第四九話 天文十二年三月下旬『市江川の戦いその伍』

「ははっ、こりゃ圧巻ねぇ」


 市江川を挟んで対岸にずらりと並ぶ一向宗門徒たちを、仮設した物見櫓から見下ろしつつ、わたしはなんとも乾いた笑みをこぼす。

 劔神社で舞台に立った時にも思ったけど、やっぱり数ってそれだけで『圧』だ。

 あの時はまだ味方だったけど、今度は明確な敵。

 敵意戦意のようなものが、ひしひしと伝わってくる。

 まだ距離は一里(約三・九キロメートル)ほどはあるのに、見てるだけでそのプレッシャーに心が圧し潰されそうだった。


(こりゃ岩村城の経験がなかったらヤバかったかも)


 わたしはあそこで二度も過酷な籠城戦を経験しているからね。

 劔神社で、一万の大軍を前にしたのも良かった。

 人間やっぱり場数が物を言うわ。

 経験すればするほど、それに対する慣れが生まれて緊張が減るからね。

 おかげで今は多少冷静でいられるってものである。


「問題はこれが虚なのか、実なのかってことね」


 戦というものは虚実を入れ混ぜるものだ。

 先の服部友貞の時もそうだったように、大軍の方が虚、吹けば飛ぶような小勢力のほうが実なんてことも普通にあり得るのだ。

 それを見極めることが戦の明暗を分けると言っても過言ではないのだが、


「ん~~~、ダメだ。わたしにゃ全っ然わかんないわ」


 しばらくじいいっと対岸に陣取る敵兵たちを凝視するも、わたしはお手上げとばかりに肩をすくめる。

 前述のように、史実の信長は対陣している川向うの斎藤勢を見ただけで、庶兄信広の内通を看破したって話だけど、わたしには逆立ちしても無理な芸当だわ、こりゃ。

 もうしばらくしたら成経もここに来るはずだし、その時にその辺は確認させるとして、


「仮に虚だとすると、よくある手だけど、本隊を囮に、少数部隊が迂回してどこか別の場所から渡河し、陣城を築く、ってところかな」


 とりあえず今想定出来る事は、出来る限り前もって想定しておかないと。

 算多きは勝ち、算少なきは勝たず、だ。

 まあ、先日の伊勢全域の動員の衝撃からの、服部友貞の奇襲の焼き直しで、まさか芸もなく同じ手で来るとは思えないが、謀将だけにその心理の裏を突いてくるなんてことも十分にあり得る。

 有効な手ではあるしね。

 とりあえず視野に入れて置いて損はないだろう。


「他にはもう津島ではなく、熱田を狙っているってことも考えられるか」


 熱田もまた織田家の財政の屋台骨とも言うべき湊である。

 また、熱田神宮の北東には劔神社もある。

 大義名分が仏敵であるわたしは討伐することにある以上、その象徴たるあの神社を破壊しわたしの権威を失墜させる、って手も考えられる。

 個人的には跡形もなく破壊してほしいところであるが、


「でもたぶん、これはないわね」


 今川家の太原雪斎としてはそれを是非ともやりたいところなのだろうが、一向宗としては旨味がない。

 さすがにね、この時代の一向宗が、正義だけで動いているとは思えない。

 彼らは彼らなりの損得勘定で動いているはずだ。


 熱田は長島からは遠く、飛び地となる。

 獲ったところで到底守り切れるものではない。

 それならやはり、地理的にも近い津島を獲ったほうがいいに決まっている。

 でも、その裏をかいてくるなんてことも……

 なんてぶつぶつと思考をまとめていると、


「さすがはつや姫様。あれをみても、まったく普段通り、冷静沈着であらせられる」


 不意に、隣に立つ勝家殿から声をかけられた。

 振り返るといつもの仏頂面……ん? なんかいつも以上に強張っているような?

