第二話 御縁叶冬という男(一)

 金魚屋の男から逃げた翌日、晴れやかな空とは裏腹に秋葉の気持ちはどんよりと曇っていた。


「アキ、どうした。今日も具合悪いのか」

「ううん。ちょっと考え事」


 無理すんなよ、と隆志は扇子でぱたぱたと扇いでくれた。

 倒れることが多くなってから隆志は扇子を持ち歩くようになっている。友人の優しさに気持ちも浮上したその時、大学という学び舎には似つかわしくない女性の歓声が聴こえてきた。

 歓声の方を向くと、そこには多くの女生徒を引き連れている男がいた。それは――


「やあやあ。学んでいるかい、アキちゃん」

「あなた、金魚屋の」

「何。名前で呼ぶほど仲良くなったの?」

「え、い、いや……」


 今日も女性用の着物を羽織っている。これは祭りを賑やかすためではなく日常的に着ているのだろうか。

 それにしても何故大学にいるのだろう。三十五歳なら大学生ではないはずだ。

 それ以前に秋葉は大学がどこかなど教えてはいない。まさか金魚に後を付けさせたのだろうか。金魚を操ることなど考えたこともなかったが、それくらいやってのけそうな怪しさをこの男からは感じていた。


「……何故俺の大学がここだと?」

「だって君これ落としたからさあ」

「え?」


 男がハイ、と手渡して来たのは一枚のチラシだった。それは浴衣一日五百円という日舞サークルのチラシだ。チラシの右下には『北条大学』と明記されている。

 これは浴衣レンタルの控えにもなっていて、借りた時に所属とフルネームを書いた。それを落としたのだ。

 ようするに名前と大学を知ったのは金魚でも探偵のような調査でもないということだ。単なる落し物配達だったことに少しがっかりし、それを受け取ろうと手を伸ばした。


「すみません。有難うございます」

「おっと。あげないあげないあ~げない」

「え……」


 チラシを掴もうとした瞬間、ひょいっと男はそれを取り上げにやにやと笑った。


「欲しいかい? 欲しかろう? 欲しいに違いない!」

「いえ、別に。無ければ無いで」

「ほっほ~う!? じゃあ僕がこれを千枚コピーしてご町内に配り歩いてもいいと!」

「……すみません。返して下さい」

「いいよ。ただし僕に付いて来てくれたらね」


 男はにっこりと微笑んだ。

 秋葉は別に話をしたくないわけではなかった。何しろ生まれて初めて出会った金魚を理解する人間だ。怪しげな男ではあるが興味はある。

 しかしこんな脅され方をすると素直にうんと言い難い。余計な演出しないでくれよと思っていると、癖なのだろうか、男はするりと頬を撫でてきた。


「君の金魚鉢は僕の所にあるよ」

「金魚鉢?」

「そうさ。金魚を消す金魚鉢さあ。あれが欲しいんじゃないのかい?」

「金魚を……消す……?」


 ――何だそれは。

 触ることすらできないあの金魚を消すというのは秋葉の悲願だ。

 金魚になっていくあの夢を見ずに済むようになるかもしれない。


「来るだろう?」


 もはや拒否するという選択肢は無かった。

 まだ授業があるけれど、秋葉は隆志に代返を頼んで金魚屋の男に付いて行った。


*


 金魚屋の男が向かったのは御縁神社だった。

 既に祭りは終わり屋台は片付けられている。中央の参道を抜け本殿の裏手に周り、そのまま境内を抜けるとこじんまりとした喫茶店が見えてきた。看板には『黒猫喫茶』と書かれている。金魚が彩る祭りをしていたのに『猫』とは何とも妙だ。

 喫茶店の入り口は商店街の横道に面しているが、街はずれだからか客はまったくいない。

 しかし秋葉が気になったのは喫茶店に隣接されている蔵だった。薄汚れていて造りは古めかしいが、蔵として使うにはあまりにも大きくて背が高い。

 一体何があるのか興味惹かれていると、金魚屋の男はその蔵へと向かって行った。


「中は冷える。これを羽織るといいよ」

「え、これをですか……」

「金魚屋の正装だよ。喜びたまえ」

「はあ……」


 無理矢理羽織らされたのは金魚屋の男が羽織っている女性用の着物だ。まさか正装だとは思わなかった。

 何となく嫌だなと思ったが、一歩踏み込んだ蔵は確かに上着が必要なくらい冷えていた。玄関のある小部屋は薄暗いが、抜けて奥へ入ると秋葉は思わず後ずさった。


「うわっ……!!」


 そこにあったのは水槽だった。

 どうやって手入れをするのか分からないほど高さがある水槽が壁を作っている。金魚が泳ぐそれらはおそらく祭りで使ったものだろう。

 水が窓から差し込む光を拡散していて、いつもなら恐ろしく感じる金魚にも見惚れるほど美しい。

 よく見れば足元に『順路』と書かれた小さな看板が立てられている。これは観賞用として公開されているのだろう。


「金魚屋って水族館だったんですね」

「いいや、金魚屋だよ」

「はあ。どうして金魚だけなんですか?」

「記憶だからさ」

「……金魚が好きなんですか?」

「いいや。忘れないためさ」

「何をですか?」

「記憶をだよ」


 誰の、とは聞かなくても分かった。どういう記憶なのかは分からないが、やはりこの男は金魚に謂れがあるのだ。

 謎かけのように煙に巻かれて秋葉の疑問は消化不良を起こしたが、そんなことは気にも留めず男は水槽に囲まれた通路をどんどん進んで行く。

 蔵の中をぐるりと回ったのか、男が扉を開けて出たのは喫茶店の真裏だった。そのまま喫茶店の裏口から中へ入ると、中は大正くらいの時代を思わせる落ち着いた雰囲気だった。もっと良い場所に建っていたら人気が出そうだ。

 見惚れてほうっとため息をついていると、するりと羽織っていた着物を回収されテーブル席に着席を促された。


「さあ座りたまえ。飲み物はないからうちの土産物で勘弁しておくれ」

「あ、お構いなく」


 遠慮しなくていいよ、と出してくれたのは小さなペットボトルだった。

 手に取るとほんのりと温かいが、飲むのは躊躇われた。それは遠慮などではなくパッケージが理由だった。パッケージには金魚のイラストと、ロゴは『金魚湯』と描かれているのだ。


「……中身なんですか?」

「ただのお湯だよ。安心おし。金魚で出汁取ったりしてないから」

「はあ……」


 それでもやはり抵抗がある。しかし金魚屋の男はごくごくとそれを飲み干し、出された以上は礼儀として飲まないわけにもいかない。

 おそるおそるペットボトルに口を付けたがやはり飲むことは躊躇われ、飲むフリだけしてテーブルに戻した。

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