66話 別れる悲しみ、出会う幸せ
「――母さん」
何とか言葉は出てきた。
しかし、それは日本語だった。
『英語で喋りなさいって言ってるでしょ? どうして日本語を喋って――』
言いかけた母さんが止まる。
その視線は、俺に向けられたものではなかった。
『……そういうことか』
母さんの視線を追うように振り返ると、部屋に続く短い廊下で彼女を睨んでいたイヴが見つかった。
その瞬間、後ろから大きなため息が聞こえてくる。
イヴの存在を認知したのなら、話は早かった。
『……お話があります。とりあえず、上がってください』
俺の言葉に渋々と言った様子で従う母さん。
部屋に入ると、俺はイヴを背に手提げ鞄を床に置く母さんに向き直った。
『後ろにいるその子は誰?』
『この前お話しした、交際することを約束している人です』
『そう』
おそらく中身のない言葉を交わす。
そして、それ以上は何も言及してこない。
ただ面倒臭そうに再びため息を吐くと、母さんは俺を避けてイヴに近づいた。
咄嗟に彼女たちの間へ入ろうとしたが、すんでのところを腕で母さんに遮られてしまう。
よく見れば、イヴもまた大丈夫と言わんばかりに小さく頷いた。
『……今すぐここから出て行ってもらえる?』
『どうしてですか?』
久しぶりに聞くイヴの英語は、一度も聞いたことのない警戒心を滲ませた暗い声色で発せられる。
『私が貴女たちの交際を認めないからよ。よくある話でしょ』
『認めてもらわなくても、私たちは付き合います。というか、貴女に私たちの交際は何も関係ないですよね? シュウトをほったらかしにしている貴女に』
『何……?』
『それだけじゃない。貴女はシュウトを傷つけた。心も体も、立ち直れなくなるくらいに。まるで自分に都合のいい道具みたいに、貴女はシュウトを振り回して、傷つけて、挙句の果てに捨てた!』
イヴの言葉に熱が入り――やがて爆発する。
『どうして!? 血が繋がっていなくても、シュウトは貴女の大切な子供じゃないの!? どうして自分の子供に、そんな酷いことができるの!?』
イヴの悲痛な叫びが部屋に響き渡る。
苦しそうに顔を歪ませる彼女に対し……母さんは真顔のまま、表情一つ変えなかった。
『自分の子供なんだから、何しようが私の勝手でしょ?』
『え……?』
何を当たり前のことをと言わんばかりに、なんの変哲もなく告げる母さん。
あれだけの訴えをたった一言で、それも冷めた声で返されると思っていなかったのか、イヴは目を丸くしながら小さくか細い声を上げた。
『貴女の方こそなんなの? 勝手に人の子の家に上がりこんだかと思えば、言いたいだけ言って私の話は何も聞かない。非常識にも程があるでしょ』
「あ……ぇ……?」
『付き合うのは許さないって言ってるの。そもそもシュウトは貴女と付き合うことを望んでなんかいない。むしろ、ずっと一人でいたいシュウトにとって貴女は……邪魔なの』
言葉の抑揚、表情、相手との物理的な距離感を巧みに使って、イヴに自分の言葉を刷り込ませていく。
洗脳。
俺にしたときと全く同じだ。
あの時の記憶が蘇ってきて、その言葉が自分に向けられたものではないのにも関わらず体がすくみあがる。
しかしイヴの体から力が抜けて崩れ落ちそうになると、俺の体は自然と動き出していた。
「イヴ!」
母さんの影から抜け出し、イヴの体を抱きかかえる。
彼女は虚ろな目をしながらも俺にしがみつくが、ふと俺を視界に入れると、そのくすんだ瞳から涙があふれ出てきてしまった。
「あ……あぁあ……」
嗚咽を上げて泣き出してしまう彼女を、俺は必死で抱き締める。
「大丈夫、イヴは邪魔じゃない。邪魔なんかじゃないよ」
声を落ち着かせて、ゆっくりと彼女に語り掛ける。
俺にはイヴが必要だと。
だから、ずっと俺のそばにいてくれと。
彼女の存在意義をここに生み出そうと、何度も何度も語り掛ける。
すると、ある瞬間を境に段々と嗚咽が収まっていった。
