カフェ・アイリス 掲示板な午後

Tempp @ぷかぷか

第1話 バレンタインポエム

 少し重めの樫の木の一枚ドアをギィと開け、今日も今日とて私は喫茶店アイリスに足を踏み入れた。その途端、ふわりと香ばしい珈琲の香りが鼻をくすぐる。

 今日の香りはわかりやすい、比較的。酸味と甘い香りが特徴のこの珈琲は野趣あふれるキリマンジャロ。アフリカのタンザニアからやってきた人気の根強い豆……に違いない。確信はあんまりない。

 そう思ってドキドキしながらカウンターの端にそっと乗せられた『本日の珈琲』欄に目をすべらせれば、紛うことなきキリマンジャロ。

 おっしゃ!

 心の中で喝采を上げ、見慣れないものに気がついた。

 『本日の珈琲』が書かれている小さな黒板の隣に一回り大きな掲示板が置かれ、そこに何枚かの紙が貼り付けられていた。

「いらっしゃいませ、吉岡よしおか様」

「こんにちは、マスター。『本日の珈琲』をお願いします」

「承知いたしました。少々お待ち下さいね」

 マスターの柔らかい笑顔とこのやり取りこそが至福、天国、この世の至高。


 この喫茶店アイリスはマスターの笹川英一ささがわえいいち様が40年ほど前からお一人で切り盛りされていると伺っている。この昭和感あふれる木造りの、いわゆる純喫茶店というこの世から駆逐されようとしている古き良き文化と映画のワンシーンのようにそこに不可欠に佇む60代のマスターは私のいわゆる推しなのだ。これこそ無味簡素な生活の中の唯一の潤い。

 だから私は毎日喫茶店アイリスに日参し、マスターの目の前のカウンターにドキドキしながらおそるおそる着座する。少し前までは窓際のテーブルでマスターにお越し願っていたのだけれどそれもまた申し訳なく、何よりカウンターの方がマスターに物理的に近いので。

 マスターの健やかなお姿を目に焼き付ける。尊い。


 そうそれで見慣れないもの。

 そのカウンターに置かれた掲示板、その隣には『神津北公園通こうづきたこうえんどおり商店街バレンタインポエムコンテスト』と書かれた三つ折りのピンク色のチラシが置かれていたのでそっと手に取る。

「おまたせしました。本日の珈琲でございます」

「頂きます」

「おや、吉岡様はポエムに興味がございますか?」

 マスターの視線が私の手元にそそがれ、やっぱりドキッとする。

「え、あ、いえ。なんだろうと思いまして」

「この公園通りの商店会でバレンタイン企画をしようという話があがりまして。それで各店舗でポエムを募ることになったのです」

「ポエム、ですか」


 言葉や詩ですらなく、ポエムという響きは何やらふわふわしていて少し気恥ずかしく、ハードルが極めて高い。それを公開するとか、このハードルを乗り越えられる猛者は心臓に毛が生えているに違いない。

 それで掲示板には猛者の足跡、5センチ四方の紙が3枚ほど貼り付けられていた。誰か既に参加しているのかと思って覗き込んで困惑する。

『恋はまことに影法師、いくら追っても逃げて行く、こちらが逃げれば追ってきて、こちらが追えば逃げて行く』

 なんだこれ。ポエムというより大喜利のような。

 よくわからんと思って眺めていると、マスターが妙にしょんぼりと灰色混じりの眉毛の端っこを下げていた。えっ?

「駄目でしょうか」

「えっと、えっとあのこれはマスターが?」

「いえ、シェイクスピアです。私も詩はよくわからないのですが、妙に耳に残っておりまして。その、掲示板を設置しても1枚もなければ流石に誰も張って頂けないと思い、それでお恥ずかしながら最初の1枚を書いてみたのですがやはり古かったでしょうか」

 やばい、マスターがシェイクスピアとか凄いそれっぽい。キュン死。

 シェイクスピアが新しいとはとても言えない気はするけれど、新しいとかそういう問題ではないんじゃないだろうか。でもええと、どうしたらいいんだ。推しを悲しませるわけにはいかぬ。


「シェイクスピアはよくわからないですけど、この喫茶店にはとてもあっていると思います。だから他の方も書いたのではないでしょうか」

「それが他の2枚も常連さんにお願いしたものなのです」

 マスターはますますしょぼんと悲しそうに眉を下げる。いと萌ゆ。

『星の数ほど男はあれど、月と見るのはぬしばかり』

 これは都々逸かな。どこかで見た気がする。

 もう1つは演歌のサビっぽく、やっぱり聞いたことがあるような。

 けれどもどれもこの企画テーマとはちょっと、いや大分違うような気がする、というか。

「とても言いづらいのですが、どれもバレンタイン感がないです」

「バレンタイン感、たしかに」

 マスターはなるほどという風に頷いた。萌え。

「あの、マスターはこの企画を盛り上げたいとお考えでしょうか」

「そう、ですね。せっかくやるのでしたらそれなりにはと思っているのですが」

 その語尾はやっぱり次第にしぼみ、本当にどうしたらいいのかよくわからない、というふうにマスターは指先を軽く組んだ。尊い。

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