第三幕 もう二度とこの世に。

 その言葉に、六朗は耳を疑った。

「聞こえなかったのか? 椿に飽きた。あの女は知りすぎている。今すぐ殺してこい……と言ったんだが?」

 今にも雪が降りだしそうな夜。

 自室に戻った罅島は六朗を呼びつけるや否や、ひどくつまらなさそうにそう言って葉巻に火をつけた。間接照明で薄暗い和室が一瞬だけ明るくなって、ジッポライターが閉じるのと同時に元の薄暗さに戻る。

「……罅島さん、椿はあんたが連れてきたんだろう。なぜ飽きた」

 何を言えば正解かだなんて、六朗には考えたところでわからない。ただ、椿を殺せと言った罅島の言葉だけはどうしても飲み込むわけにはいかないと本心が告げていた。

「なぜ? 逆に問うが六朗、なぜ理由を欲しがる? 今までのお前なら俺が殺せと言えば、問答無用で即刻殺していたじゃないか。それが椿に限ってはなぜと理由を欲しがる」

 罅島が意地の悪い笑みを浮かべる。

「……六朗、てめぇ、あの女に惚れたんじゃああるめぇな?」

 畳に胡坐をかいて葉巻をふかしながら、罅島は障子の手前に立つ六朗を睨み上げる。

 六朗は何も答えない。いや、答えられなかった。

 彼自身の心に、椿に対する感情が何なのかという答えが浮かんでこなかった。

 好きも嫌いも、恋も愛も……そんなものは存在しない世界で生きてきた六朗にとって、この感情に答えを見出すことは不可能だった。

「……だんまりか、まぁいい。とっとと殺せ」

 だが、

「それは……できない」

「……なんだと?」

 一つだけ明確なことがあるとすれば、自分の心は彼女の死を望んではいないということだった。そのたった一つの本心に突き動かされて、六朗は考えるよりも先にできないと罅島に言い放っていた。

「俺の仕事は組にたてついたやつを始末することだ。あの女はあんたに従順だ……組にたてついていない人間を、俺は殺さない」

 抑揚のない声でそう言えば、罅島はまたつまらなさそうに葉巻を咥え、数秒してから大きく長い息を吐きだした。葉の焼ける匂いが部屋中に煙と共に立ち込めた。

「なるほどな。お前ならそう言うと思ったよ」

 罅島は途端にカラカラと笑いだし、「椿の話は冗談だ。最近てめぇと仲がいいと噂を聞いてな。カマかけてみたまでよ」と言った。それから懐に手を忍ばせれば、一枚の紙きれを取り出して六朗に寄こす。

「お前は今からここに行け。この店の裏口から出てくる男を殺してこい」

 紙切れには見知らぬ男の名前と、名前だけ聞いたことがある店名が記載されていた。

「なぁに、そいつはただの滞納野郎だ。とっとと始末して未納金を持って来い」

「……承知した」

 一つ返事で踵を返し、部屋を出ていく六朗の後姿を、罅島は鋭い眼で見遣る。

 やがて足音が遠くなったのを見計らって、窓辺によれば、外に待機させておいた組員を窓から呼んで耳打ちする。

「椿を殺せ。そして六朗も生かしておくな。やつはもう使い物にならねぇ」

 組員の男が無言で頷き、夜の闇に消えるのを見届けると、罅島は窓を閉めて大きくため息をついた。

「馬鹿が。お前の代わりなんぞ、いくらでもいる」


 ***


 罅島に指示された店に行き、裏口で罅島の部下に襲われた時、はじめて六朗は自分がやつに嵌められたと気が付いた。

 罅島の自室を出て一時間後。もうすぐ日付が変わるという時刻のことだ。待てど裏口から男は現れず、代わりに現れたのは六朗の息の根を止めろと罅島に命令された組員数名だった。死角から不意打ちを食らい鉛球をどてっぱらに一発貰ってしまったが、すぐさま愛刀を抜き、その場で組員を一人残らず叩き切った。最後の一人を殺す前、誰の差し金だと詰め寄れば罅島の名前がその口から零れ落ちた。命乞いをする男は椿と六朗の両方を消せと言う命令を受けたとまで話す。

