64話 最後の準備

 ――その後も文化祭は滞りなく進んだ。


 強いて何か挙げるとするなら、一日目の解散時にイヴがどうしても俺と離れたくなさそうにしていたので一緒に泊まったことくらいだろうか。

 寝るときに教室で俺からキスしたことをなじられて、そのまませがまれてもう何回かしてしまった。


 本当はキスから先は付き合ってからと思っていたのだが、実際すでに付き合っているようなものだし、あの時はしたかったからした。

 自分の中での線引きを守ることはできなかったものの、自分に素直になれと言われていたので変に気に病むことはない。


 イヴも俺とキスできたのがよっぽど嬉しかったのだろう。

 夜が明けるまで、彼女の顔から笑みが消えることはなかった。


 まぁ、彼女はキスをせずとも普段からニコニコしているのだが。


 文化祭二日目も一日目とは大差ない。

 イヴと一緒に売店や展示物を見て回ったり、お化け屋敷で客を驚かしたり。

 お化け屋敷はセットや演技がちゃんとしていたからか地味に評判がよかった。


 そんなところだろうか。


 時間はあっという間に過ぎていき、気づけば外はすっかり暗くなっていた。

 最後には後夜祭があり、学校のグラウンドで花火が上がる。


 ということで、俺はイヴを連れて今日何度目かの屋上へと足を運んでいた。


「ここからなら綺麗に見えるね」

「あぁ。俺たちだけの特等席だな」


 俺たちはいつものベンチに腰を下ろし、背もたれに体重を預けた。


 夜の空は雲がなく、星がキラキラと輝いている。

 天気がいいというのもあるだろうが、こんなにも空が美しく見えたのは初めてかもしれない。


 それもこれも全てイヴのおかげだ。

 だから俺は彼女に改めてお礼を言おうとして視線を向けたが、彼女の表情に声をかけることが憚られる。


「……明日、なんだよね」

「そうだな」


 唐突に話題が変わる。

 イヴの声のトーンが下がる。

 真剣な表情からも、明日に控えている母さんの来訪のことを言っているのが容易に分かった。


「どうするの?」

「話し合いで済めばいいけど、ほぼ確実にそうはならないだろうな」


 今まで母さんと接してきて、彼女が俺にそこまで柔軟な対応をするとは考えられない。

 だからこそ、ほかの手立てを考えなくてはいけなかった。


 俺は制服のズボンからスマホを取り出すと、あるアプリを開いてイヴに見せる。


「それは?」

「録音アプリ。母さんとのやり取りを録音するために入れた」

「どうしてそれを?」

「まず最初に説明しておくと、俺は母さんを虐待で訴えようと思ってる。ただ、もうあんまり時間がない。電話で通報も考えたけど、その後の対応がどうなるか不透明だった。だからより確実に、自分で虐待証明の材料を持って警察に行くことを選んだ」


 ネットで調べてみれば警察やら児童相談所やらが速やかに身辺調査を行って通告内容の事実確認を行うらしいが、どれだけの時間がかかるのか、具体的な数字までは分からなかった。

 タイムリミットが明日までだから、それまでに自分の身の安全を確保できるのかどうか分からなかったのだ。


 もしタイムリミットを過ぎれば、俺はまた母さんに傷つけられる。

 その裏で動いていたことを調べられれば、それだけでは済まないかもしれない。


 それに自分から遠い場所にいる他人を信じるのも、正直に言ってまだ怖い。

 だから、一番信頼できる自分が虐待の証拠を集めて警察に突き出すことを決めた。


「明日母さんと話し合った後、そのまま警察に行こうと思ってる。そして母さんは話し合いの中で、きっと俺に手を上げてくると思うんだ。だから録音アプリでその様子を録音する。そうすれば、少しでも虐待の証拠になるんじゃないかと思って」