 見れば握り締められた拳が、わずかに震えていた。


「こ……武者震い、ですか?」


 危ない危ない。

 怖いんですか、とか聞きそうになってしまったわ。

 さすがに男の人にそれはノンデリすぎる。


「ええ、正直、怖いです」


 あちゃ~、咄嗟に言い換えたんだけど、やっぱ気付かれていたっぽい。

 でもあんまり怒っている様子もない。

 いや、怒る余裕さえない、といったところか。


「えっと、死ぬのが怖い、とかじゃ多分ないですよね?」


 すでに勝家殿は、幾度か戦を経験しているはずだ。

 特に安祥は激戦で、死者も大勢出ている。

 そこでも勝家殿は一騎当千の戦いぶりを見せ、かつ殿としても冷静で迅速、実に鮮やかな撤退ぶりだった、と家中ではもっぱらの評判だ。

 そんな人間が、ここまで過剰に死を恐れているとは思えなかった。


「いやまあ、普通に死ぬのは怖いですが……それよりも今怖いのは、この両肩にのしかかった陣代の責任と重圧、でしょうか」

「あ~……」

「請け負った時には、自分こそが適任という自負はありました。ですがいざあの大軍を見ると……」

「怖くなってきた、と」

「……はい。あの大軍を果たしてしのげるのか、と」


 勝家殿は眉間にしわを寄せつつ、苦渋もあらわに頷き、


「俺の判断一つで、手勢二〇〇〇の命運が、津島の命運が、ひいては織田家の命運が左右される。そう思うと、今さらながらに怖くなってきました。陣代を任じられながら、つや姫様の信頼を損なうこの体たらく、情けない男と笑ってくだされ」


 そのつらい内心を吐露する。

 とても笑えるものではなかった。

 なんせわたしが本来やるべき総大将の役割を押し付けたせいなのだから。


 でもそっか。そうだよなぁ。

 確かに柴田勝家と言えば、織田四天王筆頭、織田家北陸方面軍司令官を務めたほどの英傑であることには違いないんだけど、それはあくまで何十年も未来の話、だ。

 今ここにいるのは、普段泰然自若そうに見えても、まだ一六歳の少年に過ぎない。

 いくら将来有望と言ったって、そんな年の子に課す責任の重さではなかった。


「俺のつまらん矜持で主家を犠牲にするわけにはいきません。陣代の大任、まだまだ俺では力不足だったようです。誰か適任に代わって頂きたく」


 言って勝家殿は一歩後ろに下がり、深々と頭を下げる。

 男として、武士として、こんな事、恥以外の何物でもない。

 決して口にしたくなかったに違いない。


 だが、織田家の未来と天秤にかけ、今の自分では難しいと判断し、断腸の思いで言ってくれたのだろう。

 真に勇気ある決断だと思うと同時に、申し訳なさでいっぱいになる。

 でもだからこそ、


「却下します」

「っ!?」


 この返上を受け取るわけにはいかなかった。

 ここで陣代の任を解けば、それこそ本当に勝家殿の恥となり将来の汚点となる。

 周囲からは臆病者と揶揄されるようにもなるだろう。

 織田家の出世コースから外れる可能性も、あるかもしれない。

 そんな事を許すわけにはいかなかった。

 それになにより――


「むしろ今の言葉で、わたしは貴方こそ陣代に相応しいと確信しました」


 これはお世辞でも気休めでも何でもなく、わたしの心からの本心である。

 勝家殿がギョッと驚きに目を見開き、


「い、今の俺の体たらくを見て、どうしてそのような結論に?」


 戸惑いを露わに問うてくる。

 わたしは勝家殿の目をしっかりと見据え、


「『将なる者、時に臆病であるべし。いたずらに勇猛になるべきではない』!」


 力強く喝破する。

 今の勝家殿に、この言葉こそ相応しいものはないと思ったのだ。


「っ!?」

「三国志の三英傑の筆頭。治世の能臣、乱世の奸雄。曹操孟徳の言葉よ」

「あ、あの曹操の……」


 勝家殿がおおっとその目を見開く。


 兵法書の古典、武経七書のさらに筆頭格、『孫子』はこの時代の武士たちの必修書とも言うべき存在だが、その解説書である『魏武注孫子』もまた武士には広く読まれている。

 この『魏武注孫子』の著者が、誰あろう曹操だったりする。


 さらに言えば、わたしも最近知ったんだけど、実はまだこの時代、『三国志演義』は日本に入ってきてないっぽいのよね。

 知られているのは、史書の『三国志』だけ。

 そして、その『三国志』で作者の陳寿は『彼こそは時代を超えた英傑』と最大級の賛辞を曹操に贈っているのだ。


 そうつまり、二一世紀の人間には『三国志演義』の普及によってすっかり悪役のイメージの強い曹操であるが、実は戦国時代においては彼は悪役などでは全くなく、むしろ武士たちにとっては稀代の英傑であり、憧れの存在だったのだ。

