55話 天邪鬼
「はぁ……はぁ……!」
息が切れる。
胸が苦しい。
無我夢中で走っていたから、まともに息が吸えなかった。
俺はそこへたどり着くと、膝に手をつきながら大きく酸素を貪る。
……怖かった。
今の自分を見たら、彼女は果たしてどう思うだろうか。
失望するか。
もう一緒にいたくないと拒否をするか。
もしそうだとしたら、俺はその気持ちを受け止められるだろうか。
また別れてしまうことを受け入れられるだろうか。
……絶対に無理だ。
それでもこうして屋上に逃げ込んでしまったのは――。
「シュウト!」
――彼女が追いかけてきてくれることを、どこかで信じていたからだろうか。
イヴは屋上の扉を閉めると、俺と同じく息を整える。
そうして俺の背中に、優しい声で投げかけた。
「……久しぶり」
「っ……!?」
彼女の言っている意味が分からず、俺は思わず振り返って呟いてしまう。
「どうして……」
「どうしても何も、こうして話すのは久しぶりでしょ?」
「俺が言ってるのはそういう意味じゃない。お前、日本語……」
「あっ、気づいてくれた?」
イヴが嬉しそうに笑みを零す。
俺が彼女と出会ってから何度も見てきた、あの時と変わらないあどけない笑み。
「頑張ったんだよ? シュウトが教えてくれないから、ずっと一人で勉強してた」
「……どうして」
首をかしげるイヴ。
俺はその先の言葉を言おうとして、それが弱音だと悟った瞬間に彼女から視線を外し、ぐっと我慢する。
言ってしまえば俺は彼女の、俺への想いを否定することになってしまうかもしれないから。
彼女の日本語が俺たちの恋の証なんて、
でも、もし本当に日本語が俺たちの恋を証明してくれているのなら……。
そんなこと、いくら自分が弱くてもしたくなかった。
「……ねぇ、シュウト」
イヴに名前を呼ばれ、再び彼女を視界に入れる。
その時にはもう、彼女の顔に笑みは浮かんでいなかった。
その瞬間、さっきまでの笑みは作り物だったのだと察する。
何かを躊躇うような曇った表情で一呼吸置くと、彼女はまた笑みを顔に貼り付けた。
しかしそれは先程とは全く違う、触れば今にも崩れ出しそうな脆い笑みだった。
「ありがとう。さっき、助けてくれて」
「……あぁ」
「いつものシュウトなら助けてくれないと思ってたから、嬉しかった」
「……ごめん」
「ううん、シュウトが謝る必要ないよ。だってシュウトは……ずっと一人で戦い続けてたんだもん」
「っ……」
イヴの瞳から、雫が一つ、頬を伝う。
「ごめんね、どこにも行かないって言ったのに。シュウトのそばに、必ずいるって……言ったのに……」
やがて雨が強まるように、イヴの瞳からいくつもの雫が零れ落ちていく。
……あぁ、俺はまた彼女を泣かせてしまったのか。
初めて出会った時と同じように、俺は彼女のそばから離れようとして、彼女を泣かせている。
あれだけ傷つけまいと、泣かせまいとしていたのに、結局俺は彼女を泣かせてしまっている。
変わっていない。
でも、変わったところもある。
それは彼女が今、俺のために涙を流してくれているということ。
それが、今の俺にはどうしようもなく嬉しかった。
本当にどうしてしまったのだろう。
最低なことなのに。
申し訳ないと思っているのに。
心のどこかで安心して、感謝すらしてしまっている自分がいる。
まるで天邪鬼にでもなった気分だ。
……いや、きっと俺は今までずっと天邪鬼だったのだろう。
自分の心の声に逆らって、他人を嫌って、虚勢を張って、呪縛を受け入れて従って。
そりゃ心は壊れるし、他人を振り回すわけだ。
自分に対しても、他人に対しても、俺という人間は本当に最低な野郎だ。
……でも、これだけは言える。
俺の彼女への恋心は、決して天邪鬼なんかではないと。
彼女に歩み寄って、俺は優しく抱き留める。
「違う。どこか行ったのは俺の方だ」
「でも……!」
「イヴが謝る必要なんかない。むしろ謝らなきゃいけないのは俺の方だ。ずっと一緒にいたいって思ってくれてたのに、俺も思ってたのに、勝手に離れて、イヴをまたひとりぼっちにした。……本当にごめん」
イヴが嗚咽を零しながら、俺の胸の中で必死に顔を横に振る。
そんな彼女の仕草に、優しく心が温かくなっていくのを感じる。
……あぁ。
人と出会うって、こんなに嬉しいんだ。
人と繋がれるって、こんなに温かいんだ。
人を愛せるって、こんなに幸せなんだ。
でも、彼女は泣いている。
だから俺は彼女に向けて、溢れんばかりの想いを込めて囁いた。
「……大好きだよ」
するとイヴは俺の背に腕を回して、さっきよりも大きな声を上げて泣いてしまうのだった。
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