抱き着きを緩めて顔を見てみれば、涙で顔を濡らしたイヴの瞳に光が戻ってきている。
「……シュウト?」
きっと洗脳が浅かったから、すぐに解けてくれたのだろう。
思わず笑みを浮かべた。
「おかえり、イヴ」
「どうして、私……」
「とりあえず、今は休んでて」
精神を擦り減らして、きっと体力も消耗しているはずだ。
そのまま彼女をその場に座らせて、俺は母さんに向き直る。
母さんは、酷くつまらなさそうにしていた。
『興覚めね』
『お前……』
苛立ちが募り、湧き出る言葉が自然と口を突いて出てしまう。
『お前? ずいぶんと大口を叩くようになったじゃない。後ろの小娘のせいかしら?』
『ふざけるな』
『ふざけてるのはどっちよ。お前は一人でいることを望んでいたけど、今その小娘と一緒にいることを望んでいるのもまたお前なの。矛盾しているのよ? それのどこがふざけてないって言えるわけ?』
『今の俺は、あの頃の俺とは違う』
『じゃあさっき私が諭している間に、どうしてお前は間に入ってこなかったの?』
『っ……そ、それは……』
言い淀んで、隙を作ってしまう。
そこを母さんは待っていたと言わんばかりにいやらしい笑みを浮かべて言った。
『怖かったからよ』
『っ……』
『私が怖かったから、お前は私たちの間に割り込めなかったの。それなのに私が一歩引いたらすぐに駆け寄って、イヴが必要だの俺のそばにいてくれだの……片腹痛いんだよ!』
鈍い打撃音が響き渡る。
俺の左頬が殴られたかと思うと、その勢いを押し殺せずそのまま壁に叩きつけられてしまった。
「シュウト!」
「来るな!」
このままイヴをこちらに近づけさせたら、彼女まで傷ついてしまう。
それだけは、何としても避けたかった。
『それなら最初から体張って守れよ! 自分が安全な時だけ心配する振りすんなよ! だからお前はいつも口先だけなんだよ!』
「っ……!?」
心臓を抉り取られるような感覚に陥る。
いつも、口先……だけ。
『自分で決めたことも、言葉にしたことさえ満足に達成できない! そんなお前が、本当に人と繋がれるのかよ!?』
再び鈍い打撃音。
口の中に血の味が広がっていく。
今度は右頬が殴られた。
……痛い。
……苦しい。
思えば、母さんの言う通りだった。
俺はいつも口先だけ。
天邪鬼で、自分の気持ちにさえ正直になれない臆病者。
そんな俺が、本当に人と繋がれるのだろうか。
繋がったところで、その先にある幸せを得られるのだろうか。
本当に別れを乗り越えて、イヴと幸せになれるのだろうか――。
『――違うっ!』
悲痛な叫び声に、俺は思考の渦から引っ張り出される。
見れば、立ち上がったイヴが再び泣きそうな顔をしながら、それでも母さんをじっと見据えていた。
『シュウトは最初からずっと、自分で決めたことをやり通そうとしてた! それをずっと邪魔してたのは貴女でしょ!?』
『なんだと……?』
『私を守るのだってそう。一緒にいたいと思うのだってそう。それだけじゃない。シュウトは最初から、怖くても人と繋がりたかった、孤独から抜け出したかった! それをずっと邪魔してたのは貴女じゃないの!!』
……そうか。
イヴは、ちゃんと気づいてくれていたんだ。
それなのに俺は、自分のことすら信じられなくなって、疑って、手放そうとして……。
……でも、それでも俺は人と繋がりたい。
もう独りは嫌だから。
間違うこともあるかもしれないけど。
別れを受け入れられないことがあるかもしれないけど。
みんなと。
イヴと。
俺は……幸せになりたい。
『貴女のせいで口先ばかりかもしれないけど、それでもシュウトの私に対する思いは絶対に口先だけじゃない。だから、シュウトなら人と繋がれる! 別れだって乗り越えて、出会う幸せを見つけられる!!』
「っ――!」
イヴの言葉に、母さんはイラついた表情で彼女に近づいていった。
『黙って聞いていれば調子に乗りやがって――!』
