余韻なんてまるで無いことに気付く。記憶は連続していても、時間的にはずいぶん経ってしまっているのか。だが不思議と、それほど空腹感も喉の渇きもない。

(何が起きているのか……?)

 ただ、今は、現状を把握するほかできることはない。考えるよりも行動だ、と気持ちを切り替える。

「他の人たちは?」

 言いながら目を凝らす。起き上がった“彼”のシルエットは判別できるが、その周りにある“何か”の影が人なのか瓦礫などなのか、判別できるほどの明るさはない。

「そうだ! イオリは……イオリッ! ……ユウキさん! リクオさん!」

 目の前の“彼”が、言いながらせわしなく動く。一番近いシルエットに手が触れると、それに飛びつくように手で探る。

「……イオリか! おい、イオリッ!」

 彼には確信があったのだろう、そう言いながらそのシルエットを揺すり始めた。その様子が冷静ではないと見えたので、慌てて止める。

「おい! 落ち着け。怪我をしてたり頭を打っていたりするかも知れない。状態を確認するまでは強く揺すったりしない方が良い」

「ッ! そう……ですね。……ありがとうございます」

 幸い、俺の声が聞こえないほど取り乱してはいなかったようで、すぐに落ち着いてくれた。

 ホッとしたのもつかの間、今のやりとりのせいか、他の二つのシルエットがもぞもぞと動きを見せる。

「うう……」

「うぅん……」

 俺が思わず身構える中、“彼”がそのシルエットに話しかける。

「……ユウキさん? リクオさん?」

 すると、当人たちだったのだろう、戸惑いながらも返事があった。

「えっ!? ……ホシナ? っていうかどこ……ここ……?」

「モモ……どうなってるの……?」

 どちらも女性の声だった。まだ状況を飲み込めない様子の二人を怖がらせないよう、静かに口を開いた。

「……ちょっと、良いですか?」

 突然の声のせいか、少し離れているとはいえ、見下ろすような姿勢のシルエットのせいか、二人がびくり、と怯えた様子が伝わってくる。

「大丈夫だよ、二人とも。この人も、さっきまで同じファミレスにいた人みたいだ」

 先ほど『ホシナ』と呼ばれた彼が取りなしてくれたおかげで、二人も多少は落ち着きを取り戻したようだ。

「ファミレス……そうだよ……」

「おっきな車が……! あっ! ホシナ君! モリモト君はッ?!」

 だが、先ほど(?)のことを思い出し、一人の方が慌て出す。

「落ち着いて。まだ目を覚ましてないけど、ここにいる。イオリのことは、僕は絶対間違えないよ。……心臓は動いているし、呼吸もしてる。ただ、暗いから怪我とかまでは分からないけど……」

 どうやら、ホシナ君は落ち着いてすぐ、彼がイオリと呼んだ人(それがおそらくモリモト君だろう)の状態をしっかり確認したようだ。思ったよりも冷静かも知れない。なら、それなりに頼りにさせてもらおう。

「まず確認するけど、俺は所持品がなくなってたんだが、君たちはどうだ? スマホとか持ってるか?」

 三人は俺の言葉に、慌てた様子で自分の身辺を検めた。だが、やはり俺と同様に衣服以外は何も持っていないようだ。

「そうか……とにかく、この状況じゃ何も分からない。俺は、あっちに小さく見える光の方へ向かおうと思うんだが、君たちはどうする?」

「僕も行きます。このままここにいてもしょうがないですし。二人もそれで良い?」

「……そうね。……アマネ? 暗いから頷いても分からないって」

「あっ、へへ、そうだね、モモ。……はい、私もそれで良いです」

 ホシナ君が即答すると、女性二人も同意した。まあ、こんな暗いところに置いて行かれる方が嫌だろう。

「それじゃあ、俺が先行するよ。足下に危険が無いか探りながらゆっくり行くから、その後を着いてきて。その、目を覚まさない人は君らに任せた方が良いだろう?」

「ありがとうございます、お願いします」

 ホシナ君が代表して答えるのを受けて、光を目指し、歩き出す――前に。

「そうそう、俺も名乗っておかないとな。俺は相田そうだだ。ひとまず宜しく」

 俺の自己紹介を受けて、彼らも正式に名乗る。

 目覚めている方の男子がホシナ、もう一方の男子がモリモト、モモと呼ばれていた方がユウキで、アマネと呼ばれていた方がリクオ。俺が苗字しか名乗らなかったからか、お互い苗字(の読み)だけの自己紹介だったが、とりあえずの不都合はないだろう。

「じゃあ、先行する」

 言って、歩き始める。光が見えているのは、そちらに向かって右手の壁側。それが見えているということは、少なくともそちらには、先ほど彼らを隠していたような大きな障害物はなさそうか。それなら後ろの彼らも俺のシルエットを見失うことはないだろう。

 最初から右手側の壁を伝って歩いていたら、彼らをスルーしてしまったかも知れないな、なんて、ふと思う。

 そして、その思いつきに連想して、気になることが立ち現れる。

 ――これで全員なのだろうか? ……という点だ。

 ファミレスには、他にも客はいたし、スタッフだっていた。それを探そう、という提案をしなかったのは、あくまでも“あのタンクローリーの軌道から、轢かれたとしたらこの五人だけだろう”という推測と、“ここにいるのは轢かれた人間だけではないか”という厨二病めいた妄想含みの先入観があるからではないか。

 もちろん、この暗さの中で、いるかどうかも分からない人間を探すことは、非効率的だ、という判断もあるし、それ自体は合理的だと、自分では思う。

 だが、こうして足下に注意を払いながら進んでも土塊つちくれくらいしか感触が得られないでいると、自分の今の行動は、助けられるはずの命を見捨てることになるのではないか、という不安が頭をもたげてくる。

(だめだな……。まずは目の前、自分のことに集中しよう)

 こんな状況、環境では、きっと心理的にも悪い方向へ傾きがちだ。そんな思考や感情に気をとられすぎれば、それこそ重大なものを見落としかねない。

 俺がたまたま先に目を覚ましたからといって、みんなを救おうなんてのは傲慢だろう。彼らだって、俺が見つけなくたって自力でどうにかしたかも知れない。

 ただの仮定に悩むにしても、後にしろ。そう自分に言い聞かせて、意識を足下に集中し直した。

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