 ……心臓がどくりと脈打った。刀を握った右手が無意識に震える。

「……っ」

 六朗はまだ何かしゃべろうとする男の口を塞ぐように刀で命を刈り取ると、無我夢中でその場から屋敷に向けて走り出す。穴の開いた腹からは真っ赤な血が流れだすが、そんなことに構ってはいられない。人通りの少なくなった暗い夜道をただただ走る。

 やがて屋敷の門が見えてきた。門は開いている。飛び込んで一目散に椿が当てがわれている部屋に向かうが、彼女の姿はそこにはない。

「……っはぁ、は、」息が上がるのはいつぶりか。

 踵を返して庭に飛び出し、周囲を見渡す。暗い空から雪が降り始め、一層強くなった寒さが吐く息の白さを濃くする。敷地内から椿は出られない、どこかにいるはずだと注意深く屋敷を見渡せば、普段使われていない蔵の入り口が数センチ程開いているのに気がついた。嫌な予感がして、心臓の音が耳のすぐ横で聞こえる。

 薄く雪化粧し始めた土を踏みしめて蔵に近づくと、数センチ開いた扉の奥から嗅ぎなれた濃い鉄の臭いが漂ってきた。反射的に扉を押して中に飛び込めば、その鉄の臭いは一層濃くなって六朗の鼻を突く。

 そして、蔵の床には――、

「…………!」

 全身を何十か所もめった刺しにされ、既にこと切れた椿があおむけで血の海に沈んでいた。

「……つ、ばき」

 綺麗な髪の毛は血で固まり、白く綺麗な肌も指も血でどす黒く変色している。目は完全に閉じておらず、うっすら開いた瞼から濁ってしまった瞳がただ虚空に向けられていた。半開きになったままの唇は色を失くし、最期の瞬間まで懸命に息をしようとしたことが見てとれる。

 六朗は椿の亡骸を見下ろして、呆然と立ち尽くした。

 なぜこんなことになった。どうして椿は死ななければならなかった。

 椿が罅島に何をしたというのか。何か気に障ることがあったのか。

「いや、違う……」

 己の中に浮かんでいるこの気持ちが、この悲劇の正体を示しているのではないか。

(俺が、そばに居すぎたせいか)

 罅島は自分のものが他の男になびいたと思って、気に食わなくなったのだろう。昔から自分の所有物を脅かそうとする人間に、罅島は容赦しない。

 だが、こんな仕打ちがあってたまるか。

 あって、たまるか。

 

 ガタン、という音が蔵の奥から聞こえたのはまさにその時。六朗が顔をあげれば、蔵の奥と上階から幾人もの組員が各々の武器を手に六朗に襲い掛かってくる。反射的に手に持った刀を抜き、鞘を投げ捨てた。椿の横に落ちた鞘が血に沈むがもう関係ない。きっとこの刀は二度とそこに収まることはない。

 気が狂いそうになるこの激情を、右手の刃に託して切り殺す。相手が何人いようと誰であろうともはや関係のないことだ。たてつく人間は殺す。

「うぉおぁぁああ‼」

 獣の様に雄叫びを上げ、次から次へと湧いてくる組員をただ切り殺す。途中、拳銃で二発ほど右太股と右肩を撃ち抜かれた。傷口からは尋常じゃない量の血が溢れ出してスーツを濡らすが、もはや痛みなど感じない。

 六朗は蔵に潜んでいた組員を全滅させると、蔵を飛び出して屋敷の中へ入る。組員には六朗を消すようにという命令が平等に下されていたようで、皆一様に六朗を殺そうと襲い掛かってきた。だが六朗の前では皆赤子の様に無力だ。罅島に腕を買われていた彼に敵う人間などいるはずもない。せいぜい飛び道具で六朗の肢体を撃ち抜いて動きを鈍らせる程度しかできなかった。