そう言って、母さんはイヴに両手を伸ばそうとする。
しかし、それを俺がすんでのところで食い止めた。
彼女の両手を自分の両手で抑え、後ろでへたりこんでいるイヴを守るように立ち塞ぐ。
「シュウト!」
後ろでイヴの嬉しそうな声が響いた。
『どうしてその小娘を守る?』
『体張って守れって言ったのはどこのどいつだ……!』
母さんの力は思った以上に強かった。
少しでも気を抜けば押し負けてしまいそうになる。
それでも、絶対に俺は負けない。
これ以上イヴを傷つけさせやしない。
『お前はこれまで生きてきて、一体何を学んだんだ! 出会いは苦痛を生むだけ。人と繋がったって、ただ意味もなく時間を浪費するだけ。そこで味わった喜びも幸せも、別れれば全てなかったことになる。それどころかその喜びや幸せが、今度は悲しみや苦しみになってお前に襲いかかった! お前はその全てを、痛いくらい味わったはずだ!』
『違う! 確かに別れは悲しくて、苦しいものかもしれない。でも人の繋がりは、別れが全てじゃない!』
イヴと出会って、彼女は俺に人と繋がる幸せを教えてくれた。
人と関わることはこんなにも素晴らしくて、温かくて、楽しいんだってことを教えてくれた。
『別れたって、全てがなかったことになることはない。母さんや父さんと過ごした日々の喜びも、幸せも、俺の心にずっと残ってる! だから今日まで、またあの日みたいに幸せになりたいって思うことができたんだ!』
母さんの顔が、苦しそうに歪む。
それは形勢がこちらに傾いていることを教えてくれた。
だから俺は、大声を上げて言い放つ。
『お前の言葉に、俺の望む幸せはない! あるのは傷つくことを恐れる臆病さと、何も変えられない非力さだけだ!』
『傷つくことを恐れていたのは最初からお前だっただろうが! 私はその手助けをしたにすぎない!』
『違う! お前がしていたのは、俺の弱みにつけ込んで虐待のことを外へ漏らさないようにしていただけだ! お前は俺のことを何も考えてない!』
言葉の暴力による応酬が繰り広げられる。
それでも母さんは確実に、段々と反論の言葉を失っていた。
『それでも、傷つかないことを望んでいたのはお前だ! お前は傷つくのが怖くなくなったのか!?』
『まだ怖いさ! でも、怖がってちゃ幸せになれないんだ! 怖がってまた独りになるくらいなら、傷ついてもみんなと一緒にいたい! またあの日みたいに、イヴと幸せになりたい!』
『あの日みたいにって……その小娘が、お前の親にとって代われるわけがないだろうが!』
『あぁそうさ、イヴは母さんや父さんに成り代わることなんてできない。でも、だからこそイヴは、それ以上に俺のことを愛してくれた! だから俺は、また人を、こんなにも素直に愛することができたんだ!』
『何を……』
母さんは、もう俺に何も言い返せなかった。
だから、これで終わりにしよう。
虐待の証拠も十分集まった。
後は、俺がトラウマを克服するだけだ。
『“出会いは別れを上回る”、それをイヴが教えてくれたから……だから俺はもう、人との繋がりから逃げたくない。別れを恐れて、出会う幸せを逃したくないっ!!』
腕に力を入れて、思い切り母さんを押し倒す。
『ぐあっ!?』
母さんは声にならない声を上げて、背中から倒れこんだ。
そのまま俺は後ろにいるイヴに手を差し伸べる。
「イヴ!」
「シュウト!」
同じようにこちらに伸ばした彼女の手を掴んで引き上げれば、立ち上がって倒れこんでくる彼女をしっかりと抱き留めた。
「行こう!」
「うん!」
俺はイヴの手を引いて、彼女と共に部屋を後にする。
『ま、待て……』という声が聞こえたような気がしなくもないが、気にすることはない。
靴も履かぬまま、俺たちは太陽の光が照らす中を、ただひたすらに走り続けた。
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