 その言葉となれば、有難みも増すというものだった。


「わたしなりの解釈ですが、いたずらに勇猛とはただの無謀のことではないでしょうか」

「無謀、ですか」

「ええ、それこそ半年前の守山での成経のような事を言います」

「なかなか辛辣ですな」

「あいつには内緒ですよ」


 パチリとわたしは茶目っ気たっぷりに片目を閉じる。

 ちょっと落としてしまう成経には申し訳ないが、ここはあえて勝家殿の緊張をほぐすための人身御供になってもらおう。

 成長できたのは勝家殿のおかげもあるんだから、許せ。


「あいつは恐怖から目を逸らすために、それを認めたくないがために、変に虚勢を張って勝家殿に突っかかっていきました。内心負けるとわかっていながら。言ってしまえば、弱い犬ほどよく吠える、と言う奴ですね」

「は、ははっ、本当に辛辣ですな」


 さすがの勝家殿も、顔を引き攣らせる。

 優しいひとだから、成経の事が可哀想に思ったのかもしれない。


 ただまあ、事実ではあると思う。

 実のところ、成経の勘の鋭さは生来の臆病さに起因するものと、わたしはこっそり思っていたりする。

 誰より臆病だからこそ、死や危険の臭いに敏感になるんじゃないかな、と。


 だが一方で彼は、そんな臆病な自分を、意地でも認めたくなかったのだろう。

 男として生まれたからには、どんな敵にも怯まず、死を恐れず勇敢に戦い武功を挙げる一廉の武士になりたかったのだ。

 なまじ臆病だったからこそ、強く強く憧れたに違いない。

 そして過剰なまでにそうあろうとして、無謀な猪突猛進馬鹿になってしまったのだ。

 まあ、先の戦いで一皮剥けて、その辺は卒業した感じはするけど、ね。


「組頭、番頭程度ならいざしらず、大将たる者が無謀では務まりません。三十六計逃げるに如かず、時には撤退の判断が正解の時もありますから」


 勝敗は時の運、または勝敗は兵家の常と言う。

 百戦百勝できればいいが、実際の戦ではそうはいかないものである。

 もう勝ち目がないとわかれば、即座に撤退の判断を下し、損害を最小限に抑えるのもまた、有能な将の条件だった。


「それは……確かにその通りですな」

「ええ。その点、勝家殿は、今の自分では将に相応しくないと退く事が出来た。鬼柴田と称されるほど勇猛果敢でありながら、いざとなれば恥も外聞もなく、そういう選択を下せる。そんな貴方だからこそ逆に、大将たるに相応しいのです」

「……ふむ」


 勝家殿は口元に手をあて考え込むそぶりを見せる。

 多少なりともわたしの言葉が響いたらしい。

 よし、あともう一押しといったところか。


「怖いと思うのならば、自信がないのならば、幾重にも幾重にも事態を想定し、無数の対策を用意すれば良いのです。入念に準備をすればするほど、いざ戦に臨んだ時、泰然自若としていられるものですよ」

「先程のつや姫様のように、ですか?」

「ええ。想定の範囲内ならば、何が起こったところでなんら驚くことではありませんから」


 にっこり笑って、わたしも頷く。

 逆に言えば、出陣式の時のわたしは、明らかに準備不足だったなって思う。

 しかも一万の軍勢の注目を一身に浴びる圧というものを、全く想定していなかった。

 だからテンパって頭が真っ白になったのだ。


「そして、その想定を微に入り細を穿って行えるのは、臆病者だけ、ですよ」

「っ! 臆病者だけ、ですか」


 勝家殿が、ハッとしたように目を見開く。


「ええ。そうじゃないです?」

「まったくもって仰る通りですな!」

「でしょう? だから曹操も、『将なる者、時に臆病であるべし』という言葉を遺したのだと思います」

「なるほどなるほど! さすがは軍神素戔嗚尊スサノオノミコトの薫陶を受けた方ですな。大変勉強になり申した」


 勝家殿がニッと快活に笑うとともに、力強く頷く。

 その目や表情を見るに、どうやら迷いや葛藤は晴れたようだった。


 大軍を前に怖気づいてしまった自分を、決して悪いことではないと受け入れられたのだろう。

 大変良いことである。

 こうなればもう、まさしく鬼に金棒だった。

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