「シュウトに、手を……」

「それに、そのまま警察に行けば傷は残ったままだろ? 俺の体が証拠になる。そういう面でも、直接警察に行くのがいいと思ったんだ」


 そうすれば少なくとも電話で通報するよりも警官の中で、俺の虐待に対する緊急度が上がる。

 母さんとより早く、より確実に離れるにはこれしか方法がないように思えた。


 ふと、イヴに手を握られる。

 その手は震えていて、見れば眉を苦しそうに歪ませていた。


「シュウトの傷つくところ、見たくない……」


 まるで幼子のように駄々をこねるイヴに、思わず苦笑してしまう。

 自分が傷つけられる可能性だってあるのに、それでも彼女は俺のことを気にしてくれるのか。


 悲しそうに伏せる瞳から涙がこぼれないように、俺は反対の手でゆっくりと彼女の頭を撫でた。


「ありがとう。でも大丈夫、殴られたってなんてことはない。それよりも嫌なのは、イヴと離れ離れになること。だから明日、俺と一緒に戦ってくれるか?」


 今一度、問いかける。


 俺は別に一緒にいることを強制したいわけじゃない。

 俺の傷つく姿が見たくないんだったら明日来なくてもいい。


 それでも、今の俺にはイヴの存在が必要だった。


 問いかけると、彼女は小さく、不安そうに、けれどしっかりと頷いた。


「……ありがとう」


 少しずるい質問だったかもしれない。

 それでもイヴは、瞳に決意の色を滲ませながら言った。


「私、シュウトのこと守るっ」

「じゃあ、俺もイヴのことを守るよ」

「一緒に守って、一緒に戦おう」

「あぁ」


 イヴは今、誰でもない俺のことだけを見てくれている。

 周りの存在や、きっと自分のことまでも、頭の中にはないのだろう。


 誰でもない、俺のため。

 俺のためだけに、イヴは戦ってくれようとしている。


 そのことに言いようもない幸せを感じながら、それを感謝として彼女に返したかった。


「俺さ…………いや」


 けれど、言うのはやめることにした。

 言うのは、すべて終わってから……告白の時に、言いたい。


「今はやめておくよ。全部終わったら、必ず言う」

「分かった。必ずだよ、約束だからね」

「分かってるよ」


 その瞬間、笛のような音が耳朶をたたく。


 花火の音だ。


 俺とイヴがその音に気を取られて空を見上げれば、間もなく最初の花火が大きく空に咲いた。

 それを追って、次々にいろんな花火が空に上がっていく。


「わぁ……!」


 子供のようにキラキラと目を輝かせながら花火に見入るイヴ。

 そんな彼女を横目で微笑むと、俺も視線を花火に移した。


 紺色の空に、大小さまざまな花火が音を立てながら上がっていく。

 その輝きはこの校舎だけでなく、まるで俺たちの未来まで明るく照らしてくれそうなくらいにキラキラと輝いた。


「……綺麗だ」


 この瞬間をイヴと一緒に迎えられて本当に良かった。


 そんなことを噛み締めているうちに、花火は最後の光を俺たちに与えて空へと消えていった。


「……なぁ、イヴ」

「ん?」

「今日の夜はさ、別々で過ごさないか?」

「えっ?」


 イヴは素っ頓狂な声を上げて俺の方を見る。


 そりゃ驚くよな。

 なんせ“一緒にいよう”って言い合った矢先の言葉がこれなんだから。


「母さんと対峙するために、心の準備をしたいんだ」

「それは、私がそばにいたらダメなの?」

「あぁ。これは一人じゃないとできないと思うし、一人でしたい」


 イヴと一緒にいたら、幸せで気が緩んでしまうかもしれない。

 だからそうならないように一人で心の準備をしたい。


 ここだけは少し強がらせてほしいというと、イヴは不安そうな顔をしながら頷いた。


「ありがとう」

「絶対一人で先に行かないでね。約束だからね」

「分かってるよ。俺にもイヴが必要だから、もう一人で突っ走るような真似はしない」

「約束だよ」

「あぁ、約束」


 イヴは最後に俺の手をぎゅっと握ると、立ち上がって出入り口の扉に手をかける。


「じゃあ、またね」

「あぁ、また明日。よろしく頼むな」

「うん」


 屋上から立ち去るイヴを笑顔で見守ると、俺は再び夜の空を見上げた。


「……明日」


 明日は、母さんと決別する日。


 トラウマを、乗り越える日。


 ちゃんと乗り越えられるだろうか。

 イヴがいなくなった途端に不安が襲い掛かってくる。


「でも……」


 イヴがいれば、きっと大丈夫。


 もう、人と繋がることを怖がっていたあの日の俺じゃない。


 先ほどまで花火が上がっていた空に、今度は自分の決意を上げるのだった。

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