「……っはぁ、はぁ」

 気が付いたときには、屋敷の中にいたほぼ全ての組員が血の海に沈んでいた。六朗は傷だらけの体で罅島の自室に向かう。むき出しの刀は血がこびりつきかなり刃こぼれをしていたがあと一人……一番の元凶を殺すくらいならば可能なはずだ。

 罅島の部屋の障子を蹴り破って中に踏み込めば、罅島は拳銃を構えて部屋の隅でこちらを狙っていた。逃げる時間までは稼げなかったらしい。すかさず発砲してきた球を刀で真っ二つに叩き切ってから、そのまま体勢を低くして一気に前に踏み出し切りかかる――

「……っひ」

 ガン、という酷く鈍い音がして銃身が真っ二つに切られ、罅島の手から拳銃が畳に転げ落ちた。役目を果たせなくなったそれはもうガラクタ以外の何物でもない。

「六朗……貴様恩を忘れて俺にたてつく気か!」

 正直、六朗がここまで強いという想像をしていなかったのだろう。罅島は苦し紛れにどうにかその場をやり過ごそうと言葉を探しているようだった。それはまるで、死なないための時間稼ぎ……どうにかしてこの状況を脱出しようと解決策を探す愚かな行為。

「罅島さん、」

 酷く感情のない声だった。

「……俺もこれで人生終わってやるから、てめぇらも……ここで終いだ」

「まて、六朗! 俺とこの組を立てなお」

 罅島の言葉は最後まで音にならなかった。

 六朗の刃は迷うことなく罅島の脳天へ吸い込まれ、彼の顔面を真っ二つに叩き割った。噴き出した血が障子に飛び、部屋の中を鉄の臭いが埋め尽くす。何もしゃべらなくなったまま、前のめりに畳に沈んだ罅島の後頭部を六朗は見下ろす。

 体の中に溜まった鉄の臭いを吐き出すように長くため息をつけば、それに伴うように体中の傷がじくじくと痛みだす。手と足、肩、腹、もはやどこをどう鉛球に食い破られたかすら判別できない。体中に開いた穴から流れた出た血で、スーツはすっかり赤黒く染まっていた。

 罅島の死体を見つめつつ、六朗は彼が使っていたジッポライターを卓の上からひったくると、そのまま倒れそうになる体を懸命に動かして屋敷の門から外に出る。雪は一層強く降り、深夜ということもあって辺りに人の気配はない。

 屋敷から持ってきたオイルを組員からはぎ取った衣服にしみこませ、ジッポライターで火種を作って屋敷の植え込みの中に投げ入れた。少し経って、夜の暗闇に赤い炎の影が浮かび上がる。これで全て燃やしてしまえば、たとえ組の生き残りがいたとしても復興までには相当の時間を要するはずだ。

「ざまぁ……みろ……」

 六朗は遠くなる炎を背に、ただ一つの場所を目指してよたよたと歩を進めた。歩けば歩くほど血は流れ、道には流れ出した生の赤が残る。白い雪に赤い血は、いやでも映えた。



 やがて六朗は、怨代地蔵のもとへやって来ていた。

 降る雪を頭に積もらせた地蔵は、何も言うことなく変わらずそこに佇んでいる。六朗は地蔵の横まで行くと、地蔵の体に背中を預けてずるずると座り込んだ。背中に地蔵の冷たさが伝わってくる。しんしんと降る雪の音すら、聞こえない。

「……怨代地蔵さんよ……一つ頼みがあるんだ」

 六朗はぽつりと話し始める。

「あんたが背負ってる……人間の吐き出した怨みつらみ……俺が全部……地獄に持っていってやるからよ……その代わりと言っちゃなんだが……俺の魂を……もう二度とこの世に生まれ変われねぇように……消滅させてくれねぇか……」

 肺から出した空気は辛うじて白く濁るも、その濃さは薄い。体の中が徐々に冷えている証拠だろうとぼんやり考え、同時に死がもうすぐそこであることを悟る。

「俺はきっと……この先何度生まれ変わったとしても……必ず誰かを不幸にし続ける……自分のことだから、わかる……」

 だから、頼む。

 そう呟いたが最後、声がうまく音にならなくなった。咳き込めば、傷ついた肺から血がせり上がってきて手や胸元は真っ赤に染まる。霞む思考の中、懸命に椿の顔を思い出そうとした。だが、一番に浮かぶのは、血に沈んだ先刻の彼女の姿だった。

(すまねぇな、椿……)

 頭の中で、もういない彼女に語り掛ける。 

(痛かっただろう。あんな……めった刺しにされて。どうせ死んじまうなら……俺が……一思いに殺してやればよかったんだ……)

 彼女はいつだって、前を向いて生きていた。

 狭い箱の中に連れてこられても、そこで懸命に咲こうとした。

 その花が……摘み取られるきっかけを作ったのは、恐らく自分の存在だろう。自分のような血で汚れた存在は、彼女のそばにいるべきではなかったのに。

 だが、それでも……そうだとわかっていても彼女のそばは――居心地がよかったのだ。

 どうか、彼女がちゃんと天国へ行って……来世は幸せであるように。

 自分のような男と、二度と出逢うことがないように。

「………っ」

 体の力が抜けて、首が垂れる。

 声は声にならず、ただ空気として最後に少しだけ外気を濁らせた。重くなった瞼が降りてきて、視界が狭くなる。

 感じたことのない熱が、頬を伝うのを感じた。その熱がなんだったのか、六朗自身が知ることはなかった。

 彼の心臓が止まっても、彼の血はしばらく止まることなく、地面を濡らし続けた。



 冷たくなった六朗の横で、地蔵は思い出す。

 いつだったか、二人が掃除に来た時。バケツの水を捨てるために六朗が席を外したそのちょっとの時間で、彼女は地蔵にこう言った。


 ――『あのね、お地蔵様にお願いがあるの。もし……いつか六朗君が死んじゃう日が来ても、彼を地獄に落とさないで。自分で選ぶという環境を何一つ与えられなかった彼に、チャンスをあげてほしいの。私の魂に彼の分の罪を被せても構わないから……だから、お願い……』


 六朗君を、地獄に落とさないで。

 彼を、独りぼっちにしないで。

 そう両手を合わせて懸命に祈った彼女の表情も声も、地蔵は鮮明に覚えていた。そして彼女と一緒になって掃除に来たこの六朗という男のことも覚えていた。

 運命は、時として残酷だ。

 お互いのことを思いあった二人は、この寒空の下で共に命をなくした。男はさぞ無念だったろうと地蔵は思う。自らに体を預けて絶命している男の体にはもう温もりは残っていない。

 怨代地蔵のもとに来る人間はみな、恨みつらみを吐き出していくばかりだった。

 だが、この男と彼女だけは……少し違った。人生の背景に何があろうと、どんな苦行があろうと、彼らは他の人間にはない、何か違った魂を持っていた。


 空から降った雪が地蔵の目の下に落ちて、それはスッと一筋の跡を作る。

 地蔵は、今まさに暗闇を下に落ちていく魂に、あの世とこの世の境目で手を伸ばした。

 その魂は確かに強いが、深部が柔らかく、温度はあまりにも優しい。

 

 ――六朗君を、地獄に落とさないで。

 

 あの日の彼女の声が暗闇に降る。

 彼女はきっと、彼のこの魂の色を見抜いていたのだろう。

 光を纏った手にすくわれて、落ちていく魂は再び地上へと舞い戻る。

 地蔵がしてやれるのは、彼を地蔵の傍に置いてやることだけだ。

 やがて自我を持った彼が、どのような『存在』になるかは地蔵にすらわからない。

 だがきっと、例え悪い方に転んだとしても、いつしか彼は本当の自分を取り戻すだろう。


 だから、ここにいなさい。

 貴方が救われる、その時まで